錯体
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/01/26 04:58 UTC 版)
錯体(さくたい、英語: complex)もしくは錯塩(さくえん、英語: complex salt)とは、金属と配位子が配位結合した構造を持つ化合物を指す。中心金属の酸化数と配位子の電荷が打ち消しあっていないイオン性の錯体は錯イオンとも呼ばれる。金属錯体は、有機化合物・無機化合物のどちらとも異なる多くの特徴的性質を示すため、現在でも非常に盛んな研究が行われている物質群である[1]。錯体を研究対象とする学問として錯体化学がある。
中心金属をルイス酸、配位子をルイス塩基として考えることができる古典的な錯体をウェルナー型錯体、そうでないものを非ウェルナー型錯体と呼ぶ[2]。
概要
錯体とは、金属原子の周囲に配位子と呼ばれる物質が配位結合してできた化合物である[3]。中心金属は配位子は有機分子であるという場合も多く、錯体を研究対象とする錯体化学は有機化学と無機化学が融合した分野であるといえる[1]。錯体は19世紀にアルフレート・ヴェルナーが配位説を提唱してからその研究が始まり、現代においてもサンドイッチ化合物といった有機金属錯体の発見やクラウンエーテルなどによる錯形成反応を応用したホスト・ゲスト化学の創設、多孔性配位高分子の開発など、盛んに研究が行われている[4][5][6][7]。錯体と配位子の相互作用を説明する理論として、結晶場理論と配位子場理論が存在する[3]。結晶場理論は配位子を「金属原子を取り囲む負の電荷」と近似して、配位子(負電荷)の電場(結晶場)と中心金属の電子の相互作用を考える理論である[3]。結晶場の影響を受けて中心金属の電子では縮退が解け、エネルギー準位の分裂が起きるとされる[3]。結晶場理論に、配位子の電子軌道の影響も考慮した理論を配位子場理論という[3]。配位子場理論では、配位子の電子が作る電場(配位子場)金属原子の軌道分裂を定量的に考えることができる[3]。錯体における金属原子の電子軌道分裂などにより、錯体の光吸収や磁性を説明することができる[3]。
錯体の構造は配位数に応じて様々な形態が存在しており、物によっては幾何異性体や光学異性体が存在する。dブロック元素錯体に比べてランタノイド錯体やアクチノイド錯体などは高配位数であるものが多い[8]。配位子は配位子置換反応を経て置換され、異なる錯体に変化することができる。
錯体は広範な分野で応用されており、有機化学においてはチーグラー・ナッタ触媒やジェイコブセン触媒に代表されるように、触媒として重要な役割を担う[9][10]。生体内においても、酸素輸送を担うヘモグロビンのヘム分子や光合成を司るクロロフィルなど、生命活動の根幹を支える金属タンパク質として存在する。また、その特有の呈色性質を利用し、分析化学における金属指示薬や、工業的な顔料としても広く実用化されている[9][10]。
名前について
錯体の「錯」とは「複数の物が交じる」等の意味がある。 一方、英語では complex というが、これは2種類以上の混ざりものという意味があり、例えばポリマーに酸化物を練り込んだものもcomplexである。錯体がcomplexと呼ばれるのは、配位子と金属イオンとの「混ざりもの」であったからであるが、錯体は「純物質」であり、明確に区別したい場合には「配位化合物」「錯化合物」と呼ぶ場合もある。この英語訳は coordination compound である。
錯体は、歴史的には大きなイオンとして研究が進んだ。そのため、昔は「錯塩」と呼んだが、中性の配位化合物についても研究が進み、現在では錯体と呼ぶのが一般的である。
歴史
錯体は近代化学の黎明期から認知されており、プルシアンブルーといった顔料が知られていた[7]。19世紀後半になると化学者らは実験により、こういった顔料の不思議な性質を発見した[7]。すなわち、[CoCl
3]6NH
3のような金属化合物は特定の成分比においてのみ存在し、また成分比が異なると性質が大きく違ったということである[7]。[CoCl
3]6NH
3を例に挙げると、[CoCl
3]6NH
3、[CoCl
3]5NH
3、[CoCl
3]4NH
3、[CoCl
3]3NH
3は合成することができるが、[CoCl
3]2NH
3と[CoCl
3]1NH
3は合成することができなかった。この現象を説明するためヴェルナーにクリスチャン・ヴィルヘルム・ブロムスタンドはS.M.ヨルゲンセンと共にブロムスタンド-ヨルゲンセン鎖状構造モデルを提唱した[7]。この理論は当時の分析データから得られた多くの現象を説明でき、長い間事実とされてきた[7]。アルフレート・ヴェルナーは[PtCl
4]のNH
3付加化合物(2~6個のNH
3)の分析データから、金属は2つの異なる原子価を持つという仮説、すなわち金属の正電荷に対応する主原子価(酸化数)と金属に結合している配位子の総数に対応する副原子価(配位数)の二つを持つという仮説を提唱した[7]。この理論は当時多く知られていた[MA
4B
2]型錯体([CoCl
2(NH
3)
4]+など)が2種類の立体異性体を持つということを裏付けており、ヴェルナーの理論は配位説として確立された。ウェルナーは錯体化学の創始者としての功績をたたえられ、1913年にノーベル化学賞を受賞した[7]。
1951年にはフェロセンが合成され、サンドイッチ化合物の存在が明らかになり、1953年のチーグラー・ナッタ触媒の開発も相まって、以降、有機金属錯体が盛んに研究されるようになった[4]。
近年においてもクラウンエーテルなどの大環状ポリエーテルを配位子として金属を取り囲むような錯体を研究対象とするホスト・ゲスト化学の創設や多孔性配位高分子の研究・開発が盛んに行われている[6][5]。
性質
よく研究されるのは、光(吸光・発光)、電気、磁気、触媒などの特性である。近年ではこれらの性質を複合した機能錯体(例えば、光電子移動・光磁性制御・電気化学触媒など)の研究も盛んである。
軌道の分裂とスピン
dブロック金属錯体
結晶場理論によればdブロック遷移金属のd軌道は錯形成による配位子からの相互作用を受けることで、5重縮退が解け分裂を起こす[11][12]。分裂の仕方は錯体の幾何学構造に依存するが、例えばコバルト(III)イオンなどに見られる6配位正八面体構造の錯体はdz2、dx2-y2が2重縮退したeg軌道とdxy、dyz、dzxが3重縮退したt2g軌道に分裂を起こす[11][12]。このとき、eg軌道はエネルギー的に不利な軌道準位でt2g軌道はエネルギー的に有利な軌道準位である。こういった軌道の分裂は配位子場分裂(結晶場分裂)と呼ばれ、分裂の大きさ(配位子場分裂パラメータで表す)は配位子場理論によれば結合の強さにより決定される。ただし結合の強さは金属および配位子両者が複雑に関与している[13][14]。金属に関しては一般に5d金属、4d金属、3d金属の順に配位子場分裂が大きくなり、また金属の電荷が大きいほど配位子場分裂が大きくなる[14]。配位子に関しては電子供与性(π供与性)が高いほど弱い配位子場を与える弱配位子場配位子となり、電子受容性(π受容性)が高いほど強い配位子場を与える強配位子場配位子となる。配位子が与える配位子場分裂の序列は分光化学系列により記述されている[13][14]。
2O)
6]3+生成により生じた配位子場によるチタン(III)イオンのd軌道分裂。左の軌道準位がチタン(III)イオンの軌道を表し、真ん中の軌道準位が下から対称性適合線形結合(SALC)軌道の結合性軌道、t2g軌道、eg軌道、SALC軌道の反結合性軌道を表し、右の軌道準位が配位子(H
2O)の軌道準位を表す。
基本的に電子は錯形成により分裂を起こしてできた軌道のうち、エネルギー的に有利な軌道準位からフントの規則を満足するように収納される[15]。しかし、d電子数に応じて高スピン電子配置と低スピン電子配置を持つものが存在する[16]。例えば、6配位正八面体構造をとる錯体においてはまずt2g軌道から順に満たされていくが、d電子数が4から7までは高スピン電子配置と低スピン電子配置が存在する[16]。高スピン電子配置と低スピン電子配置は3d金属錯体に見られる電子配置で、配位子場分裂により得られた安定化エネルギーである配位子場安定化エネルギーとスピン対ができた時の不安定化エネルギーであるスピン対生成エネルギーの大小関係によりどちらの電子配置をとるかが決定する[注 1][16]。4d金属と5d金属ではほとんどの場合、低スピン電子配置をとる[17]。
ランタノイド錯体
ランタノイド錯体は錯形成に4f軌道が関与しているが、4f軌道が外殻の5s軌道や5p軌道に外側から遮蔽されることで配位子との軌道の重なりが生じず、静電的な結合(イオン結合)が形成される[18][19][注 2]。ゆえに結晶場分裂はほとんど起きず、代わりにスピン軌道相互作用による分裂が顕著に現れる[18][21][19]。
磁性
金属錯体のうち不対電子を有するものは、電子スピンに由来した磁性を示す。金属錯体の磁気特性は金属イオンの配位環境に強く依存しており、適切な設計によって磁気特性を制御するできる。磁性金属錯体は、孤立分子でありながら磁石のように振る舞う単分子磁石や、スピン状態の量子もつれを利用した量子ビットへの応用が期待されている。
構造
錯体の中心金属になりうるのは1から12族、ホウ素を除く13族および14、15族の第6周期の金属元素群である[22]。ただし、14族元素のうちケイ素、ゲルマニウム、スズといった元素は[M(acac)
3]+(M=Si,Ge,Sn)のように中心金属として作用するもののほか、[Co(MCL
3)(CO)
4](M=Si,Ge,Sn)のように配位子として作用するものも存在する[22]。中心金属と配位子の間に生じる配位結合の数を配位数といい、2以上の値となる[23]。なお、配位数と配位子の数は必ずしも一致しない。これはエチレンジアミン四酢酸やエチレンジアミンのような複座配位子が存在するためである。
配位数と幾何構造
- 2配位錯体
直線型の構造をとり、点群はD∞hである[23]。アルデヒドの検出反応である銀鏡反応で用いられるジアンミン銀(I)イオンが著名である[23]。
- 3配位錯体
正三角形型の構造をとり、点群はD3hである[23]。非常にまれで[Fe(N(SiMe
3)
2)
3]のようなかさ高い配位子を持つものが多い[23]。
- 4配位錯体
正四面体型もしくは平面四角形型の構造をとり、点群はそれぞれTd、D4hである[23][24]。正四面体型錯体はd0やd10などに見られ、平面四角形型錯体は第二および第三遷移系列のd8錯体によくみられる[24]。
- 5配位錯体
三方両錐型もしくは四角錐型といった構造をとり、点群はそれぞれD3h、C4vである[23]。両構造はエネルギー的に近接しており、互いに構造変化(ベリー擬回転)を起こしやすい[25]。実際、通常三方両錐型構造をとる[Fe(CO)
5]は異なる環境の2グループ(エクアトリアル・アキシアル)のCO配位子を持つはずであるが、13C NMRスペクトルは1本のシグナルしか与えず、等価なCO配位子しか存在しないように見える[25]。これはベリー擬回転によるCO配位子の入れ替わりがNMRの時間スケールよりか短く1種のCO配位子しか観測されないためであると考えられる[25]。
5]におけるベリー擬回転。左から三方両錐型、四角錐型、三方両錐型構造。四角錐型錯体を経た三方両錐型錯体の配位子のアキシアル位・エクアトリアル位の入れ替わりが起こっている。
- 6配位錯体
正八面体型や三角柱型といった構造をとり、点群はそれぞれOh、D3hである[23]。ほぼ全てが正八面体型構造をとる。ウェルナーは配位説の提唱・証明にコバルト(III)やクロム(III)といった正八面体型錯体を多用した[25]。正八面体型錯体はmer異性体やfac異性体といった異性体を持つ[26]。
- 7配位以上の錯体
ランタノイド錯体やアクチノイド錯体といったfブロック元素の錯体でみられる[8]。
分光学
先述の通り、錯形成により錯体の中心金属は配位子との相互作用により軌道の分裂を起こす。エネルギーを吸収することで低エネルギー軌道準位から高エネルギー軌道準位への電子励起が起こるため、錯体は軌道分裂の大きさに相当するエネルギーを持つ波長の光を吸収する。吸収した光が可視領域にある錯体は有色となる。
ある種の金属錯体は、配位環境によって光学活性体となり、キラルな化合物となる[27]。キラルな錯体の光学分割は、まず他の光学活性な化合物を加え複数の光学活性中心を持つジアステレオマーとしてから物理的性質(水に対する溶解度)の違いにより分別することができる[27]。
立体化学
錯体は幾何異性体を持つことがある[28]。
cis–trans異性体とfac–mer異性体
シス–トランス異性体は八面体錯体および平面四角形錯体で生じる。[MX4Y2]構造の八面体型六配位錯体および[MX2Y2]構造の平面四角形型六配位錯体において2つの配位子が隣接している場合はcis体、向かい合っている場合はtrans体と呼ばれる。[MX3Y3]構造の八面体型六配位錯体において、3つの同一配位子が八面体の1つの面を占めている場合、異性体はfac体と呼ばれる。fac体では、任意の2つの同一の配位子が互いに隣接またはシスと考えることができる。3つの同一配位子と金属イオンが1つの平面にある場合、異性体はmer体と呼ばれる。mer体は、同一の配位子のトランスとシスの両方のペアを含むため、トランスとシスの組み合わせと考えることができる。
光学異性体
光学異性体は錯体の鏡像が重なり合うことができないときに生じる。[Fe(ox)
3]3−のような二座配位子が配位している錯体は、配位子が右周りにねじれて配位しているときΔ体、左回りにねじれて配位しているときΛ体と区別される[29]。
その他の異性体
- 連結異性体 - 配位子内の配位原子が異なることで生じる異性体[30]。チオシアナト配位子を擁する錯体などでみられる[30]。
- 配位異性体 - 化合物の組成のうち陽イオンと陰イオン両方が錯体で、両者の間で配位子の分配の仕方が異なることで生じる異性体[30]。[Cr(en)
3][Co(CN)
6]と[Co(en)
3][Cr(CN)
6]が例として挙げられる[30]。 - イオン化異性体 - 同一組成であるが配位してる陰イオンの種類が異なることで生じる異性体[30]。[CoCl(NH
3)
5]SO
4と[Co(NH
3)
5SO
4]Clが例として挙げられる[30]。
電子遷移と光吸収
金属錯体は軌道準位のエネルギー差に相当する特定の波長域を吸収し電子遷移を起こす。dブロック金属錯体が起こしうる電子遷移は以下の通り、大きく分けて3種類存在する。
- d-d遷移
d-d遷移は配位子との相互作用により分裂した中心金属のd軌道の間で起こる電子遷移である[31][32]。これは対称禁制遷移であり、ラポルテの規則に従う。ただし、禁制遷移であっても分子の振動により対称性が一部崩れることで若干許容となる[32]。d-d遷移による吸収波長は分裂したd軌道のエネルギー差(分裂の大きさ)に相当するが、これは中心金属が同じであるとき、配位子が与える配位子場の強さに依存する[31]。つまり、配位子が強い配位子場を与えるほど吸収波長のエネルギーは大きくなる(波長は短くなる)傾向があり、弱い配位子場を与えるほど吸収波長のエネルギーは小さくなる(波長は長くなる)傾向がある。分裂したd軌道間の遷移であるため、d電子数が0もしくは10のdブロック金属錯体やランタノイド金属錯体などにおいてはd-d遷移は起こらない。
- 電荷移動遷移
電荷移動遷移は金属-配位子間の遷移に基づく吸収で、配位子(Ligand)から金属(Metal)への向きに起こるLMCTと金属(Metal)から配位子(Ligand)への向きに起こるMLCTの二種類が存在する[31][32]。LMCTにおいては配位子の非共有電子対が光を吸収し、中心金属の軌道へと遷移する[33][34]。電荷移動遷移は許容遷移であるため、遷移が起こりやすく光吸収は強い[33][34]。
- 配位子遷移
配位子遷移は配位子で起こる分子電子遷移であり、多くはπ-π*遷移によるものである[32]。
吸収波長が可視領域にあったとき、金属錯体は発色を示す。錯体の発色する性質を活かし、ランベルト・ベールの法則に基づく比色法で錯体の組成を決定することができる。
反応
水和反応
水溶液中の金属イオン(金属塩)は周囲に過剰に存在する水と配位結合し、アコ錯体M(H2O)xn+として存在している[35]。これは、金属は水に放られると正イオンに電離し、周囲の水の孤立電子対がこれを中和しようとするためである。これが配位結合であり、この場合の配位子は水となる。アコ錯体の配位子(H
2O)は非常に速い速度で他の水分子と交換が起こっているということがわかっている。この交換反応の反応速度は金属-配位子結合の解離定数Kaに依存しており、Kaの値の違いによって配位子置換反応が進行する[36]。
配位子置換反応
配位子置換反応は中心金属に配位する配位子が他の成分に置換される化学反応である[37]。金属-脱離配位子の結合解離エネルギーが金属-進入配位子の結合解離エネルギーよりか小さいときに配位子置換反応は熱力学的に有利になる[37]。ただし、脱離配位子が脱離により不安定になったり、高い塩基性を示したりするときには反応が起こりにくい[37]。配位子置換反応は大きく分けて、解離型機構・会合型機構・交替型機構に分けることができる[37]。
- 解離型機構 - 有機化学におけるSN1機構と類似しており、1次速度論に従う[37]。金属-配位子結合の解離により置換反応が進行するため、立体障害の小さな金属中心で有利である[37]。
- 会合型機構 - 有機化学におけるSN2機構に類似しており、2次速度論に従う[37]。金属-配位子結合の生成により置換反応が進行し、立体障害の大きな金属中心で有利である[37]。
- 交替型機構 - 解離型機構と会合型機構の中間のような反応機構[37]。
瞬時に配位子置換反応が起き、別の錯体を与える錯体を置換活性、そうでないものを置換不活性と呼ぶ[37][36]。置換不活性な錯体は古典的な分析手法(ボルタンメトリーや吸光光度法など)で配位子置換反応を追跡することができる[37]。
応用
分析
錯体を用いた金属の定量方法としてキレート滴定が挙げられる。キレート滴定の配位子にはエチレンジアミン四酢酸(EDTA)が多用される。EDTAは金属イオンと1対1の比率で錯体(キレート化合物)をつくるが、EDTA-金属結合は非常に強力[注 3]であるため、この錯形成反応は定量的に進行すると考えられる。ゆえに金属イオンに対して、当量点に至るまでに加えたEDTAの量から金属イオンの量を決定することができる。当量点は金属指示薬の呈色の変化により確認することができる。キレート滴定の応用事例として、キレート剤にEDTA、指示薬にエリオクロムブラックTを用いた水の硬度測定が挙げられる[38]。
触媒
金属錯体を均一系触媒として用いる有機化合物の合成は1950年代から急速に発展した。代表例はポリエチレン合成に使われるチーグラー・ナッタ触媒である。チーグラー・ナッタ触媒は触媒1 gからポリエチレン1 tを合成することができるほどターンオーバーが大きい触媒であったため、以降錯体触媒は盛んに研究されるようになった[39]。
また、鈴木・宮浦カップリング反応や溝呂木・ヘック反応のように反応の過程で金属錯体が重要な役割を果たしている反応もある[9]。例えば、鈴木・宮浦カップリング反応ではパラジウムが有機ホウ素化合物およびハロゲンアリールと錯形成することで結合の開裂と生成を触媒している[9]。
近年では人工光合成を実現する上で障壁となっている酸素発生触媒に金属錯体触媒を用いる研究が行われている[40]。
生体内
生物は亜鉛、鉄、銅、マンガン、モリブデン、コバルトなどの遷移金属のイオンを生存の為に必要とする[41]。栄養学においてはミネラルと呼称され、生体内で広義の錯体(金属酵素・補酵素・電子伝達体・酸素担体)として存在しており、生体内の電子移動反応で重要な役割を担う[10]。これは金属錯体の「酸化状態の多様性」「中心金属のルイス酸としての作用」といった性質に起因している[41]。生体はこういった遷移金属錯体の性質を巧みに利用して様々な背板御反応を制御している[10]。例えば、金属酵素の活性部位では遷移金属に配位する有機分子が精密な配位子場を形成し中心金属の状態と金属-基質相互作用を制御している[10]。代表的なものとして鉄を含むヘモグロビンやモリブデン・鉄等を含むニトロゲナーゼ、マグネシウムを含むクロロフィルなどが挙げられる[41]。
金属錯体は薬剤としても使用される。がん治療の化学療法剤の中で最も有効であるとされるシスプラチンは2個のアンモニア分子と2個の塩化物イオンがシス配置で白金に配位している錯体でDNAに強く配位することによって抗癌剤として作用する[42]。
多孔性配位高分子
従来、気体の吸着材料として多孔性構造をもつゼオライトが多用されていた[43]。しかし、ゼオライトはケイ素とアルミニウム、酸素を主成分とする固い構造を有しているため、分子を吸着する際に多孔性構造を変化させて、サイズや形状の異なる様々な分子を識別し、吸着するのは困難とされていた[43]。これを解決するために北川進らは金属原子・有機配位子の選択により多様な性質を発揮することができる金属錯体に着目し、1997年(平成9年)に多孔性配位高分子(PCP/MOF)を発表した[43][6]。PCP/MOFは金属錯体が無数に連なった高分子であり、あるPCP/MOFは1 gでサッカー場1面(約7,000 m2>)に相当する表面積をもつなど膨大な表面積を誇る[6]。気体分子の貯蔵や分離、変換といった機能が期待されており、水素、メタン、二酸化炭素といった気体分子を吸着させる研究が行われている[6]。
なお、北川は多孔性金属錯体開発の功績により、2025年(令和7年)にノーベル化学賞を受賞した[44]。
クラウンエーテル
クラウンエーテルは大環状ポリエーテルであり、配位子として金属イオンを取り囲むように錯形成することができる有機分子である[5]。クラウンエーテルは分子の穴の大きさに適合する金属イオンを選択的に取り込むことができる[5]。この性質を応用することで、有機化学の分野では、例えば、強力な酸化剤として知られる過マンガン酸カリウムのカリウムイオンを18-クラウン-6で捕捉することで過マンガン酸カリウムが有機溶媒に可溶となり、有機溶媒中で強力な酸化剤として使用することができるようになった。近年ではクラウンエーテルの設計概念を三次元へと拡張したクリプタンドが開発され、同様に研究が進められている。
クラウンエーテルのような環状配位子が金属イオンを捕捉する性質を研究対象とする学問としてホスト・ゲスト化学が存在する。
顔料
一部の錯体はその鮮明な色と高い耐久性から、顔料として使用される。特にフタロシアニンは応用分野での消費量が多く、大量に生産されている。顔料の分野では、シッフ塩基の誘導体、特にイミンを分子構造中に有する顔料をアゾメチン顔料と呼ぶことから、フタロシアニンを除いたシッフ塩基の誘導体、特にイミンを分子構造中に有する金属錯体顔料はアゾメチン顔料とも呼ばれる。高い透明性と濃色と淡色の色差が特徴であるが、彩度の低さなどから市場性が限定的であり、比較的短期間で生産が終了したものもある。
鉱物
鉱物として自然界に存在する錯体化合物の組成を持つ鉱物は非常に珍しい。発見されている錯体の鉱物はアンミン石 (Ammineite・[CuCl2(NH3)2]) とヨアネウム石 (Joanneumite・Cu(C3N3O3H2)2(NH3)2) の2種類のみ知られている。このうちのアンミン石は、初めて発見されたアンミン錯体の鉱物である事に因んだ命名である[45][46]。
脚注
注釈
出典
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参考文献
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- 『絵具の科学』 ホルベイン工業技術部編 中央公論美術出版社 1994/5(新装普及版) ISBN 480550286X
- 『絵具材料ハンドブック』 ホルベイン工業技術部編 中央公論美術出版社 1997/4(新装普及版) ISBN 4805502878
- 『顔料の事典』 伊藤 征司郎(編集) 朝倉書店 2000/10 ISBN 4254252439 ISBN 978-4254252439
- 『有機顔料ハンドブック』 橋本勲 カラーオフィス 2006/5
関連項目
配位錯体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/07 14:17 UTC 版)
「1,2-ビス (ジフェニルホスフィノ) エタン」の記事における「配位錯体」の解説
dppe の多くの配位錯体が知られており、その一部は均一系触媒として使用されている。 dppeはほぼ常にキレート化しているが、単座 (例えば W(CO)5(dppe)など) やブリッジング動作 (bridging behaviaor)の例もある。自然挟み角 (natural bite angle) は 86°である。
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