He 100 (航空機)
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He 100
He 100は、ドイツのハインケル社がドイツ空軍向けに開発した試作戦闘機。空軍には制式採用されなかったが、戦力を偽装するプロパガンダに利用された。
概要
ハインケル社が1938年に初飛行させた機体。ドイツ空軍省の分類では、高速研究機としての位置付けであったが、ハインケル社としては不採用におわったHe112(初飛行1935年9月)の代替機としての実用戦闘機を目指したもので、レシプロエンジンを単発搭載し単座の設計となっていた。世界速度記録樹立時He 112UやHe 113という名称でプロパガンダとして公式発表したケースもあった。計19機が試作されたが、制式採用されずに終わった。大日本帝国海軍が本機を購入したことでも知られる。
開発
前作 He 112 は空力を重視し曲面を多用した優美な機体であったが、一方 メッサーシュミット Bf 109 は直線的形状で細部まで量産性に配慮しており、ドイツ空軍は短期間に機数を揃えられる Bf109 を次期戦闘機に選んだ。飛行性能自体は両機とも同じエンジン[注釈 1]を積むために拮抗しており、僅差だが上昇力では He112 が、水平最高速度では Bf109 が勝っていた[1]。この敗北がむしろハインケルの高速戦闘機に対する意欲を強める切っ掛けになり「次の戦闘機はハインケルがいただきますからな」とハインケル自身がウーデットに宣言している。ウーデットは逆に、合理化のため航空機メーカー各社は特定の機種に専念すべきであり He111 を生産するハインケル社は爆撃機を担当する事、また Bf109 はやがて新型のDB601エンジンを搭載し 550km/h、600km/hへと高速化するであろう事を告げた。ハインケルは「爆撃機は性に合わない」「1年後に時速700km/hの戦闘機を造ってみせようか?」と応じ、「それは無理だ、それに必要なエンジンは上手く行っても4、5年後でなくては…」と返すウーデットに、「エンジンは待たない、機体にはまだまだ改良の余地があると思う…」「試作機は1937年の末に」と宣言[2]。ドイツ航空省からの正式な試作下命なきまま社内コード P.1035 の名で自主開発が進められた。
双子のギュンター兄弟(Siegfried and Walter Günter)が設計を指揮し、製作順により当初 He 113 の名が与えられていたが、不吉な番号「13」の通り、完成間近の1937年5月25日にヴァルターが交通事故で早世したことで遺作になってしまい、He 100 に改称された試作1号機 (V1) は、翌1938年1月22日に初飛行した[注釈 2]。
設計
搭載するエンジンはダイムラー・ベンツ DB 601A。高速化に向けた努力は、重量軽減、主翼面積縮小、表面平滑化[注釈 3]というごく一般的なことから、外部冷却器の排除という実用戦闘機としては非常識なものを含んでいた。気筒を間接冷却するラジエーターの空気抵抗は大きく、これを無くすだけで80km/h速くなると計算されていた。速度記録専用の水上機では既に外部冷却器を無くし、主翼表面、フロート表面のパイプに循環させる表面冷却を実現させていたが、被弾して穴が開けば外部冷却器と同様、水が漏れてカラになりエンジンが焼き付いてしまう。ハインケル社はこの点を改善した蒸気式表面冷却を研究、実用化して本機に採用した。通常の液冷エンジンでは気筒を冷やすウォータージャケット内の圧力は1~1.2気圧程度だが、本機では3気圧という高圧で循環させ、エンジンから出た所で急減圧させると一部は蒸気となって冷却水から潜熱を奪う。水は再びエンジンに戻され、蒸気は主翼前縁に通されたパイプ[5][注釈 4]で主翼表面の冷却器へと導かれる。蒸気はそこで凝結して水となり同じくエンジンへと戻される[注釈 5]。実際に蒸気となるのは全冷却水の50分の1程度であり、被弾して冷却表面に穴が開いてもすぐにはエンジンが焼き付かず飛行を継続できる[6][注釈 6]。ただし地上運転や上昇時などの冷却不足を補うため引込式のラジエーターを胴体下面に装備している。オイルクーラーも同じく蒸気式表面冷却を採用しており、オイルがエンジン内部を潤滑して受けた熱は、熱交換器でメチルアルコールへと移される。沸点が65度のメチルアルコールは蒸気となって後部胴体上面と水平、垂直尾翼の表面で冷却され、液体に戻って再びオイルの冷却に還流される[7]。 He 112 や Bf 109 で離着陸時の事故を多発させていた外側引込式主脚に対し、間隔が広く一般的な内側引込式に改められていたが、過剰な軽量化のため故障が頻発した。また Bf 109 では後部胴体が尾翼に向けて尻上がりになっているのに対し、He 100 は尻下がりになっているのが面白い違いである。
構造面での進化も目覚ましく、規格部品の数こそ He-112の1279に対し2186と増加したが、その他の部品数では2885に対しはわずか969(He-100の後期型)。鋲数でも26864本に対し11543本に減少し、主翼も楕円形平面から直線の2段テーパーに改めた事で翼の製造に要する時間が延べ1150時間も節約された。従来、鋲打ちが困難な場所は軽量化構造を断念していたが新たに炸薬鋲方式を開発、導入している[注釈 7]。これはE型までのBf109で顕著な直線基調の外形へのアンチテーゼとして、流線曲面形状と量産性を並立させようとするハインケル社の技術的姿勢を表しており、主翼と胴体の干渉抵抗を抑える翼根のフィレットも簡素にとどめたBf109より丁寧に整形されている。過給空気取入口は左翼根前縁にあり、エンジン左側面に最短で開口するBf109に比べ配管経路は長くなった。表面冷却にも利用される水平尾翼は当初、垂直尾翼基部に取付られていたが胴体上部に下げられており、風防の形状も各機で差がある[9]。
また九七式戦闘機以降の一連の中島飛行機製単座戦闘機と同様に、主翼前縁後退角を0とする手法[注釈 8]は本機以降ハインケル社でも常套化し、He 280、 He 219、He 162らに受け継がれている。内翼に僅かな下反角があり軽い逆ガル翼を構成している。
各型
V1 から V3 を A型、V4 と V5 をB型、V6 と V9 までをC型と呼び、C型が戦闘機型の原型とされ、先行量産型 D-0 型 が3機、量産型の D-1 が12機造られた[12]。D型は翼幅を10.80mに拡張されたとする資料もある[13]。
試作機の機体記号は以下の通り [14]
V1 D-ISVR
V2 D-IUOS
V3 D-ISVR
V4 D-IRCN
V5 D-ISRO
V6 D-IACH
V7 D-IQRS
V8 D-IDGH
V9 D-IWOP
V10 D-ITLR
速度記録
1938年6月5日、ドイツ空軍内では異例にハインケル社に好意的だった(あるいはナチスの政治的判断に迎合しない自由人だった)エルンスト・ウーデット大佐自ら操縦桿を執り、通常型1,175hpエンジンの試作2号機 (V2)[15] で100km周回区間の世界速度記録 634.32km/h[注釈 9]を出すや、航空省はこれをHe 100ではなくHe 112U(U はウーデットの頭文字)の成果として発表、世界各国に大センセーションを巻き起こした。ことにイギリス、フランスは脅威として受け止め、航空技術の遅れを取り戻す必要性を痛感した[17]。
この時に破った速度記録はイタリアの双発 ブレダ 88 が保持していた周回速度記録で、周回ではない"陸上機"の世界速度記録 1937年11月11日 Bf109(DB601)による 610.95km/h をも上回っていた[18]。いっぽう"絶対"速度記録はこの時、1934年10月23日 イタリアの水上機マッキ M.C.72 が記録した 709.209km/h であり、この記録を破るために翼幅、主翼面積を削り、V2 では残されていた引込式のラジエーターも取り払った特別機 He 100 V3 が製造された。エンジンも特別製の DB601R [注釈 10] で、3000回転で1800hpを発揮(DB601Aa は2500回転で1175馬力)。メチルアルコールを大量に含んだ特殊オイルと特殊燃料を使い、全力運転すると約60分でエンジン寿命が尽きるという速度記録専用のエンジンであった[19]。
速度記録の飛行規約、計測方法はパリのFAIによって厳密に定められており、まず記録が承認されるには新しい記録が以前の記録を最低 8km/h [20]上回らなければならない。長さ3kmの直線コースを両方向に2度、計4回飛び抜け、その平均値を速度記録とするが、降下による増速を封じるためコース上は高度75m以下、離陸から着陸まで高度400mを超えて飛んではならず、もちろん速度計測後は無事に着陸しなければならない。この3km区間を通過する秒数が記録に直結し、計測機器の測定精度にも左右されるため、アスカニア、ローレンツ、テレフンケンの各社が共同で 1000分の1秒まで計れる計測器を新規開発している[21]。
1938年9月はじめ、ニチュケの操縦する V3 機は記録挑戦にヴァルネミュンデを離陸したが片脚が引込まず挑戦を断念、時速 180km/hでの片脚着陸は危険なため、ニチュケは機を捨ててパラシュート降下し軽傷を負った。墜落した V3 に代わり、制作途上の V8 が V3 と同じ仕様に組立られ、翌年の3月30日の夕刻にハンス・ディーテルレの操縦でオラニエンブルクを離陸[注釈 11]、見事に記録挑戦を成功させ、少なくとも 730km/h に届いたという感触から M.C.72 の記録を破ったのは確実視され、パイロット始め関係者は喜びを分かち合った。しかしFAI立会人による速度記録の算出は翌朝までかかり、予想を上回る 746.606km/h で正式に記録を更新した[22]。空軍省はこれも実戦配備中のHe 112Uによるものとして対外宣伝した。
同じく速度記録を狙っていたメッサーシュミット社は1938年8月1日にMe 209V1 を DB601A で初飛行させており、DB 601ARJ[注釈 12]に換装して1939年4月26日アウクスブルクにて速度記録に挑戦[注釈 13]。He 100 V8 の記録を8.532km/h上回る 755.138km/hを出した。これはFAIの規定「新しい記録が旧記録を最低8km/h上回らなければ認定されない」に対しわずか0.532km/h速いだけだった。しかもこの測定コースは標高約500mで He 100 V8 が飛んだオラニエンブルク(標高約50m)より空気密度が低く、抵抗が減って速度が出やすい。もし V8 がこのコースを飛べば25km/h速くなる計算であり、FAIに標高規定が無いのを利用したメッサーシュミット社の計略を見抜いたハインケルは「また飛ぼうじゃないか、どうせ永遠の戦いだよ。どっちが速いかを⋯」と闘志を隠さず、標高が同じレヒフェルトで再挑戦に向け準備を始めたが、技術局技監のルホトから制止する手紙が届き、それでも準備を進めたが1939年9月1日の開戦により結局は実現しなかった[25]。Me 209 [注釈 14]の速度記録は Me 109 R の記録として世界に誇示、宣伝され、実戦配備中の Me 109 戦闘機もこれに近い速度性能を持つという諸外国の推測、畏怖を助長させる偽装工作に活用された[26]。その頃イギリスのスピットファイアも速度記録挑戦の準備を進めていたが He 100 Me 209 両ドイツ機の記録には届かない事が確実であったため計画を中止している[27][28]。
運用
不採用、宣伝機へ
ウーデットが V2 機で周回速度記録を破った約2ヶ月後の1938年8月16日、フランス空軍参謀総長ヴイユマンとその幕僚が空軍力の視察にドイツを訪れ、同20日にはオラニエンブルクのハインケル工場を見学。片発を停めた He111 のデモンストレーション飛行と、生産ラインを出てずらりと並ぶ He111 を見せた後、ペーネミュンデに待機させていた He100 をタイミング良く飛来させ、高速性能を見せつけてから着陸。彼らの案内役であるエアハルト・ミルヒとウーデットは、この He 100 が既に量産に入っているという嘘の会話を交わして彼らを欺いている。実際には試作機がまだ3機しかない本機を脅しの材料に使ったのである。フランス空軍の高官たちは着陸したばかりの He 100 の滑らかな表面に触れ、その熱さに叫び声を上げたという[29]。
期待通りの高性能を発揮した He 100 の制式採用をハインケル社は確信したが、戦闘機をメッサーシュミット社の専任とする事が空軍省の当時の方針とされていた。ベルリンの技術局は同じ量産型エンジンを積んだ場合 He 100 の方が高速であり、脚もより頑丈である事を知っていたが、劣速の Bf 109 でもこの戦争に勝てるという楽観的な見通しを持ち「我々は戦闘機の事で心配していない」という態度だった[30]。また、He 100自体の機体設計も、被弾率の高い主翼を表面冷却器に当てたことが脆弱性を高めることは自明であり、高い失速速度と高翼面荷重、発動機架まで廃止してエンジンをバルクヘッドに直付けするなど「凝り過ぎ」と評された生産性・整備性上の問題点も多く、実用性に対する懸念は当初から強く持たれており、前線で活躍中のBf 109の大量産を減じてまでHe 100を並行配備すべきとの積極的な支持が得られず(搭載するDB 601エンジンの生産数が限られていたため、He 100を生産すれば、同エンジンを搭載するBf 109/Bf 110の生産減となる)[注釈 15]、それまでの努力は水泡に帰した。
He 100D(He 113)への発展
ハインケル社ではA、B、 C各型に続き、自費で増加試作型のHe 100D-0を3機、量産準備型のHe 100D-1を12機製作した。これはレーサー的性格が強かった初期型から、戦闘機としての実用化に転じたもので、尾翼面積を拡大して方向安定性を増し、一部は自社のHe 111など爆撃機に用いられていたユンカース ユモ 211へ換装し[要検証]、表面冷却器からコンベンショナルな胴体下半埋め込み式の集中冷却器に変更するなど、度重なる改修を施したものの、原設計がDB 601を前提に特化されていた結果、突出した高速性が失われた事もあり、不採用の決定は遂に覆らなかった。
しかし、He 100 D-1 は He 113 の仮名で部隊マークを何度も書き換えられ、あらゆる角度から撮られた写真は「Bf 109 に次ぐ新鋭戦闘機」として宣伝されたため、すでに実戦配備された制式戦闘機という誤解を生み、連合国側でもHe 113との交戦を申告するパイロットが続出した[31]。実際、He 100D-1の内3機はハインケル社の工場防空に当っていたが、会敵機会はなかった。
不採用が確定した後、ハインケル社はジェット戦闘機He 280計画に注力することになり、余剰化したHe 100はソ連と日本に放出された。
He 100 の売却
「驚異の高速戦闘機 He 100 」の魅力に引き寄せられ、まずソ連の視察団が1939年10月30日、マリーエンエーエ(Marienehe)のハインケル社工場を訪れる。続けて日本海軍の視察団も同じ日、同じ場所に来訪した。これがハインケル社側の都合だったのか不明だが、工場見学する両国視察団が鉢合わせしないようオートバイ伝令と警報班を組織してニアミスを防いでいる[32]。ハインケル社は両国への売却に応じる事で He 100 の自主開発に要した経費を穴埋めした形になる。
日本の He 100
日本海軍は大東亜戦争(米国呼称=太平洋戦争)開戦直前の1941年にHe 100D-0を2機、2機のHe 119と共に購入し、ハインケル社からクルト・シュミット技師、ニチュケ(Gerhard Nitschke 初飛行させたパイロット)を招聘して、ハインケル100型戦闘機(略符号AXHe1)[33]の名称で、日立航空機千葉工場による国産化を前提に評価試験がなされた。小福田租(海軍航空技術廠飛行実験部戦闘機担当主務部員)は、相当数購入するという協定があったとしている[34]。
飛行開始は1940年12月なかばで、当時としては異例なほど離陸滑走距離長く、着陸速度も大きい機体だったため、海軍で一番広い霞ヶ浦の飛行場で慣熟飛行を行っている。He 100 初操縦の小福田は、広大な滑走路を半ば過ぎても離陸せず、末端にある巨大な格納庫が目前に迫り冷や汗をかいている。飛行に慣れてから横須賀航空隊に持ち帰り本格的なテストに入ったが、この滑走路は山が近く、離昇角度、着陸滑空角度ともに小さい He 100 は山の頂上スレスレに越して行く事も多く、いつも息が詰まる思いをさせられたという[35]。また上昇飛行中に主翼上面前方の孔から蒸気機関車のような蒸気が噴出[注釈 16]して驚いたと回想し、無骨で実用的で合理主義、時に搭乗員の意見も量産性のために無視するなど、ドイツらしい戦闘機と述べている[37]。
日本海軍ではそれ以前に九六式艦上戦闘機との比較のためHe 112を少数購入したものの、高速ではあるが九六戦より上昇力や運動性に劣ると判断され発注をキャンセルしていた。He 100は全備状態で670km/hもの高速を実地に発揮して関係者にショックを与え、局地戦闘機としての適性を示したが、操縦が困難で航続力に劣ること、生産に要する技術が当時の日本の水準を超越していたこと、輸送中に破損した生産治具類を再手配したところ開戦によって輸送手段を阻まれたこと、緒戦の快進撃の最中で防空思想が薄れていたこと等から再び採用は見送られた。
堀越二郎は著書「零戦」 において He 100 と A6(零戦の試作機)で行われた模擬空戦の模様を書いている。「速度が非常に違うため両方が逃げ腰ならば勝負にならず、両方の戦意が旺盛ならばA6が勝つ、ただし500km/h以上の高速機を捕捉するには、もちろん時速650km/hの He 100 が勝り、徹底的に爆撃機邀撃用である」。そしてさらに「He 100 は失速が激しく来る、昇降舵の効き鋭敏過ぎ、方向舵重すぎ等の欠点あるほか、高速時の縦釣り合い不良なり、危惧を感ず。対爆撃機邀撃用としても本機は未完成品なり」とも書かれており、これらの見解は 1941年2月14日 下川万兵衛、小福田租の両海軍パイロットと堀越の3人で協議した内容を堀越がメモしたものと思われ、海軍が He 100 を受領後、真剣に飛行テストを重ねていた事がうかがえる。堀越個人としては He 100 に対し 「主翼表面を冷却器とし、胴体を窮屈なくらい細くしており、これらの点からも実用機とは見えなかった」との印象を記している[38]。
なお He 100 の技術は、幾つかの日本の航空機設計の参考にされている。日本陸軍のキ61が He 100 と同様に発動機架を胴体と一体構造にして軽量化を図り[39]、キ64が蒸気式表面冷却(滑油冷却器は旧来型のラジエーター)を採用[注釈 17][40]、また愛知の艦上攻撃機 流星 の主翼断面形は He 100 の翼型をベースにしており[注釈 18]、海軍空技廠 P1Y 銀河も翼型決定のプロセスで He 100 の名を挙げている[42]。三菱の艦上戦闘機 烈風では He 100 の脚構造を参考にしている[43]。
ソ連の He 100
独ソ開戦前のソビエト連邦は、性能を落とす改造を受けた前期試作機(V1、V2、V4、V5、V6、V7)を購入している。支払いは通貨ではなく原料や資材で行われた。持ち帰った He 100 をさっそくテスト飛行したソ連軍は、同時に輸入した Bf 109 E に比べはるかに実直な設計であると評価。性能劣化処置のせいか馬力が出ない Bf 109 E [注釈 19]に対し、海面高度で速度556km/h、高度4950mで650km/h、高度5000mまで4.7分(すべて飛行重量2490kg)という性能を発揮している。しかし水平面での機動性は劣悪で着陸速度は159km/hにも達し武装は機銃2丁と貧弱で、総合的には優れた戦闘機ではないと判定されている[注釈 20]。その後も詳細な調査が行われて機体の設計上の特徴が報告書にまとめられ、ソ連の各試作設計局に共有された。特に良好な操縦性、方向舵と昇降舵の効きに関する有益な情報をもたらしたと言われる[44]。また対ソ連開戦後、捕獲したLaGG-3戦闘機をレヒリンに持ち込んで調査したドイツ軍は、明らかに He 100 からコピーしたとわかる所をいくつも発見した[45]。なお購入に訪れた視察団の中にはヤコブレフ設計局のアレクサンドル・ヤコブレフがおり、受け取り技師としてしばらくドイツに滞在したが、ハインケルは33歳だったこの若者を帰国後も覚えており、YAK戦闘機設計の功績で15万ルーブルのスターリン賞を立続けに受賞した際に、彼の姿を思い出したという[46]。
諸元
| He100 D-1[47] | He100 V2(He112U)[48] | He100 V3 / V8[49] | |
|---|---|---|---|
| 全長 | 8.20m | ||
| 全幅 | 9.40m | 7.60m | |
| 全高 | 2.5m | ||
| 主翼面積 | 14.5m2 | 11.0m2 | |
| 自重 | 2070kg | ||
| 全備重量 | 2500kg | ||
| エンジン | DB601Aa | DB601Aa/DB601M | DB601R/3000rpm |
| 最大速度 | 670km/h | 634Km/h | 746.6km/h |
| 実用上昇限度 | 9890m | ||
| 航続距離 | 1005km | エンジン寿命から 最大出力で約60分[50] |
|
| 乗員 | 1名 | ||
| 武装 | MG FF 20 mm機関砲 × 1(モーターカノン) MG 17 7.92 mm機関銃 × 2(機首) |
||
現存する機体
He 100 D-1 のレプリカがプレーンズ・オブ・フェイム航空博物館に展示されている。
なおドイツ博物館の天井から吊された He 100 の白黒写真がネット上に存在するが、これは米英による爆撃以前の撮影で、のちに博物館が爆撃を受けた時に破壊されてしまった[注釈 21]。
登場作品
- 『戦翼のシグルドリーヴァ』
- He-100D-1が駒込・アズズの乗機として登場[51]。様々な改造が施されている、という設定で[51][52]、コクピット後方には8連 × 3列の"ゾンダーゲレート[注釈 22]"が装備されている。
- 『War Thunder』
- ドイツツリーランクⅠ戦闘機。MG 17 7.92mm機関銃を三門載せたタイプとなっている。
脚注・出典
注釈
- ^ ロールスロイス・ケストレル/570hp→Jumo210/650hp。
- ^ この飛行で192の改善箇所を指摘されている[3]
- ^ 東京帝国大学航空研究所の所員で、のち研三 (航空機)の基礎設計を担当する山本峰雄はドイツ視察の際、メッサーシュミット戦闘機の迷彩塗装表面に触れ、非常にザラザラしていたと語っている[4]。
- ^ そのためか内翼機銃の銃口は前縁から少し上に開口している
- ^ この冷却方式は耐熱性に優れる DB601 だからこそ可能な物で Jumo211 エンジンでは使えなかった。機体各所の冷却表面は触れば火傷する熱さであった。
- ^ 蒸気循環系統を翼内に通してもそこに余計な圧力が生じず、弾丸を受けても蒸気が逃げないようにする事ができたとハインケルは書いている。
- ^ 鋲打ちをエアハンマーによらず鋲の中に仕込んだ微量の炸薬に点火して鋲打ちする。この特許権を日本が120万マルクで買った他、欧州開戦後の1940年になんと米国デュポン社にも25万ドルで売却されている。この技術を軽視したドイツ航空省は軽々しく輸出許可を出したが、やがて戦争が始まると傷ついた航空機の修理に威力を発揮[8]、終戦までにドイツだけで7億本の炸薬鋲が生産された。
- ^ 捩じり下げ同様、翼端失速を遅らせる効果があり、不意自転を避けた良好な失速特性を得られる[10]。Bf109では外翼に前縁スラットを装備しており、高迎角時に主翼前縁で発生する負圧により自動で開閉する[11]。
- ^ この記録飛行はヘルティングが担当する予定だったがウーデットが半ば横取りして飛行、そのため最大出力を発揮できる高度から外れて飛んでおり、本来なら660km/hも可能であった。また次の速度記録に向けエンジン排気を推力化する特殊ノズルの実験も開始された[16]。
- ^ 非常に敏感なエンジンで常にダイムラーの技師が面倒を見なければならなかった。エンジンを回すのは速度記録挑戦飛行時に限定され、地上での試運転も禁止されていたため、挑戦前のテスト飛行は通常のエンジンで行った。
- ^ 当初はヴァルネミュンデで計測する予定だったが、天候不安定な同地から、より記録飛行に適したオラニエンブルクに変更するようディーテルレが進言、ハインケルはこの23歳のテストパイロットの要請を受け入れ、設置を終えていた計測機器をわざわざ移設させた。
- ^ メタノール噴射で1分間に限り2300hp/3500rpmを発揮する[23]。
- ^ Me 209は蒸気式表面冷却を実装したものの、この飛行ではもはや冷却を諦め、蒸気はそのまま外に捨ててしまい、約30分飛行できる分の冷却水450リットルを積み込んで飛ぶ選択をした。[24]
- ^ このMe 209は実用戦闘機化が計画され、製作された4号機にあたるMe 209V4はDB 601Aエンジンを搭載し、トラブルの多い表面冷却をやめ、主翼下面に通常型のラジエーターを備え1939年に初飛行した。しかしHe 100とは異なり、元が速度一辺倒で設計された機体だけに実用機として使用するには問題が多く、肝心の速度性能も機体の改修や武装によって機体重量が増加したためBf 109Eを下回るまでになった。そのため今後改善の見込みがないとされ、開発計画は中止となった。
- ^ DB 601 系エンジンを用いぬ前提で、後にフォッケウルフ Fw 190が制式採用されている。また、同系エンジンを使用するHe 111P系列もDB 601を戦闘機用に集中する目的で生産を中止し、量産はJumo 211を装着したHe 111H系列に移行している。
- ^ 気温の高い日や上昇を長く続けていると蒸気の復水作用が不十分となり主翼上面の安全弁から蒸気が吹き出してパイロットに警告する[36]
- ^ メーカーの川崎は陸軍を通じて海軍から蒸気式表面冷却器の図面を貸与してもらい設計を進めた。事前テストでキ61の1機が蒸気式表面冷却に改造され約40km/h速くなっている。
- ^ 流星を設計した尾崎紀男は「性能と操縦性を左右する主翼の層流翼は He 119 、He 100 の翼型について、愛知の風洞および空技廠の高圧風洞で各種の実験を行った結果、He100のものを原翼として採用することにした」と書いている[41]。
- ^ ソ連が計測した Bf 109 E の性能は飛行重量2650kgの条件で、海面高度での最高速度440km/h、高度5000mで546km/h、高度5000mまでの上昇時間6.3分、上昇限度10000m
- ^ ソ連が計測した旋回所要時間の平均値は Bf 109 E が28秒。当時ソ連で新型戦闘機だった Yak-1、Mig-1、LaGG-3よりも4〜8秒遅かった。He 100 は23秒であった。
- ^ この写真の He 100 を V8(翼幅が小さい速度記録専用機)とする見解もあるが、主翼の折れ目から見た内側と外側の翼幅の比率(約1:3弱)や、外翼のフラップとエルロンの比率(約1:3弱)から通常翼幅の機体と思われる。
- ^ ドイツ語: Sondergerät. ドイツ空軍が開発した航空機搭載無反動砲の呼称。ただし、作中に登場するものと全く同じ"Sondergerät"は実在していない。作中のものはSondergerät 500(SG 500)、通称"Jagdfaust"(英語版)がモデルと思われる。
出典
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関連項目
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