この夏、『北の国から』シリーズの第一投である「連続ドラマ版」全24話がフジテレビ(関東ローカル)昼の「ハッピーアワー」枠で一挙再放送された。

「人間」を描いた、噛みごたえのあるドラマが少なくなったと感じることの多い昨今だが、「敷居は低く、奥行きは深く」というエンターテインメントの理想を実現した本作は、放送開始から44年が経った現在もその輝きを失わない。それどころか、今だからこそ突き刺さるメッセージを発していた。

 本稿では、連続ドラマ版を起点として、『北の国から』の魅力に迫ってみたい(全2本中の1本目)。

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『北の国から』FOD公式サイトより

「ほのぼの」の対極にあるテレビ史上最大の泥臭さ

 1981年10月から1982年3月まで、2クールの連続ドラマとして放送され、その後『'83冬』から『2002遺言』に至るまで全8作のスペシャルドラマが放送された『北の国から』。「国民的ドラマ」と称され、多くの昭和世代にとって人生の記憶の一部といっても過言ではない名作である。

 21年間にわたり続いたシリーズの中で、ほぼすべての役を同じ俳優が継続して演じている(『2022遺言』に登場した中畑すみえのみ、以前とは別のキャストが演じた)。これが功を奏して、視聴者は登場人物たちと同じ時間を重ねた親戚のような気持ちになるし、ある種ドキュメンタリーを見ているような感覚にも陥る。特にスペシャルドラマにおける純(吉岡秀隆)と蛍(中嶋朋子)については、俳優本人の成長に応じて脚本家・倉本聰氏が当て書きしたところも多分にあるので、なおのことだ。

 この作品について大多数の人がまず思い浮かべるのは、北海道・富良野の美しい風景と、その地を溌剌と駆け抜ける純と蛍、さだまさしによる「♪ア~ア~アアアアア~ア~」という劇伴……といったところだろうか。

 ともすればこの作品は、ぱっと見の印象で「北海道を舞台にしたほのぼのホームドラマ」と思われるのかもしれない。もちろんこうしたパブリックイメージも重要で、これらがあったからこそ『北の国から』は「国民的ドラマ」と言われるまでに成長したに違いない。

 ところが「ホームドラマ」というパッケージをめくって芯の部分を味わってみれば、『北の国から』は「日本のテレビ史上最も」と言っていいほど泥臭く、人間の業を色濃く描いたドラマだということがわかる。富良野を定点観測地としながら、そこに根を下ろして住まう人、訪れる人、去っていく人、戻ってくる人の姿を通じて、終始「本質とは何か」という問いを投げかけている。実は「ほのぼの」とは対極にある骨太なドラマなのだ。