earl
「earl」の意味・「earl」とは
「earl」は、英国の貴族階級の一つである。男爵より上で、侯爵より下の地位に位置づけられている。元々は、地方の行政を担当する役職であったが、中世以降は貴族の称号として使われるようになった。女性の場合は「countess」と呼ばれる。「earl」の発音・読み方
「earl」の発音は、IPA表記では /ɜːrl/ となる。カタカナ表記では「アール」となり、日本人が発音する際には「イール」に近い音になる。この単語は発音によって意味や品詞が変わるものではない。「earl」の定義を英語で解説
「Earl」 is a rank of the British peerage, standing above the rank of viscount and below the rank of marquess. Originally, it was a position responsible for local administration, but since the Middle Ages, it has been used as a title of nobility. For women, it is called "countess".「earl」の類語
「earl」の類語としては、「nobleman」、「peer」、「lord」などがある。これらは全て貴族を指す言葉であり、社会的地位や権力を持つ人々を指す。「earl」に関連する用語・表現
「earl」に関連する用語としては、「countess」、「peerage」、「nobility」などがある。「countess」は女性の伯爵を指し、「peerage」は貴族階級全体を指す言葉である。「nobility」は貴族を意味する。「earl」の例文
1. He was promoted to the rank of earl.(彼は伯爵の地位に昇進した。)2. The Earl of Sandwich is a famous historical figure.(サンドイッチ伯爵は有名な歴史的人物である。)
3. The earl's estate was vast and beautiful.(伯爵の領地は広大で美しい。)
4. The earl held a grand party at his mansion.(伯爵は自分の邸宅で盛大なパーティーを開いた。)
5. The earl was respected by the people of his region.(伯爵はその地域の人々から尊敬されていた。)
6. The earl's daughter is known as a countess.(伯爵の娘は伯爵夫人として知られている。)
7. The earl had a significant influence on local politics.(伯爵は地方政治に大きな影響力を持っていた。)
8. The earl's family has a long history.(伯爵の家系は長い歴史を持っている。)
9. The earl was a patron of the arts.(伯爵は芸術のパトロンであった。)
10. The earl's coat of arms was displayed prominently.(伯爵の紋章は目立つ場所に掲げられていた。)
Earl
伯爵
(earl から転送)
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伯爵(はくしゃく、仏: comte、英: count, earl、独: Graf)は、近代日本で用いられた爵位(五爵)の第3位。侯爵の下位、子爵の上位に相当する。ヨーロッパ諸国の貴族の爵位の日本語訳にも使われる。
日本の伯爵
華族の伯爵
旧暦明治2年6月17日(1869年7月25日)の行政官達542号において公家と武家の最上層の大名家を「皇室の藩屏」として統合した華族身分が誕生した[1]。当初は華族内において序列を付けるような制度は存在しなかったが、当初より等級付けを求める意見があった。様々な華族等級案が提起されたが、最終的には法制局大書記官の尾崎三良と同少書記官の桜井能監が新暦1878年(明治11年)に提案した上記の古代中国の官制に由来する公侯伯子男からなる五爵制が採用された[2]。
1884年(明治17年)5月頃に賞勲局総裁柳原前光らによって各家の叙爵基準となる叙爵内規が定められ[3]、従来の華族(旧華族)に加えて勲功者や臣籍降下した皇族も叙爵対象に加わり[4]、同年7月7日に発せられた華族令により、五爵制に基づく華族制度の運用が開始された[5]。伯爵は公侯爵に次ぐ第三位であり、位階では従二位相当である[6]。叙爵内規では伯爵の叙爵基準について「大納言迄宣任ノ例多キ旧堂上 徳川旧三卿 旧中藩知事即チ現米五万石以上 国家二勲功アル者」と定めていた[7]。伯爵家の数は1884年時点では76家(華族家の総数509家)、1907年には100家(同903家)、1928年時に108家(同954家)、1947年時には105家(889家)だった[8]。
中間の爵位である伯爵は様々な面で分岐点になっていた。例えば後に詳述するが貴族院議員は公侯爵が無選挙・無給・終身、伯爵以下が互選・有給・任期7年となっていた。新年歌会始の読師は伯爵以上の有爵者でなければならないとされていた[9]。宮中女官は伯爵以下の華族の娘が務めることが多かった。近代前、宮中女官は平堂上の公家の娘が務めており(摂家・清華家・大臣家の娘は女官にはならなかった)、明治後に平堂上に相当する家格が伯爵家・子爵家だったため伯爵以下の娘たちがやっていた[10]。女官には典侍、掌侍、命婦、女嬬といった序列があり、例外もあるが基本的に人事は出身家の爵位で決まり、伯爵家の娘が上位の役職に就き、子爵家・男爵家の娘は下位の役職に配置されるのが普通だった[11]。
1886年(明治19年)の華族世襲財産法により華族は差押ができない世襲財産を設定できた。世襲財産は土地と公債証書等であり、毎年500円以上の純利益を生ずる財産は宮内大臣が管理する。全ての華族が世襲財産を設定したわけではなく、1909年(明治42年)時点では世襲財産を設定していた華族はわずかに26%にすぎない[12]。
1907年(明治40年)の華族令改正により襲爵のためには相続人が6か月以内に宮内大臣に相続の届け出をすることが必要となり、これによりその期間内に届け出をしないことによって襲爵を放棄することができるようになった。ただしこれ以前にも爵位を返上する事例はあった[13]。
1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法第14条(法の下の平等)において「華族その他の貴族の制度は、これを認めない。」と定められたことにより伯爵位を含めた華族制度は廃止された。
貴族院における伯爵
1889年(明治22年)の貴族院令により貴族院議員の種別として華族議員が設けられた(ほかに皇族議員と勅任議員がある)[14]。華族議員は公侯爵と伯爵以下で選出方法や待遇が異なり、公侯爵が30歳に達すれば自動的に終身の貴族院議員に列するのに対し、伯爵以下は同爵者の間の連記・記名投票選挙によって当選した者のみが任期7年で貴族院議員となった[15]。この選挙の選挙権は成年、被選挙権は30歳以上だった[16]。選挙と任期が存在する伯爵以下議員は政治的結束を固める必要があり、公侯爵議員より政治的活動が活発だった[17]。また公侯爵議員は無給だったため、貴族院への出席を重んじない者が多かったが、伯爵以下議員は議員歳費が支給されたため、議席を希望する者が多かった[18]。なお議員歳費は当初は800円(+旅費)で、後に3000円に上がっており、かなりの高給である。貧しい家が多い旧公家華族には特に魅力的な金額だったと思われる[19]。
伯爵以下議員はそれぞれの爵位の中で約18パーセントの者が貴族院議員に選出されるよう議席数が配分されており[20]、当初は伯爵議員14人、子爵議員70人、男爵議員20人だったが、それぞれの爵位数の変動(特に男爵の急増)に対応してしばしば貴族院令改正案が議会に提出されては政治論争となった。その最初のものは桂太郎内閣下の1905年に議会に提出された第一次貴族院令改正案(伯爵議員17人、子爵議員70人、男爵議員56人案)だったが、日露戦争の勲功で急増していた男爵の数が反映されていないと男爵議員が反発し、貴族院で1票差で否決。これに対応して桂内閣が1909年に議会に提出した第2次改正案は男爵議員数を63名に増加させるものだったが、その比率は伯爵が5.94名、子爵が5.38名、男爵が6名につき1名が議員という計算だったので「子爵保護法」と批判された。しかしこれ以上男爵議員を増やすと衆貴両院の議員数の均衡が崩れ、また貴族院内の華族議員と勅選議員の数の差が著しくなるとの擁護があり、結局政府原案通り採決された。さらに第一次世界大戦の勲功で男爵位が増加した後の1918年(寺内正毅内閣下)に伯爵20人以内、子爵・男爵を73名以内とする第三次改正案が議会に提出され、最終的には伯爵議員の議席数は18議席となった[21]。
伯爵以下議員は同爵者間の互選になっていたため貴族院内は爵位ごとに院内会派が形成されるようになり、伯爵議員たちははじめ伯爵会を形成。さらに1908年には扶桑会を形成した[22]。
伯爵家の一覧
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皇族の臣籍降下による伯爵家
叙爵内規上では皇族の臣籍降下に伴って与えられる爵位は公爵となっているが、実際には侯爵または伯爵だった。時期によって叙爵方針に差異が存在する。皇室典範制定前に様々な事象により離脱した皇族は、宮家から最初に離脱した者でも伯爵に叙された(家教王は、明治維新前に一度臣籍降下し、復籍後再度離脱している)。上野家と二荒家は北白川宮能久親王の落胤だったため皇籍に入れることはできなかったが、臣籍降下後の伯爵叙爵を実質的前倒しにする形で幼少期に伯爵に叙されている。皇室典範制定前は明治維新以前の運用方針により四世襲親王家当主以外は臣籍降下し華族に列するとしたが、家教王以外に事例は無く、間もなく典範制定により永世皇族制が採用され原則として男子の臣籍降下は無くなった。上野・二荒の二例は皇族内規を準用した例外的な運用である。皇室典範が増補された1899年(明治32年)以降臣籍降下制度が典範に正式に制定された。これ以降は原則として離脱した皇族は侯爵に叙されている。しかし増補後も臣籍降下が進まず皇室財政の圧迫が懸念され「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」が制定された1920年(大正9年)以降、降下前の宮家から二人目以降の降下である場合、通常伯爵が与えられた。
旧公家の伯爵家
叙爵内規では旧公家華族から伯爵になる者について「大納言迄宣任ノ例多キ旧堂上」と定められている。「大納言迄宣任ノ例多キ」の意味については柳原前光の『爵制備考』で解説されており「旧大臣家三家[注釈 1]」「四位より参議に任じ大納言迄直任の旧堂上二十二家[注釈 2]」「三位より参議に任ずといえども大納言迄直任の旧堂上三家[注釈 3]」「大納言までの直任の例は少ないが従一位に叙せられたことのある二家[注釈 4]」のことである[23]。直任とは中納言からそのまま大納言に任じられることをいい、公家社会ではいったん中納言を辞して大納言に任じられる場合より格上の扱いと見なされていた。「直任」が内規では「宣任」に置き換えられたのは、この直任の例が一回でもあれば該当させるためである[24]。
- 名家
上記のうち東久世家や壬生家は本来は子爵の家格(あるいは叙爵基準に満たない家格)であったが、維新の功績により伯爵位を与えられた[25]。羽林家や旧家であることが伯爵の条件かのように説明する俗説もあるが誤りであり[26]、叙爵内規は羽林家・名家・半家、あるいは旧家・新家の区別、また藤原氏であるか否かで爵位の基準を定めていない。半家から伯爵が出ていないのは、半家がすべて非藤原氏で家格が低く、極官もせいぜい各省の長官(卿)で大納言直任の条件を満たせなかったのが原因であり、藤原氏でないと伯爵以上になれないという定めがあったわけではない[27]。
旧大名家の伯爵家
叙爵内規は旧大名華族から伯爵になる者について「徳川旧三卿 旧中藩知事即チ現米五万石以上」と定めている。5万石以上の基準は表高や内高といった米穀の生産量ではなく、税収を差す現米(現高)である点に注意を要する[28]。明治2年2月15日(1869年)に行政官が「今般、領地歳入の分御取調に付、元治元甲子より明治元戊辰迄五ヶ年平均致し(略)四月限り弁事へ差し出すべき旨、仰せいだされ候事」という沙汰を出しており、これにより各藩は元治元年(1864年)から明治元年(1868年)の5年間の平均租税収入を政府に申告した。その申告に基づき明治3年(1870年)に太政官は現米15万石以上を大藩・5万石以上を中藩・それ未満を小藩に分類した。それのことを指している。もちろんこの時点でこの分類が各大名家の爵位基準に使われることが想定されていたわけではなく、政府費用の各藩の負担の分担基準として各藩に申告させたものであり、それが1884年(明治17年)の叙爵内規の爵位基準にも流用されたものである[29]。現米15万石以上は侯爵となるので、現米15万石未満から同5万石以上の旧大名家が伯爵である。
- 旧中藩知事(現米5万石以上)
- 阿部家(備後福山藩現米5万5583石(表高11万石))
- 有馬家(筑後久留米藩現米11万8190石(表高21万石))
- 井伊家(近江彦根藩現米9万4030石(表高20万石))
- 上杉家(出羽米沢藩現米6万196石(表高14万7248石))
- 小笠原家(豊前小倉藩現米8万8170石(表高15万石))
- 奥平家(豊前中津藩現米5万3000石(表高10万石))
- 酒井家(播磨姫路藩現米8万3210石(表高15万石))
- 酒井家(出羽大泉藩現米6万9379石(表高12万石))
- 酒井家(若狭小浜藩現米5万5730石(表高10万3558石))
- 立花家(筑後柳河藩現米6万6890石(表高11万600石))
- 伊達家(陸奥仙台藩現米6万7740石(表高28万石))
- 津軽家(陸奥弘前藩現米14万1345石(表高10万石))
- 藤堂家(伊勢津藩現米12万4270石(表高32万3950石))
- 戸田家(美濃大垣藩現米5万320石(表高10万石))
- 中川家(豊後岡藩現米5万2400石(表高7万440石))
- 南部家(陸奥盛岡藩現米6万8580石(表高13万石))
- 久松家(伊予松山藩現米11万748石(表高15万石))
- 堀田家(下総佐倉藩現米5万100石(表高11万石))
- 前田家(越中富山藩現米6万6010石(表高10万石))
- 松平家(出雲松江藩現米14万5340石(表高18万6000石))
- 松平家(上野前橋藩現米5万4450石(表高17万石))
- 松平家(讃岐高松藩現米10万5760石(表高12万石))
- 溝口家(越後新発田藩現米7万920石(表高10万石))
- 柳沢家(大和郡山藩現米5万9490石(表高15万1288石))
- 現米5万石未満だが陞爵・特例により伯爵
平戸藩松浦家は現米5万石の要件にわずかに及ばなかったが、松浦詮は明治天皇の従兄弟の親にあたる(曾祖父・松浦清の娘が中山慶子を産んだため)という皇室との深い縁により特例で伯爵になった[30]。対馬藩宗家も現米5万石に満たなかったが、朝鮮外交を担った独自の歴史的立場や国主格であったことが考慮され特例措置として伯爵に叙された[31]。
僧家の伯爵家
叙爵内規上彼らに関する特別な定めは無いので「国家二勲功アル者」として伯爵になっていると思われる。
勲功による伯爵家
叙爵内規における「国家ニ勲功アル者」のうち、男爵・子爵より上位の功績を認められた家系である。初期に伯爵を授けられた「維新の元勲」に近い層から、子爵からの陞爵(爵位が上がること)によって伯爵となった層まで、近代日本の軍事・政治・経済の各界を牽引した最高指導者層が含まれる[32]。
- 軍人(伯爵家)
軍人における伯爵家は、陸海軍の最高幹部(元帥、大将級)や、大規模戦役における統帥・作戦立案の直接的な功績を認められた者が中心である。日清・日露戦争における多大な貢献に加え、軍政・国政の要職(陸海軍大臣、内閣総理大臣など)を務め、国家運営の根幹を担った「軍の重鎮」が名を連ねる。
- 政官系・実業家(伯爵家)
政治・行政・外交において、国家の独立維持や制度の確立に多大な貢献をした最高指導者層である。維新の混乱期から行政実務を支えた者や、条約改正、立憲政治の確立などに心血を注いだ者、あるいは外交の枢要を担い国際的地位を向上させた人々である。いずれも、軍事以外の側面から「国家の近代化」を完遂させた指導者層である。
- 伊地知家 (薩摩藩)
- 伊東家 (肥前国・子爵から陞爵)
- 板垣家 (土佐藩)
- 内田家 (熊本藩・子爵から陞爵)
- 大木家 (佐賀藩)
- 勝家 (武蔵国・幕臣)
- 金子家 (福岡藩・子爵から陞爵)
- 香川家 (水戸藩・子爵から陞爵)
- 清浦家 (肥後国・子爵から陞爵)
- 後藤家 (土佐藩)
- 後藤家 (仙台藩・子爵から陞爵)
- 佐野家 (佐賀藩・子爵から陞爵)
- 副島家 (佐賀藩)
- 田中家 (土佐藩・子爵から陞爵)
- 珍田家 (弘前藩・子爵から陞爵)
- 寺島家 (薩摩藩)
- 土方家 (土佐藩・子爵から陞爵)
- 林友幸家 (長州藩・子爵から陞爵)
- 林董家 (佐倉藩・子爵から陞爵)
- 平田家 (米沢藩・子爵から陞爵)
- 広沢家 (長州藩)
- 牧野家 (薩摩藩・子爵から陞爵)
- 陸奥家 (紀州藩・子爵から陞爵)
- 吉井家 (薩摩藩)
- 芳川家 (徳島藩・子爵から陞爵)
- 渡辺家 (諏訪藩・子爵から陞爵)
朝鮮貴族の伯爵
日韓併合後の1910年(明治43年)の朝鮮貴族令(皇室令第14号)により華族に準じた朝鮮貴族の制度が設けられた。朝鮮貴族にも公侯伯子男の五爵が存在した(ただし朝鮮貴族の公爵に叙された者は現れなかったので、朝鮮貴族の実質的な最上位爵位は侯爵だった)。朝鮮貴族の爵位は華族における同爵位と対等の立場にあるが、貴族院議員になる特権がない点が華族と異なった[33][34]。
朝鮮貴族の爵位は家柄に対してではなく日韓併合における勲功などに対して与えられたものだったが[33]、そうした勲功を上げることができるのは大臣級の政治家や軍人だった者だけであるため、朝鮮王朝の最上位貴族階級だった両班出身者で占められた[35]。
朝鮮貴族の爵位に叙された者は全部で76名あり、うち伯爵に叙されたのは李址鎔、閔泳璘、李完用の3名である[34]。後に李完用は侯爵に陞爵し、閔泳璘は刑により爵位をはく奪された[36]。当初子爵だった宋秉畯(野田秉畯)は原敬の推挙で伯爵に陞爵した[37]。また高羲敬も伯爵に陞爵している[36]。
中国の伯爵
殷の時代に姫昌が「西伯」に任じられているが、これは殷の西方の盟主・覇者を意味するとされている。
西周時代に設置された爵について、『礼記』には「王者之制緑爵。公侯伯子男凡五等」とあり、「伯」は五つある爵の上から三番目に位置づけている[39]。一方で『孟子』万章下には「天子之卿、受地視侯、大夫受地視伯、元士受地視子男。」とあり、天子を爵の第一とし、伯は大夫が受けるものとしている[40]。『礼記』・『孟子』とともに伯は七十里四方の領地をもつものと定義している[40]。また『春秋公羊伝』には「天子は三公を公と称し、王者之後は公と称し、其の余大国は侯と称し、小国は伯・子・男を称す」という三等爵制が記述されている[41]。金文史料が検討されるようになって傅期年、郭沫若、楊樹達といった研究者は五等爵制度は当時存在せず、後世によって創出されたものと見るようになった[42]。王世民が金文史料を検討した際には公侯伯には一定の規則が存在したが、子男については実態ははっきりしないと述べている[43]。
漢代においては二十等爵制が敷かれ、「伯」の爵位は存在しなかった。魏の咸熙元年(264年)、爵制が改革され、伯の爵位が復活した。「公侯伯子男」の爵位は列侯や亭侯の上位に置かれ、諸侯王の下の地位となる[44]。食邑は大国なら千二百戸、六十里四方の土地、次国なら千戸、五十五里四方の土地が与えられることとなっている[44]。その後西晋および東晋でも爵位は存続している[45]。
南北朝時代においても晋の制度に近い叙爵が行われている。隋においては国王・郡王・国公・県公・侯・伯・子・男の爵が置かれ、唐においては王・開国国公・開国郡公・開国県公・開国侯・開国伯・開国子・開国男の爵位が置かれた[46]。
伯爵の例
竹林の七賢の一人である山濤は、武帝受禅の際に子から伯(新沓伯)へ陞爵している[47]。また当時の晋王司馬昭の弟であった司馬亮、司馬伷らも咸熙元年に「伯」の爵位を受けているが、晋王朝成立後はいずれも諸侯王となった[48]。
ロマンス語圏の伯爵
ヨーロッパ諸国の伯爵はローマ帝国における「コメス」(ラテン語: Comes、複数形は「comitis コミティス」)に由来する。コメスはローマ帝国属州の政務官の側近を指した語に起源を持つ爵位であり、各地の統治権を持つ役職であった。フランク王国でもコメスは領域を支配する重要な地方官であったが、封建制度の発展により世襲の封建諸侯の称号となった[49]。
欧州のロマンス諸語圏、すなわちイタリア、フランス、スペインなどでは伯爵相当の語はComesに由来する言葉が爵位名として用いられている。英語では「count」と訳され、「Earl」と同等とされる。伯爵夫人(未亡人を含む)や女伯爵についてはそれぞれ女性形が使用される。
- イタリア語: cónte(コンテ)、女性形 伊: contéssa
- フランス語: comte(コント)、女性形 仏: comtesse
- スペイン語: conde(コンデ)、女性形 西: condesa
ドイツ語圏の伯爵
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ドイツ(神聖ローマ帝国)においては「Graf」が「伯爵」にあたる。
なお、ドイツではGrafと付く爵位は下記のように多数あるが、地位はそれぞれ異なる。
イギリスの伯爵
歴史
貴族の爵位の原形はエドワード懺悔王(在位:1042年-1066年)の代にはすでに存在しており、エドワード懺悔王はイングランドを四分割して、それぞれを治める豪族にデーン人が使っていた称号"Eorl"を与えた。ただこの頃には位階や称号が曖昧だった[50]。
確固たる貴族制度をイングランドに最初に築いた王は征服王ウィリアム1世(在位:1066年-1087年)である。彼はもともとフランスのノルマンディー公であったがエドワード懺悔王の崩御後、イングランド王位継承権を主張して1066年にイングランドを征服し、イングランド王位に就いた(ノルマン・コンクエスト)。重用した臣下もフランスから連れて来たノルマン人だったため、大陸にあった貴族の爵位制度がイングランドにも持ち込まれた[51]。
ウィリアム1世によって最初に制度化された貴族称号は伯爵(Earl)であり、1072年にウィリアム1世の甥にあたるヒューに与えられたチェスター伯爵(Earl of Chester)がその最初の物である[注釈 5]。伯爵は大陸では"Count"と呼ぶが、イングランドに導入するにあたってウィリアム1世は、エドワード懺悔王時代の"Eorl"を意識して"Earl"とした。ところが伯爵夫人たちには"Earless"ではなく大陸と同じ"Countess"の称号を与えた。これは現在に至るまでこういう表記であり、伯爵だけ夫と妻で称号がバラバラになっている[54][55]。
14世紀初頭まで貴族身分はごく少数のEarl(伯爵)と大多数のBaron(男爵)だけだった[56]。初期のBaronとは貴族称号ではなく直属受封者を意味する言葉だった[56][57]。Earlのみが、強力な支配権を有する大Baronの持つ称号であった[58]。ヨーロッパ大陸から輸入された公爵(Duke)、侯爵(Marquess)、子爵(Viscount)が国王勅許状で貴族称号として与えられるようになったことでBaronも貴族称号(「男爵」と訳される物)へと変化していった[58]。
イングランド王国、スコットランド王国、アイルランド王国それぞれに貴族制度があり、それぞれをイングランド貴族、スコットランド貴族、アイルランド貴族という。イングランド王国とスコットランド王国がグレートブリテン王国として統合された後は新設爵位はグレートブリテン貴族として創設されるようになり、イングランド貴族・スコットランド貴族の爵位は新設されなくなった。さらにグレートブリテン王国とアイルランド王国がグレートブリテンおよびアイルランド連合王国として統合された後には新設爵位は連合王国貴族として創設されるようになり、グレートブリテン貴族とアイルランド貴族の爵位は新設されなくなった。イングランド貴族、スコットランド貴族、グレートブリテン貴族、アイルランド貴族、連合王国貴族いずれにおいても伯爵位は第3位として存在する。
侯爵から男爵までの貴族は家名(姓)ではなく爵位名にLordをつけて「○○卿 (Lord ○○)」と呼ぶことができる(公爵のみは卿で呼ぶことはできず「○○公 (Duke of ○○)」のみ)。例えばカーナーヴォン伯爵の「カーナーヴォン」は爵位名であって家名はハーバートだが、カーナーヴォン卿と呼び、ハーバート卿にはならない。また日本の華族は一つしか爵位を持たないが、イギリスでは一人で複数の爵位を持つことが多い。中でも公爵・侯爵・伯爵の嫡男は当主の持つ従属爵位のうち二番目の爵位を儀礼称号として称する[59]。
伯爵の長男は従属爵位を持つがゆえにLord(卿、ロード)の敬称がつけられ、次男以下にはHonorable(オナラブル)がつけられる。娘にはLady(レディ)がつけられる。
英国貴族の爵位は終身であり、原則として生前に爵位を譲ることはできない。爵位保有者が死亡した時にその爵位に定められた継承方法に従って爵位継承が行われ、爵位保有者が自分で継承者を決めることはできない。かつては爵位継承を拒否することもできなかったが、1963年の貴族法制定以降は爵位継承から1年以内(未成年の貴族は成人後1年以内)であれば自分一代に限り爵位を放棄して平民になることが可能となった[60]。
有爵者は貴族院議員になりえる。かつては原則として全世襲貴族が貴族院議員になったが(ただし女性世襲貴族は1963年貴族法制定まで貴族院議員にならなかった。また1963年までスコットランド貴族とアイルランド貴族は貴族代表議員に選ばれた者以外議席を有さなかった。アイルランド貴族の貴族代表議員制度は1922年のアイルランド独立の際に終わり、スコットランド貴族は1963年貴族法によって全員が貴族院議員に列した)、1999年以降は世襲貴族枠の貴族院議員数は92議席に限定されている。貴族院の活動において爵位の等級に重要性はない[61]。
現存する伯爵家一覧
イングランド貴族
シュルーズベリー伯爵(1442年)・タルボット伯爵(1784年グレートブリテン貴族)・ウォーターフォード伯爵(1446年アイルランド貴族):チェットウィンド=タルボット家
ダービー伯爵(1485年):スタンリー家
ハンティンドン伯爵(1529年):ヘイスティング=バス家
ペンブルック伯爵(1551年)・モンゴメリー伯爵(1605年):ハーバート家
デヴォン伯爵(1553年):コートネイ家
リンカン伯爵(1572年):ファインズ=クリントン家
サフォーク伯爵(1603年)・バークシャー伯爵(1626年):ハワード家
デンビー伯爵(1622年)・デズモンド伯爵(1628年アイルランド貴族):フィールディング家
ウェストモーランド伯爵(1624年):フェーン家
リンジー伯爵(1626年)・アビンドン伯爵(1682年):バーティ家
ウィンチルシー伯爵(1628年)・ノッティンガム伯爵(1681年):フィンチ=ハットン家
サンドウィッチ伯爵(1660年):モンタギュー家
エセックス伯爵(1661年):カペル家
カーライル伯爵(1661年):ハワード家
シャフツベリ伯爵(1672年):アシュリー=クーパー家
ポートランド伯爵(1689年):ベンティンク家
スカーバラ伯爵(1690年):ラムリー家
アルベマール伯爵(1697年):ケッペル家
コヴェントリー伯爵(1697年):コヴェントリー家
ジャージー伯爵(1697年):ヴィリアーズ家
スコットランド貴族
クロフォード伯爵(1398年)・バルカレス伯爵(1651年):リンジー家
エロル伯爵(1453年):ヘイ家
サザーランド伯爵(1230年or1275年or1347年):サザーランド家
マー伯爵(1114年頃):マー家
ロシズ伯爵(1458年):レズリー家
モートン伯爵(1458年):ダグラス家
バカン伯爵(1469年):アースキン家
エグリントン伯爵(1508年)・ウィントン伯爵(1859年連合王国貴族):モンゴメリー家
ケイスネス伯爵(1455年):シンクレア家
マー伯爵(1565年)・ケリー伯爵(1619年):アースキン家
マリ伯爵(1562年):ステュアート家
ヒューム伯爵(1605年):ダグラス=ヒューム家
パース伯爵(1605年):ドラモンド家
ストラスモア=キングホーン伯爵(1606年):ボーズ=ライアン家
ハディントン伯爵(1619年):バイリー=ハミルトン家
ギャロウェイ伯爵(1623年):ステュワート家
ローダーデール伯爵(1624年):メイトランド家
リンジー伯爵(1633年):リンジー=ベテューヌ家
ラウドン伯爵(1633年):アベニュー=ヘイスティングス家
キノール伯爵(1633年):ヘイ家
エルギン伯爵(1633年)・キンカーディン伯爵(1643年:ブルース家
ウィームズ伯爵(1633年)・マーチ伯爵(1697年):チャータリス家
ダルハウジー伯爵(1633年):ラムゼイ家
エアリー伯爵(1639年):オグルヴィ家
リーブン伯爵(1641年)・メルヴィル伯爵(1690年):レズリー=メルヴィル家
ディザート伯爵(1643年):グラント家
セルカーク伯爵(1646年):ダグラス=ハミルトン家
ノーセスク伯爵(1647年):カーネギー家
ダンディー伯爵(1660年):スクリームジョア家
ニューバラ伯爵(1660年):ロスピリョージ家(イタリア貴族ロスピリョージ公爵)
アナンデイル=ハートフェル伯爵(1662年):ホープ=ジョンストン家
ダンドナルド伯爵(1669年):コクラン家
キントーア伯爵(1677年):キース家
ダンモア伯爵(1686年):マレー家
オークニー伯爵(1696年):セント・ジョン家
シーフィールド伯爵(1701年):スタッドリー家
ステア伯爵(1703年):ダーリンプル家
ローズベリー伯爵(1703年)・ミッドロージアン伯爵(1911年連合王国貴族):プリムローズ家
グラスゴー伯爵(1703年):ボイル家
グレートブリテン貴族
フェラーズ伯爵(1711年):シャーリー家
ダートマス伯爵(1711年):レッグ家
タンカーヴィル伯爵(1714年):ベネット家
アイルズフォード伯爵(1714年):フィンチ=ナイトレイ家
マクルズフィールド伯爵(1721年):パーカー家
ウォルドグレイヴ伯爵(1729年):ウォルドグレイヴ家
ハリントン伯爵(1742年):スタンホープ家
ポーツマス伯爵(1743年):ウォロップ家
ウォリック伯爵(1759年)・ブルック伯爵(1746年):グレヴィル家
バッキンガムシャー伯爵(1746年):ホバート=ハムデン家
ギルフォード伯爵(1752年):ノース家
ハードウィック伯爵(1754年):ヨーク家
イルチェスター伯爵(1756年):フォックス=ストラングウェイズ家
デ・ラ・ウェア伯爵(1761年):ウェスト家
ラドナー伯爵(1765年):プリーデル・ブーベリー家
スペンサー伯爵(1765年):スペンサー家
バサースト伯爵(1772年):バサースト家
クラレンドン伯爵(1776年):ヴィリアーズ家
マンスフィールド伯爵(1776年)・マンスフィールド伯爵(1792年):マレー家
マウント・エッジカム伯爵(1789年):エッジカム家
フォーテスキュー伯爵(1789年):フォーテスキュー家
カーナーヴォン伯爵(1793年):ハーバート家
カドガン伯爵(1800年):カドガン家
マームズベリー伯爵(1800年):ハリス家
アイルランド貴族
コーク伯爵(1620年)・オレリー伯爵(1660年):ボイル家
ウェストミーズ伯爵(1621年):ニュージェント家
ミーズ伯爵(1627年):ブラバゾン家
- キャバン伯爵(1647年):ランバート家
ドロヘダ伯爵(1661年):ムーア家
グラナード伯爵(1684年):フォーブス家
ダーンリー伯爵(1725年):ブライ家
ベスバラ伯爵(1739年):ポンソンビー家
キャリック伯爵(1748年):バトラー家
シャノン伯爵(1756年):ボイル家
アラン伯爵(1762年):ゴア家
コータウン伯爵(1762年):ストップフォード家
メクスバラ伯爵(1766年):サヴィル家
ウィンタートン伯爵(1766年):ターナー家
キングストン伯爵(1768年):テニソン家
ローデン伯爵(1771年):ジョスリン家
リズバーン伯爵(1776年):ヴォーン家
クランウィリアム伯爵(1776年):ミード家
アントリム伯爵(1785年):マクドネル家
ロングフォード伯爵(1785年):パケナム家
ポーターリントン伯爵(1785年):ドーソン=ダマー家
メイヨー伯爵(1785年):バーク家
アンズリー伯爵(1789年):アンズリー家
エニスキレン伯爵(1789年):コール家
アーン伯爵(1789年):クライトン家
ルーカン伯爵(1795年):ビンガム家
ベルモア伯爵(1797年):ローリー=コリー家
キャッスル・ステュアート伯爵(1800年):ステュアート家
ドナウモア伯爵(1800年):ヒーリー=ハッチンソン家
カリドン伯爵(1800年):アレクサンダー家
リムリック伯爵(1803年):ペリー家
クランカーティ伯爵(1803年):ル・プア・トレンチ家
ゴスフォード伯爵(1806年):アチソン家
ロス伯爵(1806年):パーソンズ家
ノーマントン伯爵(1806年):エイガー家
キルモリー伯爵(1822年):ニーダム家
リストーエル伯爵(1822年):ヘア家
ノーベリー伯爵(1827年):グラハム=トーラー家
ランファーリー伯爵(1831年):ノックス家
連合王国貴族
ロスリン伯爵(1801年):セント・クレア=アースキン家
クレイヴェン伯爵(1801年):クレイヴェン家
オンズロー伯爵(1801年):オンズロー家
ロムニー伯爵(1801年):マーシャム家
チチェスター伯爵(1801年):ペラム家
ウィルトン伯爵(1801年):グローヴナー家
ポウィス伯爵(1804年):ハーバート家
ネルソン伯爵(1805年):ネルソン家
グレイ伯爵(1806年):グレイ家
ロンズデール伯爵(1807年):ラウザー家
ハロービー伯爵(1809年):ライダー家
ハーウッド伯爵(1812年):ラッセルズ家
ミントー伯爵(1813年):エリオット=マーレイ=キニンマウンド家
カスカート伯爵(1814年):カスカート家
ヴェルラム伯爵(1815年):グリムストン家
セント・ジャーマンズ伯爵(1815年):エリオット家
モーレイ伯爵(1815年):パーカー家
ブラッドフォード伯爵(1815年):ブリッジマン家
エルドン伯爵(1821年):スコット家
ハウ伯爵(1821年):カーゾン家
ストラドブルック伯爵(1821年):ラウス家
ストーのテンプル伯爵(1821年):テンプル=ゴア=ラントン家
コーダー伯爵(1827年):キャンベル家
リッチフィールド伯爵(1831年):アンソン家
ダラム伯爵(1833年):ラムトン家
グランヴィル伯爵(1833年):ルーソン=ゴア家
エフィンガム伯爵(1837年):ハワード家
デュシー伯爵(1837年):モートン家
ヤーバラ伯爵(1837年):ペラム家
レスター伯爵(1837年):コーク家
ゲインズバラ伯爵(1841年):ノエル家
ストラフォード伯爵(1847年):ビング家
コッテナム伯爵(1850年):ペピス家
カウリー伯爵(1857年):ウェルズリー家
ダドリー伯爵(1860年):ウォード家
ラッセル伯爵(1861年):ラッセル家
クロマーティ伯爵(1861年):マッケンジー家
キンバリー伯爵(1866年):ウッドハウス家
ウォーンクリフ伯爵(1876年):モンタギュー=ステュアート=ウォートリー家
ケアンズ伯爵(1878年):ケアンズ家
リットン伯爵(1880年):リットン家
セルボーン伯爵(1882年):パーマー家
イデスリー伯爵(1885年):ノースコート家
クランブルック伯爵(1892年):ゲイソン=ハーディ家
クローマー伯爵(1901年):ベアリング家
プリマス伯爵(1905年):ウィンザー=クライヴ家
リヴァプール伯爵(1905年):フォジャム家
セント・アルドウィン伯爵(1915年):ヒックス=ビーチ家
ビーティー伯爵(1919年):ビーティー家
ヘイグ伯爵(1919年):ヘイグ家
アイヴァー伯爵(1919年):ギネス家
バルフォア伯爵(1922年):バルフォア家
オックスフォード=アスキス伯爵(1925年):アスキス家
ジェリコー伯爵(1925年):ジェリコー家
インチケープ伯爵(1929年):マッカイ家
ピール伯爵(1929年):ピール家
ビュードリーのボールドウィン伯爵(1937年):ボールドウィン家
ハリファックス伯爵(1944年):ウッド家
ゴーリー伯爵(1945年):リヴァン家
ドワイフォーのロイド=ジョージ伯爵(1945年):ロイド・ジョージ家
ビルマのマウントバッテン伯爵(1947年):ナッチブル家
チュニスのアレグザンダー伯爵(1952年):アレクサンダー家
スウィントン伯爵(1955年):カンリフ=リスター家
アトリー伯爵(1955年):アトリー家
ウォールトン伯爵(1956年):マーキス家
スノードン伯爵(1961年):アームストロング=ジョーンズ家
ストックトン伯爵(1984年):マクミラン家 ※2015年現在、臣民に対して与えられた最後の世襲貴族爵位
ウェセックス伯爵(1999年)・フォーファー伯爵(2019年):王族エドワード王子の爵位
脚注
注釈
- ^ 嵯峨家、三条西家、中院家
- ^ 油小路家、正親町家、勧修寺家、烏丸家、甘露寺家、滋野井家、清水谷家、清閑寺家、園家、中御門家、庭田家、橋本家、葉室家、日野家、広橋家、坊城家、松木家、万里小路家、室町家、柳原家、鷲尾家
- ^ 飛鳥井家、四条家、冷泉家
- ^ 姉小路家、山科家
- ^ ヒューの子孫は1237年に絶え、チェスター伯爵位も一時途絶えたが、1254年にヘンリー3世(在位:1216年-1272年)が皇太子エドワード(エドワード1世)に与えて以降、現在に至るまでイングランド・イギリス皇太子に継承される称号となっている[52]。最古参の爵位としてチェスター伯爵位は別格であり、同じくイギリス皇太子の称号であるコーンウォール公爵位よりも上位に書かれる[53]。
出典
- ^ 小田部雄次 2006, p. 13.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 21.
- ^ 浅見雅男 1994, p. 71-76.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 26.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 30.
- ^ 居相正広 1925, p. 45.
- ^ 百瀬孝 1990, p. 242.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 56.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 49.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 156-157.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 158.
- ^ 百瀬孝 1990, p. 243-244.
- ^ 百瀬孝 1990, p. 243.
- ^ 百瀬孝 1990, p. 37.
- ^ 百瀬孝, 1990 & p37-38.
- ^ 百瀬孝, 1990 & p37/38/243.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 195-196.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 45.
- ^ 浅見雅男 1994, p. 116.
- ^ 百瀬孝 1990, p. 38.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 184/191-195.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 196-198.
- ^ 浅見雅男 1994, pp. 117–118.
- ^ 浅見雅男 1994, p. 118-119.
- ^ 浅見雅男 1994, pp. 121.
- ^ 浅見雅男 1994, p. 119.
- ^ 浅見雅男 1994, p. 120.
- ^ 浅見雅男 1994, p. 87-88/111.
- ^ 浅見雅男 1994, p. 87-88.
- ^ 浅見雅男 1994, p. 125-129.
- ^ 浅見雅男 1994, p. 131-132.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 327-339.
- ^ a b 百瀬孝 1990, p. 244.
- ^ a b 小田部雄次 2006, p. 162.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 163/166.
- ^ a b 小田部雄次 2006, p. 173.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 172.
- ^ 『官報』第2101号、大正8年8月6日。
- ^ 石黒ひさ子 2006, p. 2-3.
- ^ a b 石黒ひさ子 2006, p. 3.
- ^ 石黒ひさ子 2006, p. 5.
- ^ 石黒ひさ子 2006, p. 4.
- ^ 石黒ひさ子 2006, p. 6.
- ^ a b 袴田郁一 2014, p. 86-87.
- ^ 袴田郁一 2014, p. 95.
- ^ 今堀誠二, p. 422-423.
- ^ 袴田郁一 2014, p. 125.
- ^ 袴田郁一 2014, p. 100.
- ^ 「爵位」『改訂新版世界大百科事典』。コトバンクより2025年12月30日閲覧。
- ^ 森(1987) p.2
- ^ 小林(1991) p.16-17
- ^ 森(1987) p.3
- ^ 森(1987) p.4
- ^ 森(1987) p.2
- ^ 小林(1991) p.17
- ^ a b 近藤(1970)上巻 p.161
- ^ マリオット(1914) p.174-175
- ^ a b 近藤(1970)上巻 p.164
- ^ 森(1987) p.15
- ^ 前田英昭 1976, p. 46-58.
- ^ 田中嘉彦 2009, p. 279/290.
参考文献
- ジョン・マリオット 著、占部百太郎 訳『英国の憲法政治』慶應義塾出版局、1914年。ASIN B0098TWQW4。
- 居相正広「明治四年衆華族ヲ便殿ニ召シ賜リタル 勅諭」『華族要覧』第1輯、東京:居相正広、1925年、1-44頁。doi:10.11501/1018502。2021年2月20日閲覧。「コマ番号0005.jp2-0028.jp2」全国書誌番号:43045309。
- 近藤申一『イギリス議会政治史 上』敬文堂、1970年。 ISBN 978-4767001715。
- 前田英昭『イギリスの上院改革』木鐸社、1976年。ASIN B000J9IN6U。
- 森護『英国の貴族 遅れてきた公爵』大修館書店、1987年。 ISBN 978-4469240979。
- 百瀬孝『事典 昭和戦前期の日本―制度と実態』吉川弘文館、1990年。 ISBN 978-4642036191。
- 小林章夫『イギリス貴族』講談社〈講談社現代新書1078〉、1991年。 ISBN 978-4061490789。
- 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の明治』リブロポート、1994年。
- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年。 ISBN 978-4121018366。
- 今堀誠二「唐代封爵制拾遺」『社会経済史学』第12巻第4号、社会経済史学会、1942年、419-451頁、doi:10.20624/sehs.12.4_419、 ISSN 0038-0113、 NAID 110001212961。
- 石黒ひさ子「「五等爵制」再考」『駿台史學』第129巻、明治大学史学地理学会、2006年12月25日、1-20頁、 ISSN 05625955、 NAID 120001439019。
- 田中嘉彦「英国ブレア政権下の貴族院改革 : 第二院の構成と機能」『一橋法学』第8巻第1号、一橋大学大学院法学研究科、2009年3月、221-302頁、doi:10.15057/17144、 ISSN 13470388、 NAID 110007620135。
- 袴田郁一「両晉における爵制の再編と展開 : 五等爵制を中心として」『論叢アジアの文化と思想』第23号、アジアの文化と思想の会、2014年12月、79-134頁、 ISSN 1340-3370、 NAID 120005819881。
- 新村出編『広辞苑 第六版』岩波書店、2011年。ISBN 400080121X
- 松村明編『大辞林 第三版』三省堂、2006年。ISBN 4385139059
関連項目
| 欧州の貴族階級 |
|---|
| 皇帝 / 女皇 / 王・皇帝 / 女王・女皇 / カイザー / ツァーリ |
| 上級王 / 上級女王 / 大王 / 大女王 |
| 王 / 女王 |
| エァッツヘァツォーク(大公) / 皇女 / ツェサレーヴィチ(皇太子) |
| ヴェリーキー・クニャージ(大公・皇太子) 大公 / 女大公 |
| 選帝侯 / プリンス / プリンセス / クラウンプリンス / クラウンプリンセス / プランス・エトランジェ / 血統親王 / インファンテ/ インファンタ / ドーファン / ドーフィン / クルレヴィチ / クルレヴナ / ヤール |
| 公爵 / 女公 / ヘルツォーク / クニャージ / 諸侯級伯 |
| フュルスト / フュルスティン / ボヤール |
| 侯爵 / 女侯 / 辺境伯 / 方伯 / 辺境諸侯 / 宮中伯 |
| 伯爵 / グラーフ / シャトラン / (カステラン) / 城伯 |
| ヴァイカウント / ヴァイカウンテス / ヴィダム |
| バロン / バロネス / フライヘア / アドボカトゥス / ロード・オブ・パーラメント / セイン / レンドマン |
| バロネット / バロネテス / スコットランドの封建領主 / リッター / 帝国騎士 |
| エクィテス / ナイト / シュヴァリエ / リッデル / レディ / デイム / 自由騎士 / セニャール / ロード |
| ジェントルマン / ジェントリ / エスクワイア / レアード / エードラー / ヨンクヘール / ユンカー / ヤンガー / メイド |
| ミニステリアーレ |
Earl
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 00:07 UTC 版)
9世紀、スカンジナビアのデーン人が非王族軍指揮官として任命したのが始まりである。石碑や出土した武器などからHerul/Jarlの文字が見つかっているが、そもそもは北欧神話の神・Rígの伝説(リーグルの詩)に端を発する。
※この「Earl」の解説は、「爵位」の解説の一部です。
「Earl」を含む「爵位」の記事については、「爵位」の概要を参照ください。
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