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庚申塔(こうしんづか)とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書
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庚申塔とは? わかりやすく解説

庚申塚

読み方:こうしんづか
別表記:庚申塔

「庚申塚」とは、庚申信仰呼ばれる民間信仰もとづき村境街道などに建立され石塔のことである。「庚申塔」とも呼ばれる。塔には青面金剛彫られたり、あるいは「庚申塔」の字が彫られたりする。

「庚申塚」の概要

「庚申塚」は、「庚申信仰に基づき60日おきに行われる庚申講庚申待)」の行事3年にわたり勤め上げた記念に設置されるとされる

庚申信仰」は、道教仏教神道その他が綯交ぜになった日本の民間信仰である。

庚申」は、干支(「十干」と「十二支」の組み合わせによる「六十干支」のこと)における第57番目の干支組み合わせである。「かのえさる」ともいう。六十干支60を1周期として巡る。つまり60日ごとに「庚申の日」が訪れる。

庚申の日」には、人の体内にいると考えられていた「三尸虫」というが、夜中抜け出て天帝天の神)のもとへ行き宿主悪事告げ口する、これにより宿主寿命が縮む、と信じられていた。

三尸虫」は、庚申の日夜中宿主眠っている隙に抜け出すとされた。そのため、庚申の日眠らずに夜を明かせば、三尸虫告げ口食い止めることができる、寿命縮めなくて済む、と信じられた。

こうして庚申の日夜明かしすることを「庚申待」または「庚申講」という。この庚申待は、たいてい集落の者が集まって行い皆で寝ず過ごし寄り合い宴会の趣を呈したらしい。

庚申待」は3年間をひとつの節目と、3年にわたり「庚申待」を継続した(計18行ったことになる)暁に、記念として石塔立てた。それが「庚申塚(庚申塔)」である。

庚申信仰歴史古く平安時代にはすでにその原型見られるが、当初貴族階級習わしだった。鎌倉室町江戸にかけて徐々に武家から民間へも広がった。庚申塚の建立室町時代始まったとされ、江戸時代になると盛んに建てられるようになった

庚申塚は石で作られることが多い。たいてい何か彫られるが、彫られる内容多種多様である。仏教的に「庚申本尊とされる青面金剛」の姿が彫られるともあれば、「庚申かのえさる)」に因んで三猿見猿聞か猿言わ猿)」が彫られたり、さらには神道要素加わって猿田彦神」の姿が彫られたりすることもあった。

庚申塚はしばし村境道端などに設置された。猿田彦神邇邇芸命ににぎのみこと)を道案内した神とされ、庚申塚に道案内要素見出されたとも考えられるし、庚申塚に塞神・道祖神要素見出されたとも考えられる道標役割伴っていたとも考えられる

「庚申塚」の発音・読み方

「庚申塚」の読み方は、一般的にはこうしんづか」である。ただし栃木県佐野市地名である「庚申塚町」は「かねずかちょう-まち」と読む。

「庚申塚(停留場)」とは

「庚申塚」は、東京都豊島区西巣鴨にある停留場の名称でもある。「東京さくらトラム」の愛称親しまれている路面電車都電荒川線停留場として有名である。

この停留場「庚申塚」の近くには「巣鴨猿田彦大神庚申堂」がある。

こうしん‐とう〔カウシンタフ〕【×庚申塔】


庚申塔

読み方:コウシントウ(koushintou)

庚申信仰もとづいて設けられ石塔一種


庚申塔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/27 06:07 UTC 版)

神奈川県藤沢市 伊勢山公園にて、2017年8月18日撮影
栃木県日光市にて撮影

庚申塔(こうしんとう)は、庚申塚(こうしんづか)ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多い。塚の上に石塔を建てることから庚申塚、塔の建立に際して供養を伴ったことから庚申供養塔とも呼ばれる。

庚申待(庚申講)とは、人間の体内にいるという三尸虫(さんしちゅう)というが、庚申の日の夜[1]寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くとされていることから、それを避けるためとして庚申の日の夜は夜通し眠らないで天帝や猿田彦や馬頭観音や青面金剛を祀り、勤行をしたり宴会をしたりする風習である。

庚申塔の石形や彫られる仏像、神像、文字などはさまざまであるが、干支で猿に例えられるから、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫り、村の名前や庚申講員の氏名を記したものが多い。仏教では、庚申の本尊は青面金剛とされるため、青面金剛が彫られることもある。神道では猿田彦神とされ、猿田彦神が彫られることもある。また、庚申塔には街道沿いに置かれ、塔に道標を彫り付けられたものも多い。さらに、塞神として建立されることもあり、村の境目に建立されることもあった。

庚申塔は沖縄県など南西諸島を除く全国で分布が確認されているが、地域によって建立数に差が見られる。 例えば関東地方では数多く建立されているが、日本における庚申信仰の中心的な寺社がある京都大阪など関西では庚申塔の建立は比較的少ない傾向がある。確認されている現存最古の庚申塔は埼玉県にある庚申板碑で文明3年(1471年)であり、当初は板碑や石幢などが多い。青面金剛刻像は福井県にある正保4年(1647年)が現存最古とされている。なお、奈良東大寺所有の木像青面金剛は鎌倉時代の作とされている。

歴史

庚申塔の建立が広く行われるようになるのは、江戸時代初期(寛永期以降)頃からである。以降、近世を通して多数の庚申塔が建てられた。当初は青面金剛や三猿像のほか、阿弥陀、地蔵など主尊が定まっていない時期を経て、徐々に青面金剛像が主尊の主流となった。その後、江戸中期から後期にかけて「庚申塔」あるいは「庚申」と文字のみ彫り付ける形式が増加する。

兵庫県豊岡市但東町では、石造庚申塔が77基(1956年以前の合橋村35基、高橋村21基、資母村21基)確認され、18世紀から20世紀初めに多く造られている[2]

明治時代になると、政府は庚申信仰を迷信と位置付けて街道筋に置かれたものを中心にその撤去を進めた。さらに高度経済成長期以降に行われた街道の拡張整備工事によって残存した庚申塔のほとんどが撤去や移転されることになった。

現在、残存する庚申塔の多くは寺社の境内や私有地に移転されたものや、もともと交通量の少ない街道脇に置かれていたため開発による破壊を免れたものである。田舎町へ行くと、今でも道の交差している箇所や村落の入り口などに、「庚申」と彫られた石塔を全国で見ることができる。

ギャラリー


3Dモデル

脚注

  1. ^ 零時、十二支文化圏ではいわゆる「子の刻」に日が変わる、とするのは近代の概念で、以前は限られた知識層(たとえば本居宣長が、家族に自分が未明に亡くなった場合には、命日は翌日である旨をわざわざ注意している)以外は、翌日の日の出をもって日が変わると考えるのが一般的であったことに注意。
  2. ^ 但東町教育委員会『但東の庚申塔』、1999年、pp.6-7

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