13.
その日の朝、ミシェルは最悪の目覚めを迎えた。
頭を揺らすような貧血感。
ミシェルは鏡の前で、青白い自分の顔を見て溜息をついた。
今日は重要な予算会議の資料を仕上げる予定だった。休むわけにはいかない。
前世のブラック企業時代も、王国の冷遇時代も、「這ってでも来い」「管理不足だ」と罵られるのが常だったため、彼女の中に「体調不良で休む」という選択肢は存在しなかった。
(鎮痛剤を飲めば動けます。顔色は……化粧で隠せばなんとかなるでしょう)
ミシェルは厚めに白粉をはたき、気合を入れて執務室へと向かった。
◇
執務室。
ミシェルはいつものように、ギデオンの向かいのデスクで書類処理を行っていた。
背筋を伸ばし、淡々とペンを走らせる。
時折襲ってくる痛みの波を、眉一つ動かさずにやり過ごす。完璧な隠蔽工作だと思っていた。
だが、その静寂は唐突に破られた。
「……ミシェル」
「はい。何かミスがありましたか?」
ギデオンが書類から目を離し、こちらを見ている。
ミシェルは手を止めて顔を上げた。
ミスなどしていないはずだ。計算も、清書も完璧だった。
「今日はもう帰れ」
「……はい?」
ミシェルは耳を疑った。
まだ昼前だ。業務は山積している。
「あの、まだ定時までは……」
「顔色が悪い。見ていて痛々しい」
ギデオンは短く告げた。
病名も、理由も聞かない。ただ、目の前の部下の状態だけを見て、冷徹に判断を下していた。
「万全でない人間に無理をさせる趣味はない。……下がって休め」
「ですが、この書類だけは今日中に……」
「命令だ」
ギデオンの声色が、一段低くなった。
それは威圧ではなく、確固たる意志の表れだった。
「俺の補佐官が倒れれば、それこそ帝国の損失だ。効率が落ちる。大人しく寝ていろ」
「……申し訳、ありません」
そこまで言われては、従うしかなかった。
ミシェルは悔しさと、申し訳なさで胸を締め付けられながら、フラつく足取りで執務室を後にした。
◇
自室に戻ったミシェルは、ベッドに倒れ込んだ。
悔しかった。
役立たずだと思われただろうか。体調管理もできない無能だと、呆れられただろうか。
自己嫌悪に沈みかけていると、コンコン、と控えめなノックの音がした。
「失礼するわよ。……あらあら、本当に真っ青ね」
入ってきたのは、白衣を纏った妙齢の女性だった。
宮廷医のフローラだ。ギデオンとは幼い頃からの付き合いがあると聞いている。
「フローラ様……? どうしてここに」
「どうしてもこうしてもないわよ。陛下が執務室から飛んできて、『補佐官が死にそうだ! 至急診てやれ!』って大騒ぎするんだもの」
「え……?」
ミシェルは目を丸くした。
あの冷徹な皇帝が、大騒ぎ?
フローラは手際よく薬湯を用意し、温かい湯たんぽをミシェルの腹部に当ててくれた。
そして、苦笑しながら語りかけた。
「あの子も不器用ねぇ。昔から、身内のことになると過保護なのよ。……顔は怖いし口も悪いけど、根は優しい子だから」
「優し、い……」
「そうよ。あんな風に、誰かのために医者を動かすなんて初めて見たわ」
フローラの言葉に、ミシェルは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「効率」や「損失」という言葉の裏にあったのは、純粋な部下への配慮だったのだ。
前世でも、王国でも味わったことのない、人間扱いされた感覚。
ミシェルは薬湯を飲み干すと、安堵と共に深い眠りに落ちた。
◇
翌日。
すっかり体調が回復したミシェルは、いつも通り執務室へ出勤した。
「おはようございます。……昨日は、ご心配をおかけしました」
ミシェルが深々と頭を下げると、ギデオンは書類から目を離さずに、チラリとこちらを一瞥した。
「……顔色は戻ったようだな」
「はい。おかげさまで」
「ならいい」
それだけだった。
嫌味も、叱責もない。
ミシェルが「ご迷惑を」と謝罪の言葉を続けようとすると、ギデオンはそれを片手で制した。
「万全の状態こそが最大の貢献だ。……座れ、仕事だ」
「はい、陛下」
ミシェルは席につき、新しい書類を広げた。
冷徹に見えて、実は誰よりも人を大切にする主君。
この「ホワイト」な職場環境に、ミシェルは密かに、しかし確かに満足していた。