泣き虫 四
それから幾日かが過ぎた。
パウルスは所用を終え、暮れかかるニュルンベルクの街を後にして、郊外の道場へと戻る途上にあった。
ふと、道場の外れ——川縁のくさむらの陰に、人の気配を感じた。
目を凝らすと、ひとりの少女が、あしの合間からじっと道場をのぞいている。
年の頃は、まだ十五には届かないぐらい。商家の女中か、あるいは職人の娘と見えるが、姿勢ただしく、面差しに幼さよりもむしろ切迫したものがあった。
パウルスは無意識に足を止め、近くの立木の影に身を寄せた。
少女はじっと息を殺し、道場の戸口に目を据えたまま、まるで何かを量っているようだった。
その時、少女がぱっと振り向いた。
色素の薄い碧眼が、こちらを向く。
パウルスは思わず息を呑んだが、木の陰に身を潜めたまま、視線を外す。
周辺視で少女の動きを探ると、少女はしばらく様子をうかがっていたが、やがて、するすると街の方角へと立ち去った。
歳に似合わぬ身のこなしの確かさが、不気味であった。
パウルスは道場に戻ると、戸締まりをいつになく厳重にし、その夜は灯を落とすまで耳を澄ませていた。
三日ほどが過ぎた。
その後、あの少女の姿は見かけぬままだが、どうにも胸のざわめきが収まらない。
パウルスは父ヨハネスに相談するため、ホーホベルク家の家族塔を訪れた。
通されたのは、いつもの家族の間ではなく、来客用の応接間であった。
中にはヨハネスとゲルトルート、それに先日の若き御曹司が座しており、その後ろに、三日前のあの少女が立っていた。
不意を突かれ、パウルスは息をのんだ。
少女が一瞬こちらを見たが、すぐに視線を伏せる。
ゲルトルートに促され、パウルスは黙って席に着いた。
「こちらは?」
パウルスが問うと、ヨハネスらが答えるより早く、若者が立ち上がった。
「ハイデルベルク近くの交易商、グラーフ家のレオンハルトと申します。商用でしばしばニュルンベルクに参りますが、先日はご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません」
十五をいくぶん過ぎたばかりの少年であろう。
衣服は上質、仕立ても丁寧。
この時代、貴族と平民のあいだには入り組んだ中間層があった。
騎士爵、男爵、エドラー、無称の貴族、自由身分の富農、裕福な都市商人、等々。そうした層は、広く「殿」と呼ばれた。
ヨハネスとゲルトルートも、その大きな意味でのヘル階級に属していたが、このレオンハルト殿は、その中でもひときわ上の出に見えた。爵位を持つ商家なのかもしれぬ。
そんな少年が素直に頭を下げる姿は、誠実にも映り、同時にどこか気弱にも思えた。
ヨハネスはうなずき、穏やかに言葉を返した。
「謝意は確かに受け取りました。若気の過ちなど誰にでもあるもの。だが、過ちを恥じ、改めようとする志を持つ者は立派です。——ときに、先日のご家来はどうされました?」
問われたレオンハルトの顔に、かげりが差した。
「彼らは……家長の叔父が私につけたお供でして。その為、どうにも私の言う事を聞いてくれず、今日も同行させる事ができませんでした」
ヨハネスは少しばかり難しい顔をして、あご髭をしごいた。
「それはいかんな。家長が誰であれ、主君を軽んじてよいはずがない。あまりに分をわきまえぬ者どもなら、叔父上にご相談されてみては?」
そう言われ、レオンハルトはうつむいた。
そして顔を上げると、思いつめたような瞳で、身を乗り出した。
「リヒテナウアー様。どうか私に、剣術をご指南いただけませんか。先日のご叱咤、大変胸に響きました。お恥ずかしながら、幼いころから臆病で、家人にも軽んじられております。私は、そんな自分を変えたいのです」
その熱に満ちた声を聞きながら、パウルスは心の内で、——無理だ、と思った。
あのような温室育ちの若者に扱えるほど、剣はなまやさしいものではない。
ところがヨハネスは、嬉しげに頷いた。
「おお、その志、御立派ですな。とはいえこの老骨、すでに隠居の身。ここは息子のパウルスに稽古をつけさせましょう。よろしいかな?」
教えるのはパウルス――。
当の本人は言葉を失ったが、レオンハルトは顔を輝かせ、明朝さっそく道場を訪ねると約した。
ゲルトルートが手際よく使用人に道案内の段取りをつける。
やがて、レオンハルトと従者の少女は、ホーホベルク家の一同に見送られて屋敷を辞した。
家族の間に戻るや、ヨハネスが言った。
「おい、そのように顔に不満を出すでない」
「……あの御曹司に、私が、ですか」
「そうだ。教えるにあたってはよく考えよ。柱打ちはほどほどに、早めに自由稽古を楽しませてやれ。手を抜く必要はないが、褒めて伸ばすようにな」
その言葉に、パウルスは思わず眉を吊り上げた。
重剣での柱打ちは、リヒテナウアー流の第一歩である。
戦の初めから終わりまで剣を振り続ける体をつくる――それができてこそ、技も心得も身につく。
「そんな幇間(宴席などで客の機嫌をとり、酒宴の興を助ける職業。太鼓持ち。男芸者)稽古など、できません。それでは身を守る事すらできるようになりません!」
中世の貴族は、近世以降のそれと異なり、蛮族の気風を失っていない。
本格的な戦争でなくても、暴力沙汰に接する機会はいくらでもあった。
ヨハネスは少し鼻を鳴らした。
「では聞くが、お前が真剣に鍛えたとして、あの若者を一人前にできるのかよ?」
その一言に、パウルスは言葉を失った。
父は軽く鼻息をつき、語調を和らげた。
「人には生まれながらの性分というものがある。あのレオンハルト君は、自ら剣を振るうよりも、別のかたちで戦うほかあるまい」
そして、じろりと息子を睨む。
「それにな。お前、まさか末永く庇護者になってくださるかもしれぬ良客を、追い返す気ではあるまいな?」
パウルスは言葉に詰まった。
ヨハネスはふっと笑みを浮かべる。
「ふん。どうやらこれは、お前にとっても修行になりそうだな。剣のことではない。商いのほうの、だ」