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「Zev」の意味や使い方 わかりやすく解説 Weblio辞書
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Zevとは? わかりやすく解説

ZEV

※「大車林」の内容は、発行日である2004年時点の情報となっております。

Zev

名前 ゼブ

ゼヴ

(Zev から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/12/02 08:56 UTC 版)

ゼヴ
欧字表記 Zev
品種 サラブレッド
性別
毛色 青鹿毛
生誕 1920年[1]
死没 1943年[1]
The Finn
Miss Kearney
母の父 Planudes
生国 アメリカ合衆国
生産者 John. E. Madden[1][2]
馬主 Harry F. Sinclair
(Rancocas Stable)[1][2]
調教師 Samuel C. Hildreth[1][2]
D. J. Leary[3]
競走成績
生涯成績 43戦23勝[1][2][4]
獲得賞金 313,639ドル[2][5][4]
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ゼヴZev1920年 - 1943年)はアメリカ合衆国競走馬種牡馬。1923年のケンタッキーダービー優勝馬で、同年のイギリスダービー優勝馬パパイラスを相手に史上初となる英米ダービー馬対決を行い、これに勝利した。1983年アメリカ競馬殿堂入り。

馬名は馬主であるハリー・シンクレアが、自身の顧問弁護士であったウィリアム・ゼヴァーリー大佐にちなんで名付けたものであった[6][1]

経歴

※ 特記がない限り、競走はすべてダートコース。施行距離は当時のもの。グレード制は未導入。

2歳時(1922年)

ゼヴのデビューはあまり華々しくなく、初戦から5戦してもまだ未勝利を脱せずにいた[6]。初勝利を挙げたのは夏のサラトガ競馬場のことで、6戦目に迎えた8月5日の未勝利戦において、5馬身差をつけての初勝利を飾った[7]。すると3日後の一般戦でも4馬身差をつけて連勝、さらに1週間後の一般戦では125ポンドを背負い、対戦した6頭の馬に15ポンド差の斤量差を与えながらも勝利と調子を上げてきた[7]

8月19日にはグランドユニオンホテルステークス(サラトガ・6ハロン)で初のステークス競走に挑戦、これに優勝した。その先には当時の2歳戦線の大競走のひとつであったホープフルステークス(サラトガ・6ハロン)が8月31日に控えていたが、ゼヴはその直前8月28日のオールバニハンデキャップにも登録され、トップハンデ126ポンドを課されながらも1番人気に支持され、それに応えて勝利した[7]。そして本番のホープフルステークスではゴスホークという馬と並んで最重量の130ポンドを積まれての出走で、レース中盤まではその2頭が先行争いをしていたが、最後でグランドユニオンホテルステークスで3着だったダンリンという馬に抜かれて3着に敗れた[7]

ゼヴの同年最後の競走となったのは9月16日、当時最大の2歳戦であったフューチュリティステークスベルモントパーク・6ハロン)で、ここでは牝馬サリーズアレー[注 1]相手に2着に敗れた[6][7]。しかし同年のゼヴが稼いだ賞金は24,665ドルと2歳牡馬では最高額で、後年に同年の最優秀2歳牡馬として選定されている[7]

3歳前半(1923年)

ゼヴの3歳シーズンはフューチュリティステークスから7か月半を空けての始動で、初戦は古馬との混合戦であるポーモノクハンデキャップ(ジャマイカ・6ハロン)でこれに勝利している[6]。その次に出走したプリークネスステークス(5月12日[注 2]ピムリコ・9ハロン)では単勝オッズ5倍と1番人気の支持を得ていたが[9]、スタート前に他馬に蹴られたことが影響して12着と大敗している[6][10]。しかしそれから3日後には再び競馬場に姿を現し、ジャマイカ競馬場のレインボーハンデキャップ(6ハロン)に勝利した[9]

前走から4日後の5月19日に行われたケンタッキーダービーチャーチルダウンズ・10ハロン)にもゼヴは姿を現した。ダービー当日は21頭が集まり、最も人気を集めたのはハリー・ペイン・ホイットニーの率いる4頭がまとめて単勝3.5倍に支持され、プリークネス勝ち馬のバージルは16倍、ゼヴはさらに人気を落として20倍の穴馬扱いであった[9]。ゼヴの鞍上を務めたアール・サンド英語版はひたすら前に行かせることがゼヴの最善策と主張し、序盤は常に2馬身ほどのリードを保ちながら最初の2ハロンを23秒40というダービー史上最速のハイペースで飛ばしていった。この逃げたゼヴを他の馬は最後まで捉えることができず、結果ゼヴは2着のマーティンゲールに1馬身半差をつけて優勝を飾った。勝ちタイムは2分05秒40[11]。本来、ゼヴの調教師はサミュエル・ヒルドレスが務めていたが、この競走に限り調教師名義がヒルドレスの助手であるデイビッド・レリーのものになっている。これは長年働いてきたレリーにへスポットライトを当てたかったヒルドレスの想いによるものと考えられている[11]

ダービーから1週間後にはウィザーズステークス(ベルモントパーク・8ハロン)に出走、ここでも再び逃げ切り勝ちを披露した[11]。そして6月9日のベルモントステークス(ベルモントパーク・11ハロン)では8頭立ての中、ゼヴは単勝オッズ1.8倍の絶大な支持を集めた。この競走でもゼヴはスタートから勢いよく飛び出して先頭に立つと、序盤の4ハロンは2馬身のリードを取り先行、6ハロンが過ぎた頃には5馬身差まで開いていった。誰もゼヴに迫れないまま独走は続き、10ハロン通過時点のタイムである2分04秒20は、自身のダービーの勝ち時計よりも早いペースであった。最後の直線に入ってチックヴェールという馬に追い上げられるものの、それでもなお1馬身半差を保ったままゴール、父であるザフィンに次ぐ親子2代でのベルモントステークス制覇を成し遂げた。勝ちタイムは2分19秒[11]

ゼヴはベルモントステークスの後も短い間隔で使われ続け、クィーンズカウンティハンデキャップ、ベルモントパークでの一般戦、ローレンスリアライゼーションステークスと出走した競走それぞれで勝利を重ねていった[6]

英米ダービー馬対決(1923年)

同年8月19日、イギリスダービーステークス優勝馬であるパパイラスの馬主・ベン・アイリッシュは、イギリス最強のパパイラスに対する挑戦者が現れたとして、アメリカ最強3歳馬との4,000ポンドの賞金を懸けた対決を行う旨を発表した[12]。8月31日、アメリカのジョッキークラブは10月20日であれば場所をアメリカのニューヨークで用意できること、また賞金として勝者に100,000ドル、敗者に2,000ドルを用意できることを提案し、アイリッシュもこれに同意した[13]。そして、アメリカ側の挑戦者として白羽の矢が立ったのがゼヴであった[10]。パパイラスの側も長時間の輸送などで万全とは言えなかったが、一方のゼヴもマッチレースの2週間前に蕁麻疹を発症、回復したため事なきを得たが、一時は代わりの馬を用意することが検討されたほどであった[14]

10月20日の土曜日当日のベルモントパークは、前日の夜に激しく降った雨の影響で、泥沼のような状態であった[14]。この12ハロンのマッチレースには50,000人の観衆が詰めかけ[11]、彼らが1番人気に選んだのはパパイラスのほうであった[14]。レースが始まって先に飛び出したのはパパイラスのほうで、しかしパパイラス鞍上のスティーブ・ドナヒュー英語版はこれを抑えてゼヴの後方に下げ、その視界に入れて進むことを選んだ。この後方につける戦略は滑りやすい路面において裏目に出て、パパイラスはゼヴに追いつけないまま、そしてゼヴはさらに突き放して5馬身差での勝利を手にした。パパイラスの調教師バジル・ジャービスは、ヒルドレス調教師に「称賛を送りたい、この競走はあなたの勝ちだ」と語りかけたという[4]

年度代表馬争い(1923年)

パパイラスとのマッチレースから少し経った10月31日にゼヴは再び競馬場に姿を現し、エンパイアシティオータムチャンピオンシップ(エンパイアシティ・8ハロン)を4馬身差をつけて優勝した。その翌戦、ラトニアチャンピオンシップ(ラトニア・14ハロン)では目下6連勝中のマイオウンという馬が出走しており、この2頭で年度代表馬争いの様相を呈するものと思われていた。しかし、この競走を制したのは穴馬インメモリアムで、ゼヴは同馬から6馬身も離された2着、マイオウンはさらに10馬身差の3着であった[4]

久々の敗戦後、ゼヴはピムリコ競馬場での一般戦(9ハロン)を挟んだのち、チャーチルダウンズ競馬場において先日破れたインメモリアム相手のマッチレース(10ハロン)が組まれた。このマッチレースではゼヴがインメモリアムの後方につける展開となり、最後の直線の攻防で際どい状態で並んでゴールに入ったが、結果ゼヴがハナ差で制したと判定され、雪辱を果たしている[4]

同年ゼヴは14戦12勝で272,008ドルを稼ぎ出し、年度代表馬に選出されている。また、馬主であるランコーカスステーブル(シンクレアの馬主名義)が同年得た総賞金額は438,849ドルで、これはジェームズ・ロバート・キーンが保持していた年間獲得賞金レコードを塗り替えるものであった[4]

4歳以降

ゼヴは翌年1924年も競走を続けたが、17戦して6勝、ステークス競走もキングスカウンティハンデキャップ(ジャマイカ・8.5ハロン)を制した程度で、3歳時ほどの戦績は挙げられなかった。この4歳シーズンで引退し、最終的な戦績は43戦23勝、獲得賞金は313,639ドルであった[4]

ゼヴとパパイラスの対戦は大いに興味を喚起し、国際交流競走の機運が高まったのもこの時期であった。フランスの馬主であるピエール・ヴェルテメールが、自身の持つフランスの有力馬エピナールをアメリカで出走させるイベントに承諾し、特別競走インターナショナルスペシャルシリーズが組まれた。この競走の第1戦(ベルモントパーク・9月1日・6ハロン)と第2戦(アケダクト・9月27日・8ハロン)にゼヴも出走しているが、第1戦では5着[15]、第2戦では4着に終わり[16]、最終戦には参戦しなかった。

その後は種牡馬となっているが、わずか2頭のステークスウイナーを出すにとどまり、失敗に終わった[5]

評価

主な勝鞍

1922年(2歳) 12戦5勝
グランドユニオンホテルステークス、オールバニハンデキャップ
1923年(3歳) 14戦12勝
ポーモノクハンデキャップ、ケンタッキーダービーウィザーズステークスベルモントステークスローレンスリアライゼーションステークス、クイーンズカウンティハンデキャップ、レインボーハンデキャップ、マッチレース(対パパイラス)、マッチレース(対インメモリアム)
1924年(4歳) 17戦6勝

キングスカウンティハンデキャップ

年度代表馬

  • 1922年 - 全米最優秀2歳牡馬
  • 1923年 - 全米最優秀3歳牡馬、年度代表馬

表彰

血統表

ゼヴ血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 マッチェム系
[§ 2]

The Finn
1912年 青毛
父の父
Ogden
1894年 黒鹿毛
Kilwarlin Arbitrator
Hasty Girl
Oriole Bend Or
Fenella
父の母
Livanita
1907年 鹿毛
Star Shoot Isinglass
Astrology
Woodray Rayon d'Or
Wood Nymph

Miss Kearney
1906年 鹿毛
Planudes
1897年 鹿毛
St.Simon Galopin
St.Angela
Lonely Hermit
Anonyma
母の母
Courtplaster
1902年 黒鹿毛
Sandringham St.Simon
Perdita II
Set Fast Masetto
Bandala
母系(F-No.) 23号族(FN:23-b) [§ 3]
5代内の近親交配 Hermit 5×4=9.38% St.Simon 3×4×5=21.88% [§ 4]
出典
  1. ^ [17]
  2. ^ [17]
  3. ^ [17]
  4. ^ [17]


脚注

参考文献

  • Richard Sowers (2014). The Kentucky Derby, Preakness and Belmont Stakes: A Comprehensive History. Trade paperback. ISBN 9780786476985 
  • William H. P. Robertson (1964). The History of Thoroughbred Racing in America. Bonanza Books. ASIN B000B8NBV6 

注釈

  1. ^ サリーズアレー(Sally's Alley)は、アルミュール産駒の1920年生の牝馬。1922年にはフューチュリティステークスのほか、クローバーステークスやピムリコフューチュリティに勝って94,847ドルの賞金を獲得、後年の選定で最優秀2歳牝馬に選出されている[8][7]
  2. ^ 1923年当時はケンタッキーダービーよりプリークネスのほうが開催が早かった。

出典

  1. ^ a b c d e f g Avalyn Hunter. “Zev (horse)”. American Classic Pedigrees. 2020年8月14日閲覧。
  2. ^ a b c d e Zev”. National Museum of Racing and Hall of Fame. 2016年4月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年8月14日閲覧。
  3. ^ 1923”. kentuckyderby.com. 2020年8月14日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g Robertson p.254
  5. ^ a b Anne Peters. “The Finn”. Thoroughbred Heritage. 2020年8月15日閲覧。
  6. ^ a b c d e f Robertson p.252
  7. ^ a b c d e f g David Schmitz (2007年8月30日). “Champion Zev: The 2-Year-Old Iron Horse of Saratoga”. bloodhorse.com. Blood-Horse. 2020年8月15日閲覧。
  8. ^ Robertson p.251
  9. ^ a b c Sowers p.95
  10. ^ a b TO MEET PAPYRUS”. Papers Past. Evening Post, Volume CVI (1923年10月8日). 2020年8月16日閲覧。
  11. ^ a b c d e Sowers p.96
  12. ^ A CHALLENGE TO PAPYRUS”. Papers Past. Evening Post, Volume CVI (1923年8月20日). 2020年8月16日閲覧。
  13. ^ PAPYRUS MATCHED”. Papers Past. Evening Post, Volume 55 (1923年9月3日). 2020年8月16日閲覧。
  14. ^ a b c Robertson p.253
  15. ^ FRENCH HORSE LOSES”. Google ニュース アーカイブ検索. The Free Lance (1924年9月4日). 2020年8月20日閲覧。
  16. ^ Robertson p.256
  17. ^ a b c d Zev(USA) 血統情報:5代血統表”. JBISサーチ. 公益社団法人日本軽種馬協会. 2019年9月11日閲覧。

外部リンク


ゼヴ (ミュージシャン)

(Zev から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/05 09:35 UTC 版)

Z'EV
基本情報
出生名 Stefan Joel Weisser
生誕 (1951-02-08) 1951年2月8日
死没 2017年12月16日(2017-12-16)(66歳)
ジャンル インダストリアル
職業 詩人
前衛音楽家
担当楽器 パーカッション
活動期間 1966年2017年
レーベル Touch
Cold Spring
Soleilmoon
公式サイト www.rhythmajik.com

ゼヴ(Z'ev、本名:ステファン・ジョエル・ヴァイサー1951年2月8日 - 2017年12月16日[1]アメリカ合衆国詩人[2][3]パーカッショニスト[4][5]、ミュージシャン[6][7] 産業資材を用いたパフォーマンスにより、インダストリアル・ミュージックの先駆者として知られている[8]

ゼヴはニューヨークのダウンタウンの音楽シーンで1980年代から1990年代にかけて、Elliott Sharpグレン・ブランカとの共演やソロ公演をザ・キッチンやザ・ニッティング・ファクトリーおよびダンステリアで行い、実験音楽の隆盛に貢献した。

1983年には、評論家ロイ・サブロスキーは「ゼヴはルールを壊すことなく、変えることができる。」と評している[9]。また、ジャーナリスト、ルイ・モーラは同じく1983年に「ゼヴは現代芸能、現代の構成における人間の表現を問い直す。」、「ゼヴが実現する多くの現代芸術の究極の目標は、プリミティヴィズム、即興演奏、マルチメディアと芸術の形態を繋ぎ、アーティストとして直接作り出すものだ。」と記している[10]

彼のテキストやサウンドにはカバラアフリカアフロ-カリビアンインドネシアの音楽の文化からの影響があり、トーゴのエウェ、バリ島ガムランインドのタラなどを学んでいた[11]

生涯および活動

ステファン・ヴァイサーは1959年から1965年にかけて、ドラムをArnie Frank、Chuck Floresらと共にカリフォルニアのヴァン・ナイズにあるArt Anton at Drum Cityで学んでいた。

1963年、ユダヤ教を棄教し、以後世界の宗教と密教との関わりを生涯続けた。

1966年から1969年にかけて、Carl Stone、James Stewartと共にバンドを結成、ジャズロックを演奏している。フランク・ザッパのビザール・レコードにオーディションを受けた後、ステファンとCarlは カリフォルニア芸術大学で学ぶことになる[12][13]

カリフォルニア芸術大学では1969年から1970年まで、詩人のEmmett WilliamsやMichael S.Bell、作家で評論家のSue-Ellen Caseと共に学び、S.Weisser名義で映像と詩的な音楽を作り始めた。

1977年、La Mamelleにおいて初めての個人でのパーカッションパフォーマンス「Sound of Wind and Limb」を行う。

1978年、産業資材などのステンレス鋼チタンポリ塩化ビニル、プラスチックを材料とする手製の楽器を使い独自の演奏技術を編み出した。当初、これらの楽器は、前述の素材の集まりであり、演奏者が目に見えるものの、マリネットの一種であるムーブメントベースの演奏スタイルで使用されていた。彼は以降、もともとグラフィティに関連した用語である「Wildstyle」としてこのパフォーマンス形態を参照するようになった。

1978年、ステファン・ヴァイサーは両親から名付けられたヘブライ語の名前(Sh'aul Z'ev bn Yakov bn Moshe bn Sha'ul)に由来するZ'evを名乗るようになる。

1980年、初のイギリスおよびヨーロッパソロツアーを行う。公演の中には、バウハウスの前座もあった。以後、ソロ活動はもとより、様々なミュージシャン(メルツバウジェネシス・P・オリッジ、オルガナム(Organum)など)との共作を作るなどし、その演奏スタイルでインダストリアル・ミュージックアイコンとも言うべき存在となった。

2016年、アメリカのカンザスで起きた列車脱線事故に巻き込まれ、健康に問題を抱えるようになる[14]。数か月間友人のボーイド・ライス(Boyd Rice、NONの活動で知られる)のもとで暮らす。 その後ゼヴは二か月間ヨーロッパに渡り、ポルトでsound lab Sonoscopiaに参加した。 2017年12月16日、 シカゴにて 呼吸不全により死去。

脚注

  1. ^ American percussionist and poet z'ev has died”. Wire. 2017年12月19日閲覧。
  2. ^ Sanders, Rens (1981-06-01). “Z'EV Geluidstyfoon” (dutch). Vinyl (4): 20–21. 
  3. ^ Bohn, Chris (1982-05-08). “Sixophrenic, The Six Faces of Z'EV”. New Musical Express: 15–16. 
  4. ^ Re/Search (2006) [1983]. No. 6/7 Industrial Culture Handbook, Limited Hardback Edition. San Francisco: RE/Search. p. 109. ISBN 978-1-889307-16-9 
  5. ^ Atkinson, Terry (1985-01-16). “Z'EV: Percussion as Performance Art, A Lonely Road”. Los Angeles Times. 
  6. ^ Chris Toenes (2007年5月16日). “Sound artist Z'EV's long, lonely path to innovation”. Indyweek.com. 2011年7月4日閲覧。
  7. ^ Glenn Dixon (2007年5月24日). “A Sound Experience: Z'EV'”. Express Night Out. 2011年7月4日閲覧。
  8. ^ Re/Search (2006). No. 6/7 Industrial Culture Handbook, Limited Hardback Edition. San Francisco: RE/Search. pp. 106–117. ISBN 978-1-889307-16-9 
  9. ^ Sablosky, Roy (March 1983). “Review of Production And Decay Of Spacial Relations”. OP Magazine. 
  10. ^ Morra, Louis (1983). “Review of Elemental Music”. [East Village Eye]. 
  11. ^ Dmitri Kolesnik (1999年6月). “Z'EV – Acoustic Phenomenae”. Drugie Here. 2008年7月25日閲覧。
  12. ^ Re/Search (2006) [1983]. No. 6/7 Industrial Culture Handbook, Limited Hardback Edition. San Francisco: RE/Search. p. 116. ISBN 978-1-889307-16-9 
  13. ^ Mike Hovancsek. “Z'EV: Swords into Plowshares”. 2008年11月12日閲覧。
  14. ^ ゼヴは医療保険に入っていなかったため、友人であるKK Null(岸野一之) をはじめとしたミュージシャンが募金を呼び掛けた。

出典

  • Wozencroft, Jon, ed. (1991). Z'EV 1968-1990: One Foot In The Grave, booklet released together with the double CD as a boxed set. Touch
  • Z'EV (1992). Rhythmajik, Practical Uses of Number, Rhythm and Sound. Temple Press. ISBN 978-1-871744-40-8
  • Zorn, John, ed. (2000). Arcana: Musicians on Music. New York: Granary Books/Hips Road. ISBN 978-1-887123-27-3.
  • RE/Search (1983). RE/Search No. 6/7: Industrial Culture Handbook, RE/Search Publications ISBN 978-0-940642-07-2
  • RE/Search (2006). RE/Search No. 6/7: Industrial Culture Handbook, Limited Hardback Edition, RE/Search Publications ISBN 978-1-889307-16-9

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