【3】チェスと嫉妬
今日のデートは、あの酒場だ。
下町の、気取らないお店。私がまだグラディウス様の『夜遊び』を疑っていた頃、こっそりあとをつけた思い出の場所だ。
今日が月に一度のチェス大会の日だと聞いて、「ぜひ行こう」という話になった。
「……でも、少し心配です。余計なことを言って、ボロを出したらどうしようって」
酒場に向かう細い路地を歩きながら、私はそう呟いた。
「大丈夫だろう、君なら。もし困っても、私がうまくやるよ」
茶目っ気のある笑みを浮かべて、グラディウス様が応える。
「気を付けるとすれば、今日の私たちは『すでに夫婦』という点だ」
「分かりました、グラ……」
うっかり本名を呼びかけた瞬間、彼はそっと私の唇に人差し指を押し当てた。
「……」
頬が、じわっと熱くなってくる。
「……ディー様」
「そこは呼び捨てだろう?」
「…………ディー」
「いいね」
満足そうに、頷いている。……ずるい人。
酒場の扉を開けると、木の香りと人の熱気が一気に押し寄せた。
「おっ。ディーの旦那じゃねえか!」
顔なじみの客たちが、一斉にこちらをふり向く。
「久しぶりだなぁ。最近見ねぇから、心配したぞ」
「少し仕事が立て込んでいてね。会えて嬉しいよ」
自然なやりとりも、すっかり堂に入っている。
「今日は嫁さんも一緒かい?」
「……こんばんは」
緊張しながら挨拶をすると、みんな笑顔で迎えてくれた。
「妻のエヴァだ」
「「「おぉー」」」
奥さん。エヴァさん。エヴァちゃん。
色々な呼ばれ方に、胸がむずむずしてしまう。
陽気な客の輪に囲まれ、ふと気づいた。
(……あ)
見慣れた顔が、数人混じっている。
今日は酔っ払いに扮しているけれど、昨日は郵便配達員だった人。
(諜報部の方だわ)
他にも、さりげなく出入り口に目を配っている人がいる。
私たちのお忍びデートは、常に護衛たちに見守られているのだ。彼らは身なりも顔立ちも目立たないようにしているけれど、流石に記憶に残ってきた。
(……今日もお世話になります)
心の中で礼を言い、私は『ディーの奥さん』に徹して楽しいひとときを過ごした。
やがて、中央のテーブルが片づけられ、何枚ものチェス盤が並べられた。
お店の空気が変わり、客の視線がチェス盤に集まる。
「チェス大会の時間だな」
「はい。腕が鳴ります」
私が初めてチェスをしたのは、この店だった。あれからずいぶんと練習して、強くなったと思う。
今日は私たち二人ともエントリーして、頂点を目指して戦うことにしていた。店員を呼んで、別々に参加手続きを済ませる。
「エヴァ、決勝戦で会おう」
「はい」
拳をこつん、と軽く合わせてから私たちはそれぞれの卓についた。
そして開始されたチェス大会。
たくさん並んだチェス盤で、一斉に第一戦が開始する。
酒場のざわめきの中で、盤面を静かに駒が進んでいく。
「エヴァちゃん、やっぱり強えなぁ」
「なんてきれいな勝ち筋なんだ」
「おぉ……あっという間に勝っちまった」
一戦。
また一戦。
順調に勝ち進んでいった。
ちらりとグラディウス様のほうを見れば、彼も当然のように勝ち進んでいた。このまま行けば、本当に決勝で戦えるかもしれない。
(……いけない。集中しなきゃ)
4戦目の相手は、私と同じくらいの年の青年だった。
生き生きとした駒の運び。かなりの手練れだ――でも、少し戦略が荒い。
「チェックメイト」
十三手目で私が勝利を収めると、周囲からワっと歓声が上がった。
「……参った!」
青年は両手を上げ天井を仰ぎ、ぐったり疲れ切った様子だ。
ふぅ――と長い溜息をついていたけれど、次の瞬間パッと顔を輝かせて私に駆け寄った。
「あんた、強いなぁ!!」
迷わず私の手を握る。いきなりのことで、びっくりしてしまった。
「こんなにきれいな打ち方をする奴、初めてだよ。本当にすげぇ」
「ど、どうも……」
周囲の空気がわずかに張り詰める。護衛の皆さんの気配だ。
(いえ、大丈夫ですからね……? この程度、落ち着いてくださいね……?)
「今度またやろうぜ。オレ、あんたがすごく気に入った」
青年は頬を染め、そんなことを言ってきた。
「え。……いえ、私は」
青年は畳みかけるように聞いてきた。
「あんた、どこ住んでるの? メシおごるからさ、近いうちに――」
と。次の瞬間。
「ひっ……」
と、青年が声を引きつらせた。
(……どうしたの?)
青年の目が私の後ろに注がれて、顔をこわばらせている。
「私の妻に、何か用かな?」
ふり向けば、ディー……グラディウス様が立っていた。
淡い笑みを張り付けている美貌。しかし、目がまったく笑っていない。ふつふつと黒いものが立ち昇って見える……。
「つ、妻……?」
「君と会うのは初めてだね。彼女は私の妻なんだ」
青年が青ざめて後ずさった。
「ひ、人妻とは知らなくて! ……す、すみません!!」
慌てふためき、逃げるように去っていった。
「……ディー」
「おかしな虫が近寄るなら、私は棄権して君の隣に立っていよう」
ぐっと抱き寄せ、そんなことを言ってくる。
「何を言っているんですか。棄権なんてダメです。決勝戦で対決する約束でしょう? 次は準々決勝なのに」
「だが、君の騎士が必要だ」
本気で言っているらしい。
早く卓につかないと、本当に棄権扱いになってしまう。
(どうしよう……)
私が困っていると。
「おや。旦那様とエヴァ奥様ではありませんか?」
という明るい声がした。
ふり向けば、そこにいるのは、
「……ザックさん!」
内務大臣のザクセン卿が、平民姿で立っている。
「いつからそこに……?」
「ちょうど今かなぁ、って言う感じですね。仕事上がりに、一杯やろうかなぁと!」
にこにこと笑いながら、ザクセン卿は扉のほうに手を振った。
「今日は、同僚たちも一緒なんですよ!」
手を振る先には、バルデン卿とペールマン卿の姿がある。
(国家の中枢が酒場に集結している……)
私が唖然としているうちに、二人もこちらにやって来た。
「旦那様。次の試合が始まっちまうんじゃないですか? さっさと卓へどうぞ」
「奥様の身辺警護でしたら、使用人にお任せください」
「わざわざ来たのか? 暇だな」
グラディウス様は呆れた様子で3人を見ていたけれど。
やがて、ふっと笑った。
「……お前たちなら、いいか。頼んだ」
そう言って、自分の対戦卓へと向かっていった。
「さあ、奥様。どうぞ全力でお楽しみください」
「……あ、ありがとうございます」
三人の『騎士』に見守られ、私も次の試合に向かった。
――そして、決勝戦。
「会えて嬉しいよ、エヴァ」
「負けませんよ。ディー」
頂点を競い合うのは、私たち『夫婦』だった。
「夫婦対決だ!」
「すげぇな、この夫婦!」
酒場が熱を帯びている。
駒を置き合う音が、互いに心地よく響く。
ああ――やっぱりこの人とのチェスが、一番楽しい。
互いに真剣で。けれど、とても幸せだ。
歌い踊り合うように、私たちは盤上でチェスを奏でた。
いつもありがとうございます。
次話が【休暇編】の最終話となります……! 最後までお楽しみいただけたら嬉しいです^^