アルベカシン
| 分子式: | C22H44N6O10 |
| 慣用名: | アルベカシン、Arbekacin、4-O-[3-Amino-3-deoxy-α-D-glucopyranosyl]-6-O-[2,6-diamino-2,3,4,6-tetradeoxy-α-D-erythro-hexopyranosyl]-N'-[(2S)-4-amino-2-hydroxy-1-oxobutyl]-2-deoxy-L-streptamine、6-O-(3-Amino-3-deoxy-α-D-glucopyranosyl)-4-O-(2,6-diamino-2,3,4,6-tetradeoxy-α-D-erythro-hexopyranosyl)-N1-[(S)-4-amino-2-hydroxybutyryl]-2-deoxy-D-streptamine、HBK、Habekacin、ハベカシン、1665-RB、ABK【アルベカシン】、ABK、ABK【Arbekacin】 |
| 体系名: | 6-O-(3-アミノ-3-デオキシ-α-D-グルコピラノシル)-4-O-(2,6-ジアミノ-2,3,4,6-テトラデオキシ-α-D-erythro-ヘキソピラノシル)-N1-[(S)-4-アミノ-2-ヒドロキシブチリル]-2-デオキシ-D-ストレプタミン、4-O-[3-アミノ-3-デオキシ-α-D-グルコピラノシル]-6-O-[2,6-ジアミノ-2,3,4,6-テトラデオキシ-α-D-erythro-ヘキソピラノシル]-N'-[(2S)-4-アミノ-2-ヒドロキシ-1-オキソブチル]-2-デオキシ-L-ストレプタミン |
ショーン・マイケルズ
(HBK から転送)
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| ショーン・マイケルズ | |
|---|---|
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2008年
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| プロフィール | |
| リングネーム | ショーン・マイケルズ |
| 本名 | マイケル・ショーン・ヒッケンボトム |
| ニックネーム | HBK(ハート・ブレイク・キッド) ショーストッパー ボーイ・トーイ セクシー・ボーイ アイコン メイン・イベンター ミスター・レッスルマニア |
| 身長 | 186cm[1] |
| 体重 | 102kg - 110kg[1] |
| 誕生日 | 1965年7月22日(60歳) |
| 出身地 | マリコパ郡チャンドラー |
| トレーナー | ホセ・ロザリオ[1] |
| デビュー | 1984年10月8日 |
| 引退 | 2018年11月2日 |
ショーン・マイケルズ(Shawn Michaels、本名:Michael Shawn Hickenbottom、1965年7月22日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。テキサス州サンアントニオ出身。
1988年から2010年の引退まで約20年以上WWEに在籍した。プロレスラーとして卓越した技術と圧倒的なカリスマ性、派手なパフォーマンスなどで絶大な人気を誇り、ベビーフェイスとヒール、シングルとタッグの両方で活躍した。ザ・ハートブレイク・キッド(しばしばHBKと略される)、ザ・ショーストッパー、ミスター・レッスルマニア(Mr. WrestleMania)などの異名でも知られる。
来歴
NWA - AWA
少年時代はワフー・マクダニエルの熱烈なファンだったという[1]。18歳の頃、地元サンアントニオの英雄的存在だったホセ・ロザリオに師事し[1]、1984年10月8日に同地区のテキサス・オールスター・レスリングにてアート・クルーズを相手にデビュー。1985年に入ると、ダラスのWCCWや中南部のMSWAなどのメジャー団体にも出場。WCCWではワンマン・ギャングやビリー・ジャック・ヘインズ、MSWAではジェイク・ロバーツやテッド・デビアス&スティーブ・ウィリアムスなど、メインイベンターのスカッシュ・マッチ用のジョバーを務めた[2][3]。
その後、中西部のカンザスシティを拠点とするNWAセントラル・ステーツ地区(CSW)を経て[4]、サンアントニオ地区に戻ってポール・ダイヤモンドとのタッグチーム「アメリカン・フォース」で活動[5]。海外武者修行中だった冬木弘道と川田利明の「ジャパニーズ・フォース」(後のフットルース)との抗争も行われた[6]。
1986年2月、バーン・ガニア主宰のAWAにおいて、CSWでも一時タッグを組んでいたマーティ・ジャネッティと、ロックンロール・エクスプレスにあやかったアイドル系タッグチームのミッドナイト・ロッカーズを結成[7]。CSWのリングにも上がり、5月15日にはNWAセントラル・ステーツ・タッグ王座を奪取[8]。タイトル初戴冠を果たす[7]。主戦場となったAWAでも1987年1月27日、バディ・ローズ&ダグ・サマーズを破りAWA世界タッグ王座を獲得した(この試合は日本でも当時『世界のプロレス』にて放送され、「悲願のタイトル奪取」と報じられた)[9]。
同時期にWWFと契約するが、ナイトクラブでの乱闘事件が元でわずか2週間で解雇された[10]。マイケルズはこの出来事について、ジミー・ジャック・ファンクに挑発されたため、自分がタフであることを示すべく自分の頭にボトルを叩きつけて割ったと語っている[11]。
その後、ジャネッティと共にAWAに戻り、1987年12月27日にデニス・コンドリーとランディ・ローズの "オリジナル" ミッドナイト・エクスプレスを下して再びAWA世界タッグ王座を獲得[9]。なお、当時のAWAには後にマネージャーを務めるシェリー・マーテルや、後世に語り継がれる名勝負を残すことになるスコット・ホールも在籍していた。1987年の下期はジェリー・ジャレットが主宰していたテネシー州メンフィスのCWAにも参戦し、AWA南部タッグ王座を2度に渡って獲得している[12]。
WWF
ザ・ロッカーズ
1988年6月、チーム名をザ・ロッカーズに改めジャネッティと共にWWFと再契約。立体的な空中戦と合体攻撃を武器に、ハート・ファウンデーション(ブレット・ハート&ジム・ナイドハート)、ツイン・タワーズ(ビッグ・ボスマン&アキーム)、ファビュラス・ルージョー・ブラザーズ(レイモンド・ルージョー&ジャック・ルージョー)、ブレイン・バスターズ(タリー・ブランチャード&アーン・アンダーソン)、リズム&ブルース(ホンキー・トンク・マン&グレッグ・バレンタイン)、デモリッション(アックス、スマッシュ&クラッシュ)、パワー&グローリー(ハーキュリーズ&ポール・ローマ)、オリエント・エクスプレス(サトー、タナカ&カトー)、ナスティ・ボーイズ(ブライアン・ノッブス&ジェリー・サッグス)、ビバリー・ブラザーズ(ボウ・ビバリー&ブレイク・ビバリー)などのチームと抗争を繰り広げ、女性や子供の観客を中心にアイドル的な人気を集めた。
1991年1月には、当時WWFの提携団体であったSWS出場のために初来日[1]。3月の再来日では同月30日に行われた『レッスル・フェストin東京ドーム』に出場し、ハート・ファウンデーションと対戦している[13]。
ザ・ハートブレイク・キッド
1991年12月4日、リージョン・オブ・ドゥーム(ホーク&アニマル)のWWF世界タッグ王座に挑戦したが、連携ミスで敗退したことにより相棒のジャネッティと仲間割れ[13]。翌1992年初頭のブルータス・ビーフケーキのインタビュー・コーナー においてはマイケルズがジャネッティをKOし、両者は完全に決裂した。以降マイケルズは、ヒールターンおよびシングル戦線に転向。センセーショナル・シェリーをマネージャーに[14]、鏡を携えた生意気な自惚れ男のギミック "ザ・ハートブレイク・キッド" として人気を得ていく(ちなみにハート・ブレイク・キッドのネーミングは、"ミスター・パーフェクト" カート・ヘニングの考案による[15])。
ヒールターン後はティト・サンタナとの連戦を経てブレット・ハートとの抗争を開始し、1992年7月にブレットの保持するIC王座に挑戦。この試合はWWE史上初のラダー・マッチで行われたが、タイトル奪取には至らなかった。その後、同年10月27日にブリティッシュ・ブルドッグを破り同王座を獲得[16]、初のシングルタイトル戴冠を果たした。
サバイバー・シリーズではブレットのWWF世界ヘビー級王座に挑戦するがシャープシューターで敗退。1993年3月のRAWではジャネッティにIC王座を奪われるも、短期間で王座を奪還する。同時期、マネージャーのシェリーと決別し(ジャネッティの急襲をシェリーを盾にして防いだことによる[17])、ボディーガードとして新しくディーゼルを雇っている。
そうした中、WWFを一時離脱。王座防衛を行わないことが理由とされたが、ステロイドが原因という噂もあった(本人は否定)。WCWとの接触も噂されるも、ほどなくして復帰。[18]。11月のサバイバー・シリーズではジェリー・ローラーの代打として、ハート・ファミリー(ブレット、ブルース、キース&オーエン・ハート)(w / スチュ・ハート)を相手に主将を務めた[19]。
しかしマイケルズの離脱によりIC王座は空位となり、新王座決定戦を制したレイザー・ラモンが新王者となっていた[20]。ただ復帰したマイケルズはこれを認めずに互いに自身が王者だと主張し合う形となった。真の王者を決めるべく行われたのが、1994年のレッスルマニアXでのラモンとのラダー・マッチである。試合には敗れたものの、双方ともに実力を出し切ったこの試合はマイケルズの大ブレイクにつながった。
同年8月28日、ボディーガード役のディーゼルとのコンビでザ・ヘッドシュリンカーズ(ファトゥ&サムゥ)を破り、ロッカーズ時代には果たせなかったWWF世界タッグ王座獲得を実現[21]。しかし翌日のサマースラムでのIC王座を掛けたディーゼルvsラモンにおいて、ディーゼルに技を誤爆し、2人の関係に亀裂が生じる。これは結果的に、11月のサバイバー・シリーズでのディーゼルの裏切りへとつながる。
翌1995年、ロイヤルランブル戦に出場。1番手ながら自身初優勝を果たすと、レッスルマニアXIにおいては遺恨のあったディーゼルが所持するWWF世界ヘビー級王座に挑戦したが敗北した。
短期間の欠場を経てその年の5月にベビーフェイスとして復帰。7月のイン・ユア・ハウスにてジェフ・ジャレットを破り、3度目のIC王座獲得に成功。8月のサマースラムではラモンとの再度のラダー・マッチにも勝利した。またこの時期にはいわゆるクリックと呼ばれるバックステージで強い影響力を持った一派のリーダーとして、マイケルズ自身も団体内での発言力を強めていたとされる。
1996年には史上初となるロイヤルランブル戦連覇を達成。レッスルマニアXIIでは、WWF世界ヘビー級王者ブレット・ハートとWWF史上初のアイアンマン・マッチで対戦。入場時は会場の屋外最頂部から滑車を使ってロープを滑り降りるという有名な入場パフォーマンスを行った(この入場シーンはマイケルズのキャリアを振り返る上で必ずと言っていいほど取り上げられる)。試合は後にマイケルズが「自分の現役生活でも最高の試合」と評するほどの激闘となり、制限時間の60分を超えて延長戦の末勝利。初のWWF世界ヘビー級王座奪取を果たした[22]。しかし、この時の経緯を巡りブレットは激怒し、彼との間に大きな確執を残すこととなった。
また、同年5月19日のMSG大会では、ディーゼルとの試合後に、クリックの面々(マイケルズ、ディーゼル、レイザーラモン、トリプルH)がベビーフェイス、ヒールといった本来は対立すべき役割の選手たちも混ざり合い、観客の声援に応えるカーテンコールを行った(いわゆる"カーテンコール事件")。これはリング上でのケーフェイ破りにあたり、団体内でも物議をかもしている。
さて、初のWWF世界ヘビー級王座を獲得したマイケルズは、マンカインド、ベイダー、ゴールダストらを相手に防衛を重ねる[23]。一度はサイコ・シッドに王座を奪われるも、翌1997年1月に地元サンアントニオのアラモドームに6万人超の観客を集めたロイヤルランブルで王座を奪回。ただ、マイケルズはこの試合で膝を痛め王座返上し、レッスルマニア13は欠場を余儀なくされた。一方で、この出来事はブレット・ハートが契約更改でビンス・マクマホンから高額な契約金を引き出したことに対しての試合ボイコットであった、とも言われている。
復帰後の5月25日には、ストーン・コールド・スティーブ・オースチンと組んでオーエン・ハート&ブリティッシュ・ブルドッグからWWF世界タッグ王座を獲得。この年のサマースラムでは、ブレット・ハート対ジ・アンダーテイカーのWWF世界ヘビー級王座戦のゲストレフェリーを務めた。この試合の決着はショーンのテイカーへのイス攻撃誤爆によってブレットが勝利を奪った。これがきっかけとなりアンダーテイカーとの抗争が勃発、10月のバッド・ブラッドにて初のヘル・イン・ア・セルが行われた。試合は金網の外側にも及び、天井での攻防の末に5メートル落下するなど激闘となり、結末はケインの乱入によってテイカーが敗北を喫した。この抗争の最中、9月20日のイギリス・バーミンガム大会において、ブリティッシュ・ブルドッグからWWFヨーロピアン王座を獲得[24]、これによって団体初のグランドスラム達成者となっている。
DX結成 - 1度目の引退
1997年秋、マイケルズはヒールターンしてハンター・ハースト・ヘルムスリー(後のトリプルH)、チャイナらとD-ジェネレーションX(略称DX)を結成。当時のWWFはライバル団体WCWとの競争で劣勢であり、従来の「ニュー・ジェネレーション」路線から、より過激な「アティテュード」路線へと舵を切る過渡期にあった。DXはその転換期の象徴的存在となる。
DXはブレット・ハートをリーダーとしたハート・ファウンデーションと抗争を繰り広げるが、その中で同年11月、マイケルズはモントリオールで開催されたサバイバー・シリーズにおいて、すでにライバル団体WCWへの移籍が決定していたブレットのWWF世界ヘビー級王座に挑戦。しかし、マイケルズがブレットの必殺技のシャープシューターを繰り出した瞬間、ブレットはタップをしていないにも関わらず、突如としてマイケルズの勝利が宣告される不可解な事件が起こる(モントリオール事件を参照)。この出来事は、マイケルズとブレットの間にこれまで以上の大きな禍根を残すが、とはいえ結果的にはマイケルズは最大のライバル、ブレット・ハートを破り、王者に返り咲く形となった。
キャリアのピークに達したかと思われたマイケルズであったが、この頃から持病の椎間板ヘルニアが悪化。1998年3月29日、レッスルマニアXIVでのWWF世界ヘビー級王座を賭けたストーン・コールド・スティーブ・オースチン戦を最後に32歳で現役引退した。
一度目の引退期間(1998年 - 2001年)
引退後は故郷サンアントニオに戻り、プロレスリング・スクール兼WWFファーム団体のTWA(Texas Wrestling Academy)を設立し、後進の育成に励んだ。TWAには若手時代のタッグパートナーでありAWAやWWFでも活動を共にしたポール・ダイヤモンドもヘッド・インストラクターとして協力しており[25]、卒業生にはブライアン・ダニエルソン、ブライアン・ケンドリック、ポール・ロンドン、ランス・ケイドなど後にWWEで活躍する選手も多い[26]。
引退中もストーリー上WWFのコミッショナー役を務めるなど、WWFのテレビ番組には時折出演。ビンス・マクマホンのユニットコーポレーション[27]に一時的に所属したり、ザ・ロックとトリプルHのアイアンマン・マッチのレフェリーなどを務めた。また1999年11月23日に横浜アリーナで行われたFMW10周年記念大会では、特別レフェリーとして久々の来日も果たしている。私生活においては、親友ケビン・ナッシュの紹介で出会った元ナイトロ・ガールズのレベッカ・カーチと結婚した。この頃は若くして引退を余儀なくされたことによるストレスで、ドラッグに手を出したことを自身のDVD『ハートブレイク・アンド・トライアンフ』にて語っており、子供の誕生とクリスチャンとなったことで更生したという。
引退からの復帰
引退からの復帰後(2002年~2005年)
2002年、nWoの新メンバーとしてケビン・ナッシュがショーンを連れてくる形でサプライズ復帰を果たす。しかしスコット・ホールが不祥事で離脱、ナッシュも負傷欠場しnWoは崩壊してしまう。
そこでトリプルHにかつてのD-Generation Xの再結成を呼び掛けるも、マイケルズが裏切られることでトリプルHとの抗争が始まる。サマースラムでは"団体未公認試合"形式のトリプルH戦でリング復帰し、勝利で飾る。またサバイバー・シリーズでは初のエリミネーション・チェンバー戦で世界ヘビー級王座をトリプルHを倒し獲得。しかし年末のアルマゲドン大会では決着戦としてスリー・ステージ・オブ・ヘル・マッチが行われ1勝2敗で王座を失った。
2004年のロイヤルランブル大会ではトリプルHと再度試合が組まれ、ラストマン・スタンディング戦形式で世界ヘビー級王座戦が行われた。試合は引き分けとなっている。まもなく同年のロイヤルランブル戦で優勝したクリス・ベノワも二人の抗争に割り込む形となり、レッスルマニアXXのメインイベントではマイケルズ、トリプルH、ベノワで3ウェイ戦が行われた(クリス・ベノワが勝利)。
翌月のバックラッシュ大会でも王座獲得に失敗すると、以降はトリプルHとの抗争に戻り、バッドブラッドではノンタイトル戦であるショーン・マイケルズ対トリプルHのヘル・イン・ア・セル戦がメインイベントとなる。試合は50分に迫る壮絶な激闘となるも、最後は合計3発のペディグリーを浴びて敗北、完全決着に至った。
2005年のロイヤルランブルにおいては、カート・アングルを敗退させる。レッスルマニア21ではシングル戦が組まれるも、アンクル・ロックによりタップアウト負けした。レッスルマニア21以降は一時復活したハルク・ホーガンとチームを組み、モハメド・ハッサン、デバリらの反米チームと抗争。しかし、7月4日の独立記念日に開催されたRAWでホーガンにスウィート・チン・ミュージックを浴びせヒールに転向。以降ホーガンとの抗争に入る。サマースラムのメインイベントでのホーガンとの"アイコン"対決には敗れたが、再びベビーフェイスとなった。
2006年~2009年
2006年にはマクマホン親子との抗争が行われる。サタデー・ナイト・メイン・イベントでのシェイン・マクマホン戦では、シェインがマイケルズに対してシャープ・シューターをかけた際に、(マイケルズはタップをしていないにもかかわらず)ビンス・マクマホンがゴングを要請してマイケルズが敗北するという、かつてのモントリオール事件を再現するアングルが組まれた。
直後のレッスルマニア22ではビンス・マクマホンとのストリート・ファイト戦が行われ、スウィート・チン・ミュージックで勝利。レッスルマニア以降もマクマホン親子との抗争は続き、7月にはトリプルHとタッグを組み、9年ぶりにD-ジェネレーションXを再結成した。かつての過激なマイクパフォーマンスも披露し、決着戦としてビッグ・ショーとマクマホン親子とハンディキャップ・ヘル・イン・ア・セルで、ビンスに対して失神しているビッグ・ショーの尻を丸出しにしてビンスの顔を突っ込ませ、最後はスレッジ・ハンマーで殴打して勝利した。
2007年のレッスルマニア23ではジョン・シナの持つWWE王座に挑戦も、王座奪取はならなかった。その後はランディ・オートンやミスター・ケネディと抗争した。
2008年のレッスルマニアXXIVでは、ビンス・マクマホンから”負ければ現役引退"と言い渡されていたリック・フレアーと対戦。"子供の頃からの憧れ"であったフレアーに勝利し、フレアーの引退試合の相手を務めた。
2008年後半は、サバイバー・シリーズでチームJBLなどとの抗争で主将を務め勝利するなど番組の中心として活躍するが、アルマゲドンにて景気悪化の煽りを受け破産状態になったと「告白」、JBLの"従業員"となって彼の試合に介入、観客からブーイングを浴びると共にトリプルHとの仲も微妙になり、悩めるベビーフェイスとして葛藤の日々を続けた。
しかし2009年のノー・ウェイ・アウトで行われた、マイケルズが勝ったら今までの報酬が全て支払われるが負ければHBKやショーン・マイケルズの名前の権利がJBLに奪われるという "オール・オア・ナッシング" マッチに勝利し、ハート・ブレイク・キッドが復活した。
レッスルマニアXXVではジ・アンダーテイカーのレッスルマニア無敗記録(16勝0敗)を破ることを目標とし、アンダーテイカーとシングル戦が行われるが、惜しくも敗北した。
その後しばらく欠場していたが、8月放送のRAWにおいてトリプルHが「テキサスに電話を一本かけるか」とDXの復活を示唆。翌週テキサスに飛び、とある会社の食堂でシェフをしていたマイケルズを発見する。マイケルズは「俺はWWEに復帰する気はない。会社はシェフとしての俺を尊敬してくれてる」と言ったが直後に上司に罵倒され、スウィート・チンで撃沈。DXが再結成した(このスキットは映画『レスラー』のパロディ)。再結成後はレガシーのローデス&デビアスと抗争した。
2010年~現役引退
2010年1月4日のRAWでは12年ぶりにWWEに復帰したブレット・ハートに呼び出され、モントリオール事件以来、確執が続いていると思われた両者が握手をして抱き合い和解するシーンが放送された。
この頃からマイケルズは、前年2009年のレッスルマニアで敗北したアンダーテイカーにリベンジを果たし、彼のレッスルマニアでの連勝記録を止めることに執着するようになる。1月31日には世界ヘビー級王者であったジ・アンダーテイカーと対戦を目指し、挑戦者決定戦であるロイヤルランブル戦に出場するも敗退。
これにより対戦は叶わないかと思われたが、2月21日のエリミネーション・チェンバー大会で行われた世界ヘビー級王座戦にて、アンダーテイカーの王座防衛目前でマイケルズが介入し、王座から陥落させた。翌日のRAWでマイケルズは「俺に復讐したいだろ? ならレッスルマニア26で俺と再戦すればいい」と語ると、アンダーテイカーは、マイケルズが敗北した場合は引退するように条件を付ける。これをマイケルズは受諾し、両者のレッスルマニアでの試合が決定した。
そして3月28日、レッスルマニア26ではアンダーテイカーのレッスルマニア無敗記録とマイケルズの現役引退を懸けた反則裁定無しの試合が行われた。この試合はノンタイトル戦ながらメインイベントとして行われた。しかしマイケルズは、アンダーテイカーのジャンピング・ツームストーン・パイルドライバーを浴びて敗北。これにより現役引退となった。
2011年
2011年にはWWE殿堂入りが発表され、4月2日に行われたWWE殿堂入り式典では家族をはじめとした自分を支えてくれた人々に感謝の言葉を述べた。スピーチの後にプレゼンターのトリプルHに加えクリックのケビン・ナッシュとショーン・ウォルトマンの祝福を受けた。
2012年
2012年2月13日、RAWにて久々に姿を現し、ジ・アンダーテイカーのレッスルマニアでの挑戦を受けないトリプルHを説得したが、トリプルHは了承しなかった。結局、アンダーテイカーの再三のアピールでトリプルHは挑戦を受けることとなり、マイケルズはレッスルマニア28にて両者のヘル・イン・ア・セル・マッチのスペシャル・レフェリーを務めた。
7月23日のRAW1000回記念放送にもゲスト出演し、トリプルHと共にDXの旧メンバー(Xパック、ロード・ドッグ、ビリー・ガン)と久々に顔を合わせ、全員で往年のマイクパフォーマンスを披露した。
2013年
レッスルマニア29ではブロック・レスナーと戦うトリプルHのセコンドとして登場し、10月にはPPVWWEヘル・イン・ア・セルにてダニエル・ブライアンとランディ・オートンのWWE王座戦のレフェリーを務めた。
2015年
3月29日、レッスルマニア31のトリプルHvsスティングのノーDQ戦において、DXメンバーとnWoメンバーが登場して乱戦になっていたところに遅れて登場。スティングにスウィート・チン・ミュージックを放ちトリプルHを救出した[28]。
2018年
11月2日、WWEクラウン・ジュエルにて8年ぶりとなる1夜限りの復帰を果たす。トリプルHとのD-ジェネレーションXとしてブラザーズ・オブ・デストラクション(ジ・アンダーテイカー&ケイン)と対戦。終盤にツームストン・パイルドライバーを仕掛けられようとしたところを逃れるとアンダーテイカーにスウィート・チン・ミュージックを見舞い、最後にトリプルHがケインにぺディグリーを決めて勝利した[29]。
2019年
4月6日、D-ジェネレーションXとして再びWWE殿堂に迎えられた[30][31]。
2022年
NXTの責任者に就任。その後、タレント開発クリエイティブ担当副社長に昇進している。
評価
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この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 (2023年3月)
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派手なパフォーマンスが注目されがちであるが、リング上では伝統的なマット・レスリングの文脈に位置づけられる技術も巧みに用いる。また、ファイトスタイルも幅広く、飛び技(特にラダー・マッチに関しては当代の第一人者の一人と言われる)やラフファイトからサブミッションまで、あらゆる局面に対応することができる稀有なレスラーである。WWEの年間最大大会であるレッスルマニアでも極めて高いパフォーマンスを安定して残しており、「Mr.レッスルマニア」とも称される。後進のレスラーの中には、コスチュームやムーブにその影響を示唆する例も見られる。
得意技
- スウィート・チン・ミュージック
- 基本は対角線上で行う、助走付きのトラース・キック。マイケルズの代名詞的な技として知られている。蹴る前、相手がダウンしている時に対角線コーナーで右足で思い切り足踏みをするアピールを行う。そのタイミングに合わせて観客は足踏みの数をカウントし、実況アナウンサーは「Tune up the band!(バンドの用意ができた!)」というフレーズを発する。ダイビング技を行おうとした相手にカウンターで放つこともあった。
- フライング・フォアアーム
- 主に相手にロープに振られた後、カウンターで放つ。ヒット後、ヘッドスプリングで立ち上がるのが定番ムーブ。ボーイ・トーイ時代(1992年のヒール転向直後)のライバルだったティト・サンタナも得意としていた。
- ムーンサルト・アタック
- 立っている相手に対して放つムーンサルトプレス。コーナー最上段から場外にいる相手に放つこともあった。
- ダイビング・エルボー・ドロップ
- リング外の実況席に倒れている相手に向かってコーナー最上段から飛ぶこともあった。
- リバース・アトミック・ドロップ
- 走ってきた相手にカウンターで仕掛けるパターンと、下記の通りフィニッシュへのコンビネーションで使う場合とがある。
- ハートブレイカー
- 変形足4の字固め。ジェイミー・ノーブルから教わった技であり、時にはフィニッシュ・ホールドとしても用いていた。
- ドロップキック
- 若手時代に多用していた。後年はほとんど使っておらず、ハウス・ショーのみでしか見ることができなかった。
- 逆水平チョップ
- リック・フレアーの定番技であることから、一発浴びせる度に「woooooo!」と観客が叫んでいた。
- スクープスラム
- フィニッシュへのコンビネーション
- 以下のコンビネーションでフィニッシュへとつなげるのが定番である。(1)フライング・フォアアームで相手もろともダウン、(2)ネックスプリングで即座に立ち上がる、(3)起き上がった相手に対してパンチ、リバース・アトミック・ドロップを繰り返す、(4)スクープスラムでリング中央にダウンさせる、(5)コーナーに上りダイビングエルボー、(6)足を踏み鳴らしリズムを取ってから、助走してスウィート・チン・ミュージック。(マイケルズと対等に闘える実力を持ったレスラーには、最後の助走付きのスウィート・チン・ミュージックを回避されることが多い。回避された場合、マイケルズは相手の隙を突き、近い間合いから助走なしのスウィート・チン・ミュージックで仕留める)
- ティアドロップ・スープレックス
- 若手時代に使用していた変形のサイド・スープレックス。ジョバーなどが相手の場合フィニッシュになることも多かった。
- スープレックス
- スーパープレックス
獲得タイトル
- WWF王座 : 3回
- 世界ヘビー級王座 : 1回
- WWF IC王座 : 3回
- WWFヨーロピアン王座 : 1回
- WWE世界タッグ王座 : 5回(w / ディーゼル×2、ストーン・コールド・スティーブ・オースチン×1、ジョン・シナ×1、トリプルH×1)
- WWEタッグ王座 : 1回(w / トリプルH)
- ロイヤルランブル優勝 : 1995年、1996年
- グランドスラム : 1997年
- トリプルクラウン
- WWE殿堂 : 2011年、2019年(D-ジェネレーションXとして)
- NWAセントラル・ステーツ・タッグ王座 : 1回(w / マーティ・ジャネッティ)[8]
- AWA世界タッグ王座 : 3回(w / マーティ・ジャネッティ)[9]
- AWA南部タッグ王座 : 2回(w / マーティ・ジャネッティ)[12]
- テキサス・オールスター・レスリング
- TASWテキサス・タッグ王座 : 2回(w / ポール・ダイヤモンド)[32]
- テキサス・レスリング・アカデミー
- TWAヘビー級王座 : 1回
- 最優秀抗争(2008) vs クリス・ジェリコ
- 年間最高試合(1993) vs マーティ・ジャネッティ戦 マンデーナイトRAWにて
- 年間最高試合(1994) vs レイザー・ラモン戦 レッスルマニアXにて
- 年間最高試合(1995) vs ディーゼル戦 レッスルマニアXIにて
- 年間最高試合(1996) vs ブレット・ハート戦 レッスルマニアXIIにて
- 年間最高試合(2004) vs クリス・ベノワ、トリプルH戦 レッスルマニアXXにて
- 年間最高試合(2005) vs カート・アングル戦 レッスルマニア21にて
- 年間最高試合(2006) vs ビンス・マクマホン戦 レッスルマニア22にて
- 年間最高試合(2007) vs ジョン・シナ戦 4月23日のマンデーナイトRAWにて
- 年間最高試合(2008) vs リック・フレアー戦 レッスルマニアXXIVにて
- 年間最高試合(2009) vs ジ・アンダーテイカー戦 レッスルマニアXXVにて
- 年間最高試合(2010) vs ジ・アンダーテイカー戦 レッスルマニアXXVIにて
- 最も心に残ったレスラー(2010)
- 最も人気のあったレスラー(1995, 1996)
- 最優秀レスラー(1996)
- 五つ星試合(1994) vs レイザー・ラモン戦 レッスルマニアXにて
- 五つ星試合(1997) vs ジ・アンダーテイカー戦 バッド・ブラッドにて
- 最優秀ベビーフェイス(1996)
- 最優秀抗争(2004) vs トリプルH&クリス・ベノワ
- 最優秀抗争(2008) vs クリス・ジェリコ
- 年間最高試合(1994) vs レイザー・ラモン戦 レッスルマニアXにて
- 年間最高試合(2008) vs クリス・ジェリコ戦 ノーマーシーにて
- 年間最高試合(2009) vs ジ・アンダーテイカー戦 レッスルマニアXXVにて
- 年間最高試合(2010) vs ジ・アンダーテイカー戦 レッスルマニアXXVIにて
- 最もカリスマのあったレスラー(1995, 1996)
- 最優秀タッグ(1989) with マーティ・ジャネッティ(ザ・ロッカーズ)
- レスリング・オブザーバー殿堂入り (2003年)
入場曲
- Sexy Boy
- 現在は自らのボーカル。当初のバージョンは、マネージャーを務めていたセンセーショナル・シェリーがボーカルを担当していた(現バージョンでは喘ぎ声のみ)[14]。作曲はジミー・ハート[33]。
- Break It Down
その他
- 1996年、PWI500(ProWrestlingIllustrated誌が選ぶプロレスラーベスト500)で1位に選出。
- 1997年にはヨーロピアン王座の獲得によりWWE史上初のグランドスラム(WWE IC王座、ヨーロピアン王座、WWFタッグ王座、WWF王座)を達成。
- WWEでは初のグランドスラム、ラダー・マッチ、ヘル・イン・ア・セル、エリミネーション・チェンバー・マッチ、ロイヤルランブルで一番手での優勝。
- 2005年秋に自伝『Heartbreak & Triumph』を発売。
- 自称、物凄い音痴。入場曲『Sexy Boy』は自ら歌っているが、かなり編集され、聞ける所までになったと言っている。
- ケビン・ナッシュ、スコット・ホール、ショーン・ウォルトマン(1-2-3キッド、Xパック)、トリプルHとは団体の垣根を超えた親友の間柄にあり、正式なユニットではないが「KLIQ」(クリック)と呼ばれる。
- ミスター・レッスルマニアの名の通り、出場したレッスルマニアに於いては多くの大会で名試合を連発しており、レスリングオブザーバー誌の見立てではマイケルズが出場した17大会のうち、12回は大会のベストバウトをやってのけたとしている。また試合時間も出場17大会、301分と2位のアンダーテイカー(出場18大会、262分)、3位のトリプルH(出場14大会、226分)を離して2012年2月現在において歴代最長となっている。2002年に復帰して以後も3度(WM20、WM23、WM26)に渡ってメインイベントに出場していることから彼のレッスルマニアに於ける重要性が大きかったことが分かる[34]。
DVD(日本語)
- WWE ショーン・マイケルズ マイ・ジャーニー [2010]
- WWE ショーン・マイケルズ ハートブレイク・アンド・トライアンフ(3枚組) [2008]
- WWE DX ニュー・アンド・インプルーブド [2007]再結成後
- WWE D-ジェネレーション-X [2006]VHS版の再発売
- WWE ショーン・マイケルズ ボーイフッド・ドリーム [2004]
- WWE ショーン・マイケルズ フロム・ザ・ヴォルト [2003]
脚注
- ^ a b c d e f 『THE WRESTLER BEST 1000』P102(1996年、日本スポーツ出版社)
- ^ “The WCCW matches fought by Shawn Michaels in 1985”. Wrestlingdata.com. 2023年10月29日閲覧。
- ^ “The Mid-South matches fought by Shawn Michaels in 1985”. Wrestlingdata.com. 2023年10月29日閲覧。
- ^ “The CSW matches fought by Shawn Michaels in 1985”. Wrestlingdata.com. 2023年10月29日閲覧。
- ^ “Tag Team "American Force"”. Wrestlingdata.com. 2016年7月14日閲覧。
- ^ “Toshiaki Kawada”. Online World of Wrestling. 2009年9月18日閲覧。
- ^ a b “Rockers”. Online World of Wrestling. 2023年6月23日閲覧。
- ^ a b “NWA Central States Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月26日閲覧。
- ^ a b c “AWA World Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月26日閲覧。
- ^ 『ピュア・ダイナマイト - ダイナマイト・キッド自伝』P197(2001年、エンターブレイン)ISBN 4-7577-0639-1
- ^ “Why The Rockers Tag Team Were Fired By The WWE, Explained”. The Sportster (2023年1月2日). 2023年10月8日閲覧。
- ^ a b “AWA Southern Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2011年10月17日閲覧。
- ^ a b “WWE Yearly Results 1991”. The History of WWE. 2010年5月3日閲覧。
- ^ a b “Sensational Sherri: Bio”. WWE.com. 2024年5月30日閲覧。
- ^ “The Breakfast of A Champion: The Making of The Heartbreak Kid Shawn Michaels”. Ring the Damn Bell (2020年11月17日). 2023年10月8日閲覧。
- ^ “History of the Intercontinental Championship”. WWE.com. 2010年5月3日閲覧。
- ^ “1992: The Rockers split up, Sensational Sherri manages Shawn Michaels”. Wrestling News. 2023年10月8日閲覧。
- ^ “The USWA matches fought by Shawn Michaels in 1993”. Wrestlingdata.com. 2023年10月29日閲覧。
- ^ “The WWE Controversy Seldom Talked About From 1993”. Pro Wrestling Stories (2023年2月17日). 2023年10月29日閲覧。
- ^ “WWE Intercontinental Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年5月3日閲覧。
- ^ “History of the World Tag Team Championship”. WWE.com. 2010年5月3日閲覧。
- ^ “History of the WWE Championship”. WWE.com. 2010年5月3日閲覧。
- ^ “The USWA matches fought by Shawn Michaels in 1993”. Wrestlingdata.com. 2023年10月29日閲覧。
- ^ “History of the European Championship”. WWE.com. 2010年5月3日閲覧。
- ^ “Paul Diamond - IMDb”. Internet Movie Database. 2023年10月8日閲覧。
- ^ “Texas Wrestling Academy Graduates”. Texas Wrestling Academy.com. 2010年5月6日閲覧。
- ^ “Faction Profiles: The Corporation”. Online World of Wrestling. 2010年5月6日閲覧。
- ^ 『週刊プロレス』2015年4月22日号 pp87 - 89
- ^ “WWE Crown Jewel Results – 11/2/18 (Lesnar vs. Strowman, HBK returns to the ring)”. Wrestleview.com. 2018年11月2日閲覧。
- ^ “D-Generation X to be inducted into the WWE Hall of Fame Class of 2019”. WWE.com. 2019年2月19日閲覧。
- ^ “D-Generation X honor Chyna and “apologize” at WWE Hall of Fame induction”. WWE.com. 2019年4月7日閲覧。
- ^ “TASW Texas Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2016年5月3日閲覧。
- ^ “Jimmy Hart's Under-Appreciated Musical Talent, Explained”. The Sportster (2023年10月6日). 2024年5月30日閲覧。
- ^ “April 5 2010 Wrestling Observer”. f4wOnline (2010年4月5日). 2012年2月15日閲覧。
関連項目
- ザ・ロッカーズ
- モントリオール事件
- クリック
- D-ジェネレーションX
- nWo
- ジノ・ヘルナンデス - 兄弟子であり、ハートブレイク・キッドのキャラクターの先駆者的存在。
- クリス・アダムス - スウィート・チン・ミュージックの元祖 "スーパーキック" の使い手。ヘルナンデスのタッグパートナーとしても活躍した。
- ロックンロール・エクスプレス - 若手時代のマイケルズに影響を与え、ザ・ロッカーズの手本となったタッグチーム。
外部リンク
- Shawn Michaels (shawnmichaels) - Facebook
- Shawn Michaels (@ShawnMichaels) - X
- Shawn Michaels (@officialshawnmichaels) - Instagram
- WWE Superstars
- WWE Classic action photos
- Online World of Wrestling
- ショーン・マイケルズのプロフィール - Cagematch.net, Wrestlingdata.com, Internet Wrestling Database
HBK
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/15 02:31 UTC 版)
別名:HBK(Heart Beat Kato)。 この由来はBentley Continental GT Super Sport試乗会の際に発せられた「夕陽と共に、ハートビートが高鳴るぜ!」を受け、モータージャーナリスト河口まなぶによって命名された。試乗インプレッションはこういった独自の宇宙的表現で語られる事が多く、時折常人には理解の及ばない事もある。しかし、不思議と強力な説得力を持ったプレゼンテーション力を武器に、「carview.co.jp」を日本最大の自動車専門WEB媒体に育てた立役者でもある。
※この「HBK」の解説は、「加藤拓人」の解説の一部です。
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