12.
午後。
ミシェルは分厚い革張りのバインダーを抱え、皇帝の執務室の扉をノックした。
用件は、先月の「月次税収報告書」の提出と承認印をもらうことだ。
彼女の改革により、帝国の財政は劇的に改善し、今月も過去最高益を叩き出していた。その朗報を届けるための入室だったのだが――。
「……陛下?」
入室したミシェルが見たのは、奇妙な光景だった。
ギデオンが暖炉の前に立ち、何か上質な羊皮紙をビリビリと引き裂き、無造作に火の中へ放り込んでいる。
「おや、何をしておられるのですか」
「ゴミの焼却処分だ。阿呆共から、阿呆な申し出が届いてな」
ギデオンは燃え上がる紙片を冷ややかな目で見下ろしていた。
その紙片には、見覚えのある王国の紋章がちらりと見えた気がしたが、すぐに灰となって崩れ落ちた。
その時、廊下が少し騒がしくなった。
どうやら城門の方で、何やら揉め事が起きているらしい。
近衛兵の声が微かに聞こえる。
『お引き取りください! 陛下は多忙であらせられる!』
『頼む! 一目! ミシェル様に一目だけでも! 国の存亡がかかっているのだ!』
聞き覚えのある悲痛な叫び。
かつてミシェルに仕事を押し付けていた、王国の宰相の声だ。
「……あれは」
「気にするな」
だが騒ぎは止まらない。耐えきれなくなったのか、ギデオンは通信用の魔道具を使って、近衛へ連絡を取る。
「追い返せ。……これ以上、我が国の補佐官を侮辱するような寝言をほざくなら、宣戦布告とみなして『相応の対応』をすると伝えろ」
「はっ!」
やがて外からは、「ひぃぃっ! す、すみませんんぅぅ! 出直しますぅぅ!」という情けない悲鳴と、転がるように走り去る足音が聞こえてきた。
再び、静寂が戻る。
ミシェルはバインダーをデスクに置きながら、淡々と尋ねた。
「一体、何だったのですか」
「お前の古巣の馬鹿どもだ。お前がいなくなって困っているらしい」
ギデオンは暖炉から離れ、ソファに深く腰掛けた。
「『まずは戻ってこい。待遇は追って考える』だとさ。具体的な条件提示もなく、ただ『困っているから助けろ』という泣き言だ」
「……そうですか」
ミシェルは眉一つ動かさなかった。
自分のいない王国で、決済が滞り、物流が乱れ、国が傾いていることなど、容易に想像がつく。だが、それはもう彼女の責任ではない。
ギデオンは足を組み、試すように、あるいは確認するようにミシェルを見上げた。
「……まあ、今更だ。俺たちには関係ない話だろ?」
その言葉に、ミシェルは一瞬も迷わなかった。
彼女は持ってきた報告書を開き、突き出した。
「ええ、関係ないですね。私はもう、『帝国の人間』ですので」
その声には、未練も、感傷も一切なかった。
あるのは、目の前の「帝国の黒字」に対する誇りと、現在の職務への誠実さだけ。
ギデオンは少し目を丸くした後、満足げに鼻を鳴らした。
「そうか。なら仕事に戻れ」
「はい。……あ、陛下。羊皮紙を燃やすと煤が出ます。煙突掃除の手間が増えるので、次からはシュレッダーにかけてください」
ミシェルが真顔で注意すると、ギデオンはククッと喉を鳴らして笑った。
「ふ……お前くらいだ、この俺に意見をする女は。本当に面白いぞ、ミシェル」
祖国の崩壊などどこ吹く風。
二人はそのまま、いつものように「帝国の未来」のための業務を再開したのだった。