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Tian Fengはどんな人? わかりやすく解説 Weblio辞書
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Tian Fengとは? わかりやすく解説

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田豊Tian Feng

デンホウ

(?~200
冀州別駕従事

字は元皓。鉅鹿の人、あるいは勃海の人ともいう《袁紹伝》。

田豊は生まれついての俊傑で、雄大な計略多く目を見張るのだった若いころ親を失ったが、服喪中は哀しみをきわめ、かなりの年月経過して歯茎見せて笑うことはなかった。博学多識で、州の人々重々しい名声があった《袁紹伝》。はじめ太尉の府(役所)に招かれ茂才推挙され侍御史昇進した宦官どもが朝廷好き勝手していたので官職棄てて帰郷した袁紹伝》。

田豊は審配とともに冀州韓馥仕えたが、二人とも正直さのため韓馥疎んじられていた。袁紹州牧地位に就くと、うやうやしい言葉で田豊を招致した。田豊は王室が困難を多く抱えており、救済せんとの志を持っていたので袁紹の命に応じた袁紹は田豊を別駕審配を治中に任じて重用した袁紹伝・後漢書同伝》。のちに田豊は袁紹の命によって、韓馥従事であった耿武閔純殺害した後漢書袁紹伝》。

初平三年一九二)正月袁紹は自ら出撃し、麴義先鋒として公孫瓚軍を大破した袁紹十数後方にいて捷報聞き、鞍を外して馬を休ませ、ただ帳下の強弩兵数十人と大戟の士が百人かりいるけだった。そこへ公孫瓚兵士二千余りが突然包囲してきた。包囲幾重にも及び、矢はのごとく降り注いだ。田豊は袁紹の手を引き、土塀の影に隠そうとした。袁紹は「大丈夫たる者、進んで戦死すべきだ。それなのに垣根隙間逃げ込んで生き延びることなどできようか!」と言っている《袁紹伝》。

建安元年一九六)に曹操献帝を許に迎えると、袁紹天子身近にいないと不利になるではないかと心配し鄄城遷都すべきと曹操説得した曹操がこれを拒絶したので、田豊は袁紹進言した。「遷都の計画がすでに頓挫しました上は、すみやかに許(襲撃)を計画し天子お迎え奉るべきです。さもなくばしまいに他人の擒となりましょう悔いて無益ですぞ!」袁紹聞き入れなかった《後漢書袁紹伝》。

三年三月曹操張繡包囲した。田豊は「すみやかに許を襲撃なさいませ。天子推戴して諸侯命令すれば、四海指差すだけで平定できましょう」と袁紹勧めた袁紹軍離叛した兵士がこの計画曹操伝えたため、曹操張繡包囲解いて帰還した武帝紀》。

四年、公孫瓚平定したが、それは田豊の策謀おかげであった《袁紹伝》。

袁紹は許を攻撃せんと大軍催し審配逢紀軍事統括させ、田豊・荀諶許攸謀主参謀長)とし、顔良文醜将帥とした《袁紹伝》。曹操のもとにいた孔融は「田豊・許攸といった智計の士が参謀になっている。勝つことは難しかろう」と歎いたが、荀彧は「田豊は剛毅お上犯すことがある」と評した荀彧伝》。

五年、左将軍劉備徐州刺史車胄殺害し、沛を拠点にして曹操背いたので、曹操は自ら劉備征討した。田豊は袁紹説得した。「公と天下争っているのは曹操です。曹操はいま東進して劉備攻撃し戦闘続いていてすぐには止みそうにありません。いま軍勢こぞって彼の背後を襲えば、一度行軍平定できます!」。袁紹子供病気口実許可しなかった。田豊は振り上げて地面叩き付け、「ああ、事は去った滅多にない好機がやってきたというのに、赤子病気のためにその機会を失うとは惜し限りだよ!」と言った袁紹はそれを聞いて怒り、これ以来疎んじられるようになってしまった《後漢書袁紹伝》。

曹操劉備撃破したのち、袁紹進軍して許を攻撃しようとしたが、田豊はすでに機会過ぎ去ったので計画実行すべきでない考えた。「曹操はすでに劉備破り、許の城下空虚ではございません。そのうえ曹操用兵を得意とし、軍勢少なからといって侮れませんぞ。今は持久策を採るのが最上我ら鋭気養い、彼らを疲労させれば三年待たずして勝つことができます」。袁紹聞き入れなかった。田豊はそれでも強固に袁紹諫めたが、袁紹は軍の士気損ねたという理由で彼を収監してしまった《後漢書袁紹伝》。

逢紀は田豊の正直さ憚り、しばしば袁紹に彼を讒言していた。そのため袁紹は田豊を忌み嫌うようになったのである袁紹伝》。田豊が従軍していないと聞き曹操は「袁紹はきっと敗北するぞ」と喜んだ袁紹伝》。

のちに袁紹軍土崩瓦解して敗走したとき、将軍たちはみな膝を抱えて泣きながら言った。「以前、もし田豊がここにいれば、こんなに落ちぶれることはなかったろうに」、と《後漢書袁紹伝》。ある人が「君はきっと重用されるようになるでしょうと言ったが、田豊は言った。「公は外観では寛容だが、内心では猜疑心お強い。もし勝利できれば喜んで我を赦免してくれるだろうが、いま敗北したからには、吾は生きる望み棄てたよ」《後漢書袁紹伝》。

袁紹が「冀州人々吾が軍の敗北聞けば、みな吾を心配してくれるだろう。ただ田別駕だけは吾を諫止して他の者たち違っていた。吾は恥ずかしくてたまらぬと言うと逢紀は「田豊めは将軍敗退聞いて手を打って大笑いし自分言葉的中した喜んでおりました」と讒言した。そこで袁紹は田豊を殺害した袁紹伝》。

参照袁紹 / 韓馥 / 顔良 / 麴義 / 許攸 / 公孫瓚 / 孔融 / 耿武 / 車胄 / 荀彧 / 荀諶 / 審配 / 曹操 / 張繡 / 閔純 / 文醜 / 逢紀 / 劉協献帝) / 劉備 / 冀州 / 許県 / 鉅鹿郡 / 鄄城県 / 徐州 / 沛国 / 勃海郡 / 左将軍 / 侍御史 / 刺史 / 従事 / 太尉 / 治中従事 / 別駕従事 / 牧 / 茂才 / 宦官 / 府 / 謀主


田豊

(Tian Feng から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/16 20:48 UTC 版)

田豊
清代に描かれた田豊の絵
後漢
冀州別駕
出生 生年不詳
冀州鉅鹿郡あるいは勃海郡
死去 建安5年(200年
拼音 Tián Fēng
元皓
主君 韓馥袁紹
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田 豊(でん ほう、? - 200年)は、中国後漢時代末期の政治家、武将。元皓[1]冀州鉅鹿郡の人とも、また勃海郡の人ともいわれる[1]

正史の事跡

初期の事跡

若いころから権謀術策に長じ、博学多才の人物として名を知られていた。最初は茂才に推挙され、侍御史に昇進した。宦官の専横などを見て朝廷に嫌気が差し、官職を辞して郷里に引き上げた。その後、審配と共に冀州牧韓馥に仕えたが、二人ともその剛直さから疎んじられた。

初平2年(191年)、袁紹韓馥から冀州を奪うと、遜った言葉で田豊らを招き、田豊を冀州別駕に、審配を冀州治中に任じて重用した。田豊は袁紹の命令によって、元同僚の耿武閔純を殺害した。

初平3年(192年)正月、袁紹は公孫瓚と界橋で戦い、麴義の活躍により公孫瓚軍を大破したが、勝報により油断していたところを敵騎兵に包囲され窮地に陥った。田豊は袁紹を物陰に隠そうとしたが、袁紹は兜を脱ぎ捨ててその場に踏み留まった。

曹操献帝を許都に迎えると、田豊は許都を襲撃して献帝を奪取することを度々進言したが、袁紹には受け入れられなかった。

建安4年(199年)、袁紹は公孫瓚を攻め滅ぼしたが、これは田豊の策謀のおかげであった。その後、対曹操の戦略をめぐって、田豊は沮授と共に持久戦略を主張したが、袁紹は審配・郭図らが唱える短期決戦戦略を採用した。

官渡の戦いと最期

建安5年(200年)正月、曹操は于禁に袁紹戦の先陣を任せ、自らは徐州で反逆した劉備を攻撃した。田豊は徐州で劉備と戦っている曹操の背後を襲撃するよう進言したが、袁紹は息子の病気を理由に拒否した。田豊は杖で地面を叩いて悔しがり、それを聞いた袁紹は田豊を疎んじるようになった。

同年2月、許都へ進軍しようとした袁紹に対し、持久戦を主張して懸命に諫止したが、袁紹は軍の士気を損なったという理由で田豊を投獄した。田豊が従軍しないと知った曹操は、「袁紹はきっと敗北するぞ」と喜んだ。

同年10月、田豊が危ぶんだ通り、袁紹は官渡の戦いで曹操に大敗した。その後、袁紹は田豊が自分を笑い者にするだろうと猜疑し、これを殺害してしまった。なお『三国志』袁紹伝の注に引く『先賢行状』によると、田豊と犬猿の仲であった逢紀の讒言が原因であったとしている。

後世の評価

曹操は「もし袁紹が田豊の献策を用いておれば、予と袁紹の立場は全く逆のものとなっていたであろう」と語っている。また『三国志』魏書袁紹伝の注によると、歴史家の孫盛は「田豊・沮授の智謀は、張良陳平に匹敵する」と賞賛している。

田豊は、袁紹に先見性のある進言を何度も行なったが、剛直な性格で歯に衣着せぬ厳しい発言をしたため、次第に袁紹に疎まれるようになった。この点については、曹操軍の荀彧が「剛情で上に逆らう」と指摘した通りである。また、『三国志』の注釈者である裴松之も「主君を誤ったがため、忠節を尽くして死ななければならなかった」と慨嘆している。

『三国志演義』の田豊

小説『三国志演義』における田豊の事績も、正史および裴松之注の記述に概ね従っており、暗君に仕えて悲劇的な最期を遂げた人物として描かれている。曹操との戦いの際には、史実通り袁紹を諫めて投獄される。果たして田豊が危惧したとおり、袁紹は官渡で曹操に大敗してしまう。袁紹が田豊の諫言を聞き入れなかったことを後悔していると、逢紀が「田豊は獄中で主公の敗北を笑っています」と讒言する。激怒した袁紹は使者に宝剣を持たせ、田豊の処刑を命じる。 獄中の田豊は、獄吏から敗戦を告げられ、「(あなたが言ったとおり)袁将軍は大敗して帰ってきますから、必ずあなたは重用されるでしょう」と喜ぶ獄吏に対し、田豊は「袁将軍はうわべは寛大に見えて内実は嫉妬深く、配下の忠誠を大切にしない。勝てば喜んで私を許してくれたかもしれないが、今敗戦してそれを羞じている以上、私は生きることは望めまい」と述べる。果たして袁紹からの使者が来て、田豊を斬首しようとする。自身の運命を悟った田豊は、涙を流して悲しむ獄吏の前で「主君を見抜くこともできずに仕えたことこそ無知というもの。今日死ぬとしても何を惜しむことがあろうか」と言って獄中で自害する。

脚注

  1. ^ a b 《先賢行状》

参考文献



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