【4】私のすてきな旦那様《Epilogue②》
チェス大会の決戦――頂点を競い合うのはグラディウス様と私だ。
周囲の熱気と歓声の中、私たちは対局している。
――いつの間にか互いの駒が少なくなり、戦いは終盤に差し掛かっていた。
グラディウス様の指が、クイーンの駒に触れた。
(――来る)
私は、彼の攻め方を読めていた。
これまで何度も、彼と対局してきたから。この酒場で初めてチェスをした夜も、ご褒美で朝から晩まで楽しんだ日も。
彼の細やかな駒の運びも、密やかなのに大胆な戦略も、たくさん見てきてよく知っている。
立ち向かおうと、ナイトを敵陣へと躍らせた。
「……そう来たか」
感心するように、グラディウス様が呟いていた。
三十三手目。
グラディウス様が斜め後方に王を逃がし、私はその退路を塞ごうとする――けれど、まだ追いつめ切れてはいない。
そして――。
「…………」
ふと、グラディウス様の手が止まった。
私も、同時に静止していた。
二人とも盤面を見つめて沈黙――やがて、お互いの顔を見合わせた。
(もう、動かせる駒がない。これって――)
「引き分けだ!」
観客の誰かが、ぽつんと呟いた。
一瞬酒場が静まり返り――次の瞬間、どっと歓声が湧いた。
「おおおおおおお――!」
「夫婦で引き分け!? 最後まで互角じゃねえか!」
張り詰めていた糸が切れて、椅子の背もたれに寄りかかった。
――ふぅ。と、長い息を吐く。
胸がいっぱいで、顔が勝手に笑っていた。
ふと対面を見れば、グラディウス様も肩の力を抜いて息を吐いていた。
「エヴァ、ありがとう。楽しかった」
噛みしめるようにそう言って、笑っていた。
「引き分けってことは、今日の優勝はこの二人だな!」
「乾杯しよう! 旦那とエヴァちゃんに乾杯!!」
祝賀ムードの中、手に手にグラスを掲げて乾杯した。
グラディウス様と私は輪の真ん中で、皆の笑顔に囲まれている。
「エヴァちゃん、見惚れちまったよ」
「ディーの旦那をやりこめるなんて、さすがだなぁ」
気取らない笑顔を浮かべて、みんなが褒めてくれていて。……なんだか、くすぐったい。
「あの十四手目の技! 今度オレにも教えてくれよ」
「いえ、そんな大したものでは……」
ふと、私の腰に腕が回された。グラディウス様の腕だ。
「……私の妻は人気者だね」
ニコニコしながら、反対の手に持ったグラスを口に運んでいる。笑っているのに、なぜかグラスを握る指先に力が籠っているのは、もしかして……
(拗ねてるの?)
まさか、こんなことで? でももしそうなら……ちょっとかわいい。
私はクスっと笑ってグラディウス様を見つめた。
「あの。私よりも、ディーのほうがすごかったですよ?」
「ん?」
「引き分けとはいえ、実力はディーが上でした。なので皆さん、私ばかりじゃなくて……その。ディーのことも褒めていただけたら……」
彼は一瞬、きょとんとした。
それから、耐えきれないように小さく噴き出す。
「君は、意外と鈍いな」
「え?」
「私は勝ち負けの話をしてるんじゃない」
次の瞬間、腰を引き寄せられた。
逃がさないとでもいうように、しっかり掴まえられてしまう。
「皆が君に近づきすぎだ」
耳元に、低い声が落ちてきた。
「……私の妻だぞ?」
私の頭に軽くあごを乗せ、そんなことを言ってきた。
(……そっち!?)
頬が一気に熱くなる。
「おいおい。旦那が本気だぞ!」
「今日の旦那は怖ぇなあ!!」
腕の中に閉じ込められたまま、私は目を白黒させていた……。
*
――どれほどの時間が流れただろう?
酒場の熱狂が一段落して、客たちがそれぞれの席に戻り始めたころ。
「では、我々はこのあたりで」
と、すぐそばで飲んでいたペールマン卿が静かに声をかけてきた。
「帰るのか?」
グラディウス様が尋ねると、他の二人も頷いている。
「ええ。明日の仕事がありますからね」
「これ以上はさすがに野暮ってもんだろう?」
それじゃあ、ごゆっくり。と、礼をすると三宰相は帰っていった。
「――カウンターに行こう」
グラディウス様は私の手を取って、カウンター席に移動した。並んで座り、二人分のお酒をオーダーしてくれた。
店の奥ではまだ笑い声が続いているけれど、こちらには他の人もおらずしっとりとした余韻に包まれている。
「お祭り騒ぎでしたね」
「君が人気者すぎるから」
バーテンダーが、お酒を私たちの前に置いた。
「…………さっき、本当に妬いていたんですか?」
「そうだよ。君を取られたら困る」
「またそんなこと言って」
ふふ。と笑ってしまう。
「取られる訳ないでしょう? 私はディーの『奥さん』なのに」
そっと彼の瞳を覗き込むと、照明の灯りを受けて優しい色に揺れていた。
「――そうだね」
かちん、とグラスを合わせて乾杯する。
「……毎日幸せです」
柔らかい沈黙の中、私はぽつりと言った。
「私もだよ」
「でも、もうすぐ休暇が終わってしまいますね」
「ああ。新しい日々の始まりだ」
グラディウス様の声は、とても明るい。
彼は時の流れを惜しまずに、前へと進む人なのだ。
「やっぱり強いですね、あなたは」
「君のおかげだよ。朝が来るのがこんなに楽しみなのは、初めてなんだ」
彼の指が、そっと私の指へと絡む。
「楽しみは、これからも増えていく。エヴァと一緒なら」
私はうなずいて、彼に身を寄せた。
温もりが、じわりと頬に伝わってくる――私の大好きな、この人の香り。
「ずっと、一緒です」
他の誰にも聞こえないよう、少し背伸びして彼の耳元に唇を寄せた。
「大好きです。――私のすてきな旦那様」
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました……!結婚式や幸せいっぱいの新生活、書きたいことがたくさんあるのですが、ひとまずここで一区切りとさせていただきます。ご感想などありましたらお気軽にお寄せください。
次の長編も今春公開予定です。またお会いできたら嬉しいです^^