HANS
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/23 01:50 UTC 版)
HANS(ハンズ)とは、「Head and Neck Support」(頭部前傾抑制装置)の略で、四輪自動車競技での救命デバイスの一つである。 現在はHANSは開発した企業の商標となっているため、FIA(国際自動車連盟)がヘルメット・ヘルメット装着アンカー・テザー含む身体装着デバイスを一括したシステムとし、安全規格統一の上で「FHRシステム」((Frontal Head Restraint systems)=頭部及び頸部の保護装置)として呼称統一を行っている。
頭部の前方方向の動きを規制して、追突などの強い減速加速度から首を保護するための物である。FIAなど格式有る団体が公認する競技では着用が義務づけられておりヘルメットとともにレースには欠かせない用具の一つである。日本など一部地域では清音で「ハンス」とも発音される。一般への知名度はヘルメットほどは無いが四輪自動車競技ではヘルメットと並ぶ安全装備である。
構造としては、ヘルメットと首のサポーターを紐状のものでつなぐようになっており、首のサポーターの部分は肩から胸まで伸びていてシートベルトで上から押さえつけることで位置を固定する構造になっている。
歴史
- HANS本体
- テザー(耐衝撃紐。両側に一対)
- ヘルメットアンカー(両側に一対)
- ショルダーサポート
モータースポーツの世界では昔から、クラッシュ時の衝撃により頭部や頚椎部を損傷し死亡する事故のほかに、1989年のF1で頸髄損傷による半身不随により引退を余儀なくされたフィリップ・ストレイフをはじめ一命を取り留めても首の負傷で半身不随等の障害が残るケースが多く見られた。その理由について近年研究が進んだ結果、体がシートベルトによりマシンに固定されているのに対し、頭部は固定されていないため、超高速でクラッシュすると慣性の法則により頭だけが激しく前のめりになることで首が伸び、頭をステアリング等にぶつけることで脳が損傷を受けたり、首が引っ張られることで頚椎部が損傷したりする、ということが明らかになった。
そこでヘルメットと首のサポーター部を伸縮性の低い紐などで結ぶことで、クラッシュ時に頭が前のめりになっても紐の制約により首が極端に伸びることが制限され、頭部や頚椎部の損傷を防げるのではないか、ということで開発されたのがHANSである。似たような狙いのデバイスとしてはエアバッグが有名だが、エアバッグは機構が複雑でありレーシングカーに組み込むのには向かない上、レース中の他車との接触等によりエアバッグが不必要に動作してしまうことが少なくないことに加え[注釈 1]、頭部の損傷防止には効果が高いものの頚椎部の損傷防止には効果が薄い。これに対しHANSは構造がシンプルな上、頚椎部の損傷防止にも効果が高いことなどから、モータースポーツの世界ではHANSの方が救命効果が高いとされている。
一方でHANSの使用には紐を結ぶ対象となるヘルメットの装着が必須で、加えて5点式以上のシートベルトで上半身がシートに固定されている状態が前提となっている。そのため一般の乗用車の運転時にHANSを使用することは現実的ではない。特に日本の場合、道路運送車両法に定められた保安基準の関係上、公道上で4点式以上のシートベルトを使用することが事実上認められていないため、たとえヘルメットを装着していても公道での運転時にHANSによる救命効果を得ることができない(3点式シートベルトでは上半身の固定が不完全で衝突時の頚部延伸を完全には防げない)。従ってHANSの利用局面は、今のところレース中などサーキットでの走行時や、一部のラリーに限られている。
HANS自体は1980年代後半に、当時ミシガン州立大学の教授だったロバート・ハーバード博士によって発明された[1]。1981年にミッドオハイオ・スポーツカーコースのIMSA GTUクラスレースでルノー・5・アルパインターボに乗り事故死したパトリック・ジャックマールの死因について、彼の同僚でIMSA王者を5度取得したレーサーでもあったジム・ダウニングが、柔らかい砂山に突っ込んだはずなのに頭蓋底骨折で死亡するという不可解な状況に疑問を抱き[2][3]、ゼネラル・モーターズでバイオメカニクス・クラッシュエンジニアの仕事を行っていたハーバードにジャックマールの事故状況とダウニング本人による死因の推定、すなわち急激な減速に伴う拘束された胴体と拘束されない頭部に関連した問題についての最初の指摘を行った事がHANS開発の発端であった。ハーバードは1985年にHANSの最初のプロトタイプを開発し、ダウニングがレースの中でその効果をテストした。1989年に人体ダミーを用いた衝突実験では、頭部への衝撃エネルギーが80 %低減する事が確認された[3]。ハーバードとダウニングは一連の研究の中で得られた成果を元に1990年にHANSを商品化し、HANSの開発・製造・販売のための新会社「Hubbard Downing Inc」を設立した。1996年頃からは当時国際自動車連盟 (FIA) の医療チームのトップだったシド・ワトキンスが中心になって改良が進められ、当初は米国のIRLやCARTなどを中心に普及が進んだ[1](CARTでは2001年よりオーバルコースでのレースにおいてHANSの装着を義務化)。NASCARでも2001年のデイトナ500でデイル・アーンハートが死亡した事故を契機にHANSの普及が進んだ[4]。NHRAでは1996年のブレイン・ジョンソンの事故死を契機にHANSの導入がいち早く行われていたが、2004年のダレル・ラッセルの事故死までは義務化まではされていなかった。NHRAではクラッシュにより火災が発生する場合も多いため、特別な防炎対策が施されたHANSが用いられている。2009年にはFIAは傘下の国際レースカテゴリー全てでHANSの装着を義務付けとした[5]。
世界選手権ではF1において2003年より全ドライバーが装着を義務付けられている[4]。世界ラリー選手権 (WRC) でも2005年よりHANS装着が義務化されている[6]。
日本においては2002年のフォーミュラ・ニッポン 第2戦 富士スピードウェイにおける道上龍のクラッシュ[注釈 2]を受けて、当日のうちに服部尚貴が全ドライバーにHANSの導入を呼びかけ、JRPがHANSの輸入ルート調査に動き出した[7]。全日本GT選手権でも採用が検討される[4]など国内レースにおける採用の契機となった。道上自身もHANSの必要性を説き[7]、復帰後に導入した[4][8]。2017年からJAF公認サーキットレースの全カテゴリーに対し同システムの着用を義務化[9]、ラリーカテゴリーにおいては全日本ラリー選手権では2021年から義務化するなど普及が進んでいるが、ラリーの下部カテゴリー選手権や、スピード行事(ジムカーナ・ダートトライアル・サーキットトライアル)では推奨に留まっている。
また、FIAはFHRデバイスの公認基準として2006年に「FIA8868-2005」規格を、2009年には「FIA8868-2010」規格を策定、現在は「FIA8868-2010」規格に準拠したシステムデバイスが各種メーカーから販売され、樹脂成型された安価な装置も市販されるようになった。
問題点
HANSは紐でヘルメットとサポーターを結んで首の動きを一定の範囲内に制約することで安全を確保しているが、その副作用として左右を振り返って後方を確認することが難しくなるという問題があり[8]、競技者(特に他の競技よりも競技中に首を動かす頻度が高いラリーの選手)の中には「視野が狭くなりかえって危険だ」として、今でもなおHANSの装着を嫌がる者も少なくない。そのような意見を反映して、最近は左右に首を振ることのできる角度を広げたツーリングカーレース用のHANSも存在している。
またHANSの登場初期の頃はサポーターの角度が合わない、シートベルトで押さえつける肩の部分の形状が合わない等の原因から、走行中の横GでHANSがずれて肩や首を痛めたなどといった問題も多く報告されていたが、改良によりHANSの肩に当たる部分に最初からパッドがついたものが登場しているほか、サポーターの角度もオーダーメイドで変更できるようになり、HANSにより逆に体を痛めるといった例は大きく減少した。
また、FHRデバイス装着時に適合した形状の競技用バケットシートも開発・市販されたことで、市販型デバイス着用でも適正な装着位置に保つことが可能になり、廉価版のデバイスが販売されることも相まって下位カテゴリーのアマチュアクラスの選手にも普及しやすい価格帯になり、現在では安全性向上などの理由からほとんどの選手が着用するようになっている。
類似品の登場と認証規格
HANSは登場当初は上記のような問題があったため、それぞれの競技内容に沿ったヘッド・アンド・ネック・サポートの類似品が登場した。はじめに世に現れたのはNASCARで2001年以降HANSと共に使用が認可されたハッチェンズ・デバイスであった[10]。2000年にセーフティ・ソリューションズ社が発表したハッチェンズ・デバイスは、脇下と腰の2箇所で締めたケブラー製ベルトからヘルメットに複数本のストラップを伸ばし、Dリングで連結するもので、HANSのような大きなサポーターを必要としないため体や首の動きを妨げにくい利点があったが、NASCARでは2005年以降はHANSの使用のみを認可し、ハッチェンズ・デバイスの使用は禁止となった。
元々は帆船レース用カッターボートの索具の開発者であったアシュリー・ティリングにより、ヘッド・アンド・ネック・サポート向けのクイックリリース・シャックルが開発され、車両乗降時のHANSの脱着が非常に楽になったことも、ドライバーたちがHANSを受け入れる契機となった。クイックリリース・シャックルは、NASCARドライバーのスコット・プルエットが2000年のPPI・モータースポーツ時代にハッチェンズ・デバイスと共に使用しはじめ、その後HANSでも導入された。これにより、2016年現在では米国のモータースポーツにおいてはモンスタートラックやモトクロスなどの競技でも、何らかの形状のヘッド・アンド・ネック・サポートは大概用いられるようになった。
2007年7月、米国の非営利団体「SFI Foundation」はHANSを始めとするヘッド・アンド・ネック・サポートの安全性の認証規格である「SFI スペック38.1」を発表[11]した。スペック38.1は少なくとも70 Gの衝撃から装着者を防護できる性能要件が課されており、本家HANSの他、2003年にオフロードバイク競技向けとして登場したリアット-ブレイス社のMoto-Rデバイス、2006年にLFTテクノロジーズ社が開発したR3デバイス、セーフティ・ソリューションズを買収したシンプソン・パフォーマンス・プロダクツがハッチェンズ・デバイスの構造を発展させたハッチェンズ・ハイブリッド・デバイス[12]、NecksGen社がパワーボート向けに開発したREVデバイス[13]、レーシングカートやダートトラック向けヘルメットを開発していたZ Sports社が発表したZ-Techデバイスなどがスペック38.1の認証を取得した。
スペック38.1の普及は、それまで多くのモータースポーツで寡占的なシェアを誇っていたHANSの地位を一定以上低下させる効果をもたらした。2010年以降ハッチェンズ・ハイブリッドがFIAやNASCARで再度認証を得てレースシーンに復帰する切っ掛けともなり、オートバイやモーターボート競技向けのシンプルなスペック38.1準拠デバイスは、より安価な価格で効果的なヘッド・アンド・ネック・サポートが参戦資金が少ないプライベーターにも十分に普及するための原動力にもなった。そしてスペック38.1に2016年現在では適合しなくなった旧タイプのハッチェンズ・デバイスやその類似品[注釈 3]は、スペック38.1準拠デバイスの使用を必ずしも義務化していない小規模なレースカテゴリーの参加者であっても、誰もが簡単に入手可能な価格で市場に提供されるようにもなった。
脚注
注釈
- ^ 実際ネッツカップ・ヴィッツレースなど、エアバッグを元々標準装備している車によるレースの場合でも、レース中はエアバッグが動作しないようコンピュータをキャンセルするのが一般的である。ヴィッツレースハンドブック 2012 - ウェイバックマシン(2012年10月30日アーカイブ分)の競技規定も参照。
- ^ 道上は2002年の富士においてクラッシュした際、静止時には絶対に頭部が届かないステアリング部分に頬骨を強打し骨折している。これはヒトの頚椎が一時的な衝撃により平常時よりも瞬間的に数十センチ伸びる現象のためである。
- ^ モーターボート競技向けの安全装備を提供しているライフライン・レースギア社のヘルメット・サポート・システムなど
出典
- ^ a b 小倉茂徳 (2016年5月9日). “ドライバーの安全対策について考える”. オグたん式「F1の読み方」. インプレス. 2020年12月25日閲覧。
- ^ “Motorsport Memorial”. 2017年1月12日閲覧。
- ^ a b “The History Of The HANS Device As Told By Dr. Bob Hubbard by Marty Tyler - CATCHFENCE.com - NASCAR, NNCS, NBS, CTS, ARCA, USAR, USAC, Other Series News, commentary, opinion, stories, information”. 2017年1月12日閲覧。
- ^ a b c d 田口朋典「HANSの実力」『Racing on』第361巻、ニューズ出版、2002年、146-149頁。
- ^ 「Japanese Rally Championship」『WRC Plus』、三栄書房、2009年4月、75頁、雑誌コード 21127-4/10。
- ^ “HANSに関する注意点”. JRCA. 2020年12月25日閲覧。
- ^ a b 貝島由美子「道上のくれたチャンス」『Racing on』第355巻、ニューズ出版、2002年、142-143頁。
- ^ a b 大串信「“自分の命は自分で守る”ために広がったHANSの装着」『Racing on』第370巻、ニューズ出版、2003年、9頁。
- ^ 大串信「ハンスデバイスの義務づけについて」『オートスポーツ』第51巻第15号、三栄書房、2014年7月、50頁。
- ^ “HUTCHENS DEVICE” (PDF). 2017年1月12日閲覧。
- ^ SFI Spec 38.1 - SFI Foundation
- ^ “Hutchens Hybrid takes new angle at head and neck restraint”. ESPN.com (2007年5月3日). 2017年1月12日閲覧。
- ^ “REV-manual”. necksgen.com. 2017年1月12日閲覧。
読書案内
- FIA JAF訳 (2017) (PDF). レース競技におけるHANS®装置のガイドと導入仕様(2017年6月)
- FIA JAF訳 (2011) (PDF). 安全なモータースポーツのためのドライバー安全ガイド
関連項目
外部リンク
ハンス・オフト
(Hans から転送)
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| 名前 | ||||||
| 本名 | マリウス・ヨハン・オフト | |||||
| 愛称 | ハンス | |||||
| ラテン文字 | Marius Johan Ooft | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 | |
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| 生年月日 | 1947年6月27日(78歳) | |||||
| 選手情報 | ||||||
| ポジション | FW | |||||
| ユース | ||||||
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| 1964-1967 | |
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| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
| 1967-1970 | |
95 | (32) | |||
| 1970-1974 | |
92 | (16) | |||
| 1974-1975 | |
23 | (5) | |||
| 通算 | 210 | (53) | ||||
| 監督歴 | ||||||
| 1976 | |
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| 1982 | |
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| 1984-1987 | |
|||||
| 1987-1988 | |
|||||
| 1992-1993 | |
|||||
| 1994-1996 | |
|||||
| 1998 | |
|||||
| 2002-2003 | |
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| 2008 | |
|||||
| 1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
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ハンス・オフト(Hans)ことマリウス・ヨハン・オフト(Marius Johan Ooft、1947年6月27日 - )は、オランダ出身の元サッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはFW。ドーハの悲劇時の日本代表監督。
来歴
父親はアフリカ系黒人の移民[1]。1947年、オランダのロッテルダムにて4男1女の末子として出生、幼少から身近な遊びであったサッカーに興じ1954年、オランダでプロサッカーリーグが発足しサッカーブームの熱にあたる。8歳時ローカルクラブのSVデ・ミュスヘンのユース(サッカーと柔道)に所属、15歳頃にはフェイエノールトからスカウトの声がかかる。この頃のポジションはセンター・フォワード。16歳、当時柔道ブームでサッカーか柔道かと悩んでいたがユースを追い出されシニアチームへと放り込まれる。この頃、サッカー観戦に来ていたマリヨと知り合いダンスに誘い実家に招かれるが父親がCVVクラブの会長と判明し仰天。1964年、17歳、高校を卒業してフェイエノールトと契約。19歳時に徴兵、1年半軍務に服す中、21歳以下軍チームの代表に選出。フェイエノールトでは、FWとしてプレー。24歳頃からコーチングの勉強を始め28歳の時に怪我で引退。
1976年にオランダユース代表(ユースサッカー育成プログラム担当)コーチに就任。日本との初めての接点はこのオランダユース代表スタッフ時代で、勝澤要(清水東高校)率いる日本高校選抜がヨーロッパ遠征をした際に紹介され世話をしたというもの[1]。
1982年杉山隆一に招かれ当時日本サッカーリーグ (JSL) 2部のヤマハ発動機(現・ジュビロ磐田)2ヶ月間の短期コーチとしてオファーされ就任、1部昇格および天皇杯優勝に貢献。1984年に今西和男に招かれJSL2部のマツダSC(現・サンフレッチェ広島F.C)コーチに就任。2年目の1985年にJSL1部昇格に導くと1987年には監督に就任し天皇杯決勝へ導いた。しかし1987-88シーズンにクラブはJSL2部に降格し、オフトも監督を辞任した。
その後はオランダへ帰国し、FCユトレヒトのマネージング・ディレクターを務めていたが、1992年、外国人として初の日本代表監督に就任した。同年夏にダイナスティカップ優勝、秋のAFCアジアカップでは優勝に導き、日本国外で行われる国際的な大会で日本サッカー界初となるビッグタイトルをもたらした。この時の日本代表の頑張りがJリーグ開幕と相まって、マスメディアが大きく取り上げ社会現象ともなった。1993年に行われたワールドカップアメリカ大会アジア最終予選では国民の高い関心を呼び、毎試合驚異的な視聴率を記録。本大会出場にあと一歩のところまで迫りつつもイラクに同点ゴールを許し出場を逃した(ドーハの悲劇参照)。
その後、1994年からはJリーグのジュビロ磐田、1998年に京都パープルサンガ、2002年からは浦和レッズ監督を歴任。磐田では、チームを強豪に育て在任中は、何回か優勝争いに絡み、磐田退任後の翌年磐田は優勝した。京都では、大嶽、山田、森保、岩本、黒崎など積極的に補強したものの、結果を残すことが出来ずワールドカップ開催中に成績不振を理由に辞任。浦和監督時代の2003年にはナビスコカップを制覇。チームに初タイトルをもたらしたが、社長だった犬飼基昭と目指す方向性の違いにより、退任(事実上の解任)。その不満からか、ナビスコカップを制覇した試合後の記者会見にて退任を発表し話題を呼んだ。
その後はスペインに移住。定期的に来日して少年サッカーの指導などに関わりつつも、現場の第一線からは離れて悠々自適の生活を送っていたが2008年9月、途中解任された内山篤に代わって、J2降格の危機に陥っていたジュビロ磐田の監督に就任。磐田には12年ぶり、監督業自体にも5年ぶりの復帰となった。低迷するチーム状況下で守備的な戦術を敷いて戦ったが、降格圏を抜けるまでには行かず、シーズン16位となってベガルタ仙台 (J2) との入れ替え戦に回ることとなる。この入れ替え戦を通算成績1勝1分で勝利し、至上命令だったJ1残留を果たした。フロントからは2009年シーズンの続投も要請されたが、「新しい血を入れるべき」とフロント改革の必要性を説き、同年限りで再び監督業から退いた。
Jリーグ通算100勝の記録を持っており、これは2012年にネルシーニョに抜かれるまでJリーグの外国人監督としては最多であった。
2013年、日本代表やJリーグ各クラブでの監督を務めるなど日本サッカー発展に功績があった人物として、日本サッカー殿堂表彰が決定した[2]。
特徴
日本代表監督時代には、戦術を理解させるためにシンプルなキーワードを多用した。守備面では「DF・MF・FWのスリーラインをコンパクトに保ち、選手間の距離を縮める(スモールフィールド)」、攻撃面では「ボール保持者の周りでトライアングル(三角形のパスコース)を作りながらパスを回す」「サイドアタックでピッチを広く使う」「FWのターゲットマンを活かす」、連携面では「コーチング(声掛け)やアイコンタクト(目線の合図)で意思疎通を行う」「タスク(役割)やディシプリン(規律)を守る」といった約束事を選手たちに教えた。
それらは特別な指導ではなく、オフトジャパンのキャプテンを務めた柱谷哲二は「ヨーロッパでは育成レベルでやっていることでした[3]」と述べている。しかし、オフトが伝えた言葉によって「それまではっきりしなかったものが、明確に見えてくるようになった。チームとしてプレーのイメージを描けるようになっていました[4]」「大きな変化としては、強い相手に対してもパスを回せるようになったことです[4]」と述べている。オフトの言葉はサッカーブームを追い風として、メディアを通じて全国的に波及していった。
Jリーグのクラブの監督としてのオフトは、基本的にポジション毎の役割をはっきりさせて、良く言えば選手に難しく考えさせない基礎的なサッカーを、悪く言えば攻撃の場面でもリスクを背負わずに前に出る選手を少なめにするなど、消極的な戦術を選択していた。磐田や浦和ではMFがFWを追い越すことや、ワンツーパスを禁止することすらあった。これはFWが自由に動けるスペースをMFが消すことのデメリット、そしてFWとMFのポジション、バランスを選手自身に身につけさせるためでもあった。
また、レギュラーメンバーを固定させる傾向の強い監督でもある。日本代表監督時代はアメリカW杯最終予選直前に左サイドバックの都並敏史を怪我で欠き、バックアップメンバーをうまく固定させることができず、結果としてドーハの悲劇を生む遠因となる。その他浦和の監督時代は特に負けている場面でもなかなか選手交代をしない監督であり、交代枠を残したまま負ける試合もあるほどだった(両方とも当時のメンバーは、レギュラーとサブに力の差があったのも原因の一つであった)。しかし世代交代により黄金時代を支えたベテランが抜け、若手中心になっていた磐田への復帰後は、レギュラーとサブに力の差がなく積極的な選手交代をみせた。また若手の積極起用で成長を促し、磐田のJ1残留の原動力にもなった。
オフトが獲得したタイトルは、日本代表として AFCアジアカップ1992、アフロアジア選手権1993、浦和レッズとして初タイトルとなる2003年のナビスコカップなどがあり、磐田や浦和の後の黄金時代や日本のワールドカップ初出場の土台を作ったとも言える。一方、指導者としては優秀だが、負けている場面でも交代枠を残したまま試合を終える事も多々あった事から、生粋の勝負師ではなかったという見方もある[5]。
エピソード
- 1982年、TV解説者を務めていた川淵三郎(当時、日本サッカー協会強化委員長)が、ヤマハの試合の変化に驚き、調べた所オフトの指導と判明した。「日本人監督では限界がある」と分析し、1991年9月オランダにてオフトと会談。幹部会に提出したところ、デットマール・クラマーを招聘した時の言葉の壁や、サッカースタイルの違いに反対されるも「時代も変化しており鈴木徳昭という優秀な通訳もいるし、全責任を受け持つ」と食い下がり、これによりハンス・オフト日本サッカー代表監督として承認される。
- 代表監督就任会見では「私はW杯に日本代表を出場させるために監督に就任しました」と述べたが、日本サッカー冬の時代を過ごしてきた記者たちは耳を疑い、失笑を漏らす者もいたという。その後、代表が短期間で成長をみせるようになると、マスコミはオフトマジックと持ち上げた。
- ダイナスティカップ決勝の韓国戦では、試合前のロッカールームで韓国のスターティングメンバーが書かれた紙を丸めて床に叩きつけるというパフォーマンスをみせ、韓国へのコンプレックスを抱えていた選手たちを鼓舞した[6]。
- アメリカW杯アジア最終予選(ドーハの悲劇)から日本へ帰国直後、同予選でも対戦しアメリカW杯出場を決めたサウジアラビアから監督就任要請があったことを、NHK「日本サッカーの50年」番組内にて明かした。
- 日本代表監督時代、中心選手であったラモス瑠偉とはたびたび練習法や起用で衝突していた。オフトが練習中選手を呼ぶときの指笛にさえ、ラモスは「俺達はあんたの犬じゃないんだぞ!」とつっかかっていた。両人の確執が始まったのは就任当初の顔合わせの時に、通訳を介して「君とカズに自由は与えない」と告げ、それまで自由なゲームメーカーとして君臨していたラモスが「機械的にやれというのか」と受け取ったことによる。しかし後年オフト自身は通訳のミスであるとし、あくまで「日本代表は国の代表であり、全員に責任がある。特にラモスのような創造的な選手はその力をチームのために活かす責任を持つ」という趣旨であったとしている。
- オフトとラモスの対立は、選手個々の役割(タスク)やサイド攻撃を重んじるオフトと自由奔放な読売クラブ流の中央突破にこだわるラモスとのサッカー観の衝突でもあった[7][8]。ラモスの監督批判が雑誌に掲載され、オフトがラモスを呼んで事情を聴くという事件も起こり[9]、キャプテンの柱谷がラモスを説得する役割を負った。その後両者は互いに歩み寄り、ラモスはアジアカップが終わったころには「オフトを男にしたい」と公言していたという[10]。ラモス自身ものちに「野良犬みたいな俺まで抱え込んでくれて見捨てなかった。日本サッカーを強くしたのは間違いなくオフト。だから男にしたかった」と語っている現在では、尊敬する人として度々名前を挙げている[11]。
所属クラブ
- 1967年 - 1970年
SCフェーンダム
- 1970年 - 1974年
SCカンブール
- 1974年 - 1975年
SCヘーレンフェーン
指導歴
- 1976年 U-21サッカーオランダ代表 コーチ
- 1982年 ヤマハ発動機 コーチ
- 1984年 - 1987年 マツダSC コーチ(実質的には監督として指揮していた)
- 1987年 - 1988年 マツダSC 監督
- 1988年 - 1992年 FCユトレヒト マネージング・ディレクター
- 1992年5月 - 1993年10月 日本代表 監督
- 1994年 - 1996年 ジュビロ磐田 監督
- 1998年2月 - 1998年6月 京都パープルサンガ 監督
- 2002年2月 - 2003年 浦和レッズ 監督
- 2008年9月 - 2008年12月 ジュビロ磐田 監督
タイトル
指導者時代
- 日本代表
- 浦和レッズ
書籍
- 「日本サッカーの挑戦」徳増浩司訳、講談社、1993年9月刊 ISBN 4062063638
- 「Coaching―ハンス・オフトのサッカー学」大原裕志との共著、小学館、1994年12月刊 ISBN 4091023134
脚注
- ^ a b “【育将・今西和男】のちの日本代表監督ハンス・オフトを招聘した男”. スポルティーバ (2015年10月10日). 2015年10月11日閲覧。
- ^ 元日本代表監督のオフト氏らが殿堂入り サンケイスポーツ 2013年8月5日閲覧
- ^ 『サッカー日本代表 システム進化論』、75頁。
- ^ a b 『サッカー日本代表 システム進化論』、74頁。
- ^ 二宮清純 "ノンフィクション・シアター・傑作選 第106回 残り10秒で勝負師失格のハンス・オフトの教訓<後編>". SPORTS COMMUNICATIONS. (2007年8月24日) 2016年2月27日閲覧。
- ^ 原田大輔 "日本サッカーが韓国コンプレックスを克服した日 蘇る記憶、オフトが刻んだアジア制覇の原点". Sportsnavi. (2011年1月25日) 2016年2月27日閲覧。
- ^ 二宮清純 "福田正博(サッカー解説者)<前編>「重圧に押し潰された“ドーハの悲劇”」". SPORT COMMUNICATIONS. (2013年5月9日) 2016年2月26日閲覧。
- ^ 『サッカー日本代表 システム進化論』、96頁。
- ^ 『サッカー日本代表 システム進化論』、98頁。
- ^ 飯尾篤史 "福田正博「20年前のドーハは『悲劇』じゃない」page3/5". Web Sportiva. (2013年10月27日) 2016年2月2日閲覧。
- ^ 二宮寿朗 "<ドーハの背番号10、秘めた思い> ラモス瑠偉 「俺はオフトを男にしたかった」". Number web. (2013年10月23日) 2016年2月2日閲覧。
参考文献
- 西部謙司「サッカー日本代表 システム進化論」、学研新書070、学習研究社、2010年
関連項目
- Jリーグ監督経験者
- アイコンタクト
- 今西和男
- ビム・ヤンセン
- ドーハの悲劇
- ラモス瑠偉
- 三浦知良
- 中山雅史
- 福田正博
- 森保一 - 日本代表のボランチに抜擢され、「オフトサッカーの申し子」と呼ばれる。
- 金鍾成
- ハーフナー・ディド - オフトのオファーでマツダSCのGKとして来日。
外部リンク
- ハンス・オフト - Soccerway.com
- ハンス・オフト - FootballDatabase.eu
- ハンス・オフト - WorldFootball.net
- ハンス・オフト - Transfermarkt.comによる選手データ
- ハンス・オフト - Transfermarkt.comによる指導者データ
- ハンス・オフト - J.League Data Siteによる監督データ
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Hans
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 07:11 UTC 版)
Ver.3.5.5追加有料キャラクター。Deemoとのコラボレーションキャラクター。イメージカラーは黒。本名は「Hans Turner」で、元調査隊員であるHilda Turnerによって保護されたため、Turner姓を名乗っている。ピアノに長けており、自分の「記憶」の中に旋律の断片を持っている。ConneRと面識があり、彼と一緒に行動していく中で、自分の中にある「記憶」の謎に迫っていく。iMのアカウントは持っていない。楽曲はDeemoで登場した曲。
※この「Hans」の解説は、「Cytus II」の解説の一部です。
「Hans」を含む「Cytus II」の記事については、「Cytus II」の概要を参照ください。
- Hansのページへのリンク