書籍『世界はなぜ地獄になるのか』をはじめとしてキャンセルカルチャーなどについて論じてきた作家・橘玲氏と「表現の自由」問題へアクティブに取り組んできた自民党の山田太郎参議院議員の初対談が実現。「表現の自由」問題の最前線はどうなっているのかなど、縦横無尽に語り尽くす。
国連で議論されてきた新サイバー犯罪条約にとんでもない問題!? マンガ・アニメの登場人物には人格、人権がある!?
山田太郎(以下、山田) 「表現の自由」に関する最近の流れについて、私からまずお話ししたいと思います。元々、表現の自由って、割と国内の規制の話が多かったんですが、昨今はとにかく外圧。海外からくる話がすごく多くなっているんです。
去年(2024年)ぐらいまで、非常に大きな議論になっていたのは、国連で議論されてきた「新サイバー犯罪条約※1」。その14条の中にとんでもないものがありまして、簡単に言うと、マンガ・アニメ・ゲームに出てくる「非実在」のものも、エログロ暴力シーンがあったら、これは規制の対象で、特に子どもを扱ったものはほぼ描けないし、文章にも書けないし、音声にも出せない。ただ、それについては、我々の方でもがんばって、日本は留保規定というのをつけ、非実在のものに関しては規制の対象外とする方向です。
橘玲(以下、橘) それは結局、児童ポルノ問題と重なりますよね。山田さんが書籍『「表現の自由」の守り方』(星海社新書)にも書かれているように、小児性犯罪と娯楽作品であるポルノはまったく別のものとして、きちんと区別しなくてはならない。それにもかかわらず、規制派は意図的にどちらも「ポルノ」と呼ぶことで、犯罪に対する規制を娯楽作品にまで拡大させようとしている。
実在の子どもへの性犯罪行為を対象としてものは「児童犯罪記録物」などとして「ポルノ」とは呼ばないようにしなければなりません。さらにはマンガ・アニメの2次元キャラについては、アダルトビデオのようなポルノとは明らかにちがうし、それが「ポルノ」とくくられることへの批判・反発もあるわけですから、“萌え絵”などとするべきでしょう。
新聞やテレビなどのマスメディアが、意図的なのか理解できないからなのかわかりませんが、性犯罪からマンガまですべてをいっしょくたにして「児童ポルノ」としているのは大きな問題だと思います。
山田 おっしゃられた通り、そこがポイントです。もちろん、児童犯罪記録物というものには被害者の子どもがいますから、そちらはなんとしても撲滅しなきゃいけないし、被害の拡大を防ぐためにも規制すべきだと思うんですが。ポルノという名称がよろしくなくて、その基準は裸かどうかということなんですよ。逆に言うと、児童の性犯罪記録物で、児童が性行為させられていても、裸じゃなければ規制の対象にならなかったりするわけで、おかしな話なんです。だから結局、好きか嫌いか、不快であるか不快でないか、といったところで決められちゃってるようなところがあって…。
橘 「それはあなたの好き嫌いでしょ」と言ったら、相手はどう反論するんですか?
山田 もう、それは国連の枠組みで議論されているので、個別に意見を言える状況ではないんです。元々、日本は旧来のサイバー犯罪条約があるのだから、新たに作る必要はないだろうということで、反対はしてたんですけどね。旧来の表現規制の枠組みって、どちらかというと保守派の人たちが、こんなものを見ていたらいい子に育たないと、青少年健全育成の枠組で規制していた。今はもう全然違って、直接、被害があるかどうかは関係なしに、要はそういう表現はそもそもよろしくないと。
橘 そこから2次元のマンガ・アニメの登場人物にも人格があるんだって、そういう議論に発展するわけですか?
山田 これは私も実は国会の質疑の中でしっかり押さえた部分なんですけれど、フィギュアなどを含めて、「マンガの登場人物には人権はありません」ということは、日本国政府としては一応認めてるんです。けれど、国連の議論では人権があるのだと。
橘 そこが不思議なんですが、その時の人格というのはどういう定義になるんですか? いくらなんでも、個人に保障されているすべての人権が、マンガのキャラクターにも認められるべきだと主張するわけではないですよね。
山田 それを主張している人に聞いてみないとわからないですけれど、まあ一足飛びにそうなっちゃってるんでしょうね。
橘 しかしそこが、国家権力を使って表現の自由を規制しようとする運動を正当化する根幹ですよね。2次元キャラに人格がなければ、「人権を保護する」必要もないわけですから。規制派がそれについての議論を避けているとしたら、きわめて不誠実だと思います。
児童ポルノ規制法は本来は「個人法益」なのに、「社会法益」的になってしまった
山田 法律は本来、個人法益と社会法益ってちゃんと分けないといけないんですよ。個人法益っていうのは、実在している人間がきちんと守られる法律。一方、社会法益というのは社会の秩序を守るものですね。このあたりがぐちゃぐちゃな議論になっているんです。
だから、国内でも児童ポルノ規制法を作りましたけど、これは本来は個人法益の話で、子どもや児童を守るためのはずだったんだけど、議論しているうちに、あれもこれも入れとけっていうことになり、知らない間に児童ポルノがダメなんだと。つまり、裸がダメだとすぐなっちゃうんですね。いつの間にか社会法益的になっちゃったんです。そうすると、気に入らないからとか、これは不快だろうとか、見せられない権利もあるとか、そういう話にまで波及してくるんですよ。
欧米では成人の性器を見せることには規制が緩いのに、子どものことになると話が一変する
橘 逆に言うと、日本にはわいせつ物陳列罪があって、性器を見せたり、描いたりするのは違法ですが、欧米にはそういう規制はありませんよね。成人の性器を見せることには何の抵抗もないのに、子どもだとマンガの性的表現ですら許さないというのは、文化のちがいを無視して自分たちの価値観を一方的に押しつけているようにしか思えません。左派(レフト)であれば、典型的な「西欧中心主義」「植民地主義」っていうんじゃないですか。
山田 そうなんですね。欧米では子どもに対する線引きがすごく強いんです。そして、これは実は最近の日本のアニメやマンガの作り手にもプレッシャーを与えているとよく言われます。たとえば、『鬼滅の刃』はダメな国もあるんです。子どもが戦うということで。『名探偵コナン』も子どもが殺人現場にいて、事件を解決しているのはとんでもないと。
橘 やっぱり背景にあるのは、子どもの神聖視だと思うんですよね。だから、そういう極端なところへいく。そのわりには、ガザで1000人以上の子どもが殺されていても、たいして興味がなさそうながよくわかりませんが。
山田 一つ最近、私が感じるのは、いろいろな国の枠組みで子どもは守られる対象であり、子どもを保護したいという議論があります。これは基本的にはその通りだと思いますが、私は無条件に守られるより、子どもが大人になっていく過程において、清濁併せ呑みながら、いろいろな経験をしていって、乗り越えてくることがもうちょっとあっていいと思ってるんです。昔のTVドラマ『3年B組金八先生』でやっていた議論というのは、校内でいろいろな暴力事件などがあったけれど、その時、子どもを子ども扱いするのではなく、大人と子どもがいっしょになってその問題を解決し、乗り越えていくということが描かれてましたよね。
橘 やはり実在の子どもなのか、マンガやアニメに描かれた表現物なのかをきちんと区別しないと、どうしようもないと思うんですよね。
手塚治虫や『クレヨンしんちゃん』もNG!? 芸術と不健全図書の境目とは?
橘 山田さんの本で知ったのですが、2010年に東京都が18歳未満のキャラクターを「不健全図書(有害図書)」に指定し、青少年への販売を禁じようとしたとき、日本マンガ学会の会長が竹宮惠子さんだった。その竹宮さんの『風と木の詩』※2 はどうなるんだとなって、「作品に表現した芸術性、社会性などの趣旨をくみ取り、慎重に運用すること」という附帯決議をつけて、自民、公明、民主の賛成多数で可決された。しかしそうなると、「その芸術性は誰がどういう基準で判断するのか?」という話になりますよね。
山田 いや、もう昔の『クレヨンしんちゃん』もそうですよ。だって、「ぞ~さん、ぞ~さん」って踊るのは絶対ダメですし。先日、雷句誠先生にお会いしたんですが、『金色のガッシュ!!』、1話目なんかすごいんですよ。もろに男の子が裸のシーンが出てくる。だから、昔はおおらかといえば、おおらかだったと思うんですけど、あれはもう絶対ダメですよね。
橘 そうなると、手塚治虫※3 さんもダメとなっちゃいますね。
山田 ダメですよね。すると、そもそも表現の自由って何なのって話になってしまいますよね。
橘 けっきょく、「言論の自由や表現の自由は大切だ」と口ではいっておきながら、そんなのどうでもいいと思ってるんじゃないですか。
山田 僕ね、作家の先生方とかに本当は聞きたかったのは、ちっちゃい子どもの裸ってやっぱり脱がせたいのかなとか。今、考えるとあのシーンは何の意味を持ってるのか、よくわからないというものもあるんですが…。昔は平気で男の子がおちんちん見せるみたいな話は、まあ日常の一部だったかも…とは思うんですけど(笑)。
橘 手塚治虫とか竹宮恵子さんは、自分の作品によって表現の自由の範囲を拡張したいという明確な意図をもって描いたんだと思います。でもその一方で、「そのほうが売れるから」という商業的意図で描いている人もいるでしょう。でも、「芸術ならいいけど下品な金儲けは許さない」と決めてしまうと、その線引きはどうするのかという話になって、表現の自由は死んでしまうと思うんですよね。どんな分野でもそうでしょうが、有象無象のどうでもいい作品のなかからとんでもない傑作が生まれるわけで、おいしいところだけ選別すればいいじゃないか、という虫のいい話はありません。
山田 そう思います。
世界の価値観はリベラル化していく。それは自己決定権の最大化ということ
橘 2期目のトランプ政権が始まってからまた「右傾化」が騒がれてますが、世界の価値観は一貫して「リベラル化」していると思っています。私の場合、リベラル化の定義は「自分らしく生きたい」という価値観のことなんですが、それは「自己決定権の最大化」でもあります。
「児童ポルノ規制」で日本批判の先頭に立っているのはオランダの人のようですが、オランダは売買春も大麻も合法で、最近は安楽死の先進国としても知られています。これらはすべて自己決定権の最大化ですよね。
成人の男と女が対等な立場で合意して、お金とエロスを交換するのなら、それは個人の自己決定。成人が自分の趣味で大麻を吸っても誰にも迷惑かけないのだから、それもその人の自己決定。安楽死が特に顕著で、人生のすべては自分で決められるべきなんだから、いつどうやって死ぬかという「死の自己決定権」があって当然ということになります。そうやって個人の自由を拡張しているのに、表現の自由だけはどんどん縮小しているという皮肉な事態になっている。
それはやっぱり「子ども」だと思うんです。つまり、子どもはじゅうぶんな自己決定権を持てないのだから、完全な保護の対象にしなければならない。ところが18歳を境にして、いきなり自由の範囲が思いきり拡張して、売春や大麻、安楽死など、日本人だと二の足を踏むようなことも「個人の自由」になる。これも欧州の特異な文化で、ものすごく極端な善悪二元論になっているように思います。
ジェンダー平等という世界的な流れからすると、バイアスがかかった文化は捨てないといけないのか?
山田 子どもばっかりじゃなくて、「ジェンダー」っていう文脈もあると思うんですよね。
今までは女性は保護される対象だったけれど、もう保護される対象と考えてしまうことこそ、バイアスがかかっているのだと。ご存じだと思いますが、最近、ディズニーランドでも、「レディース&ジェントルマン」とは言わないで、「ハロー、 エブリワン」って言ったりしますし。
日本っていうのは、漢字も含めてバイアスありまくりで。たとえば、男という漢字は「田んぼに力」って書くじゃないですか。これは文化がそういうふうに作られてきたからで。じゃあ、我々ね、グローバルスタンダードじゃないんだけど、そういうリベラリズムの一つ、たとえばジェンダーっていう文脈からいくと、漢字も捨てざるを得ないのか。あれは差別の対象なのか。
文化を背負ってるっていうことは、すべて何らかの価値を背負っているから、そういうものが常にフラットにならなければならないところに来ているとすると、そこにはすごく恐怖を感じるんですよね。
橘 物語は男と女のちがいベースにして成立するから、そういうものを全部対等にしたら、どういう話になるのかという疑問があります。男と女じゃなくてもいいですけれど、誰かと誰かが出会って、そこにエロス性のある関係ができて、恋愛へと盛り上がっていくためには、お互いが「同じ」だったら難しいんじゃないですか。相手が自分とちがうから魅かれるわけで、当然、そのちがいには格差や権力関係もあって、そこにドラマが生まれる。フラットな人間関係しか描けないとなったら、クリエイターはどうしたらいいかわからなくなると思います。
ついには理由もわからずBANされるようになった「クレジットカード問題」
山田 表現の自由に対するもう一つのプレッシャーとして、「プラットフォーマー」の存在というのがあると思うんですよね。その中で「クレジットカード問題」というのがあって、クレジットカード会社がこういうもの扱っちゃダメ、ああいうもの扱っちゃダメと、BANしろ(アカウントの利用停止を意味する)ということで、マンガ・ゲーム以外にもいろいろなコンテンツが扱えなくなった。
挙げ句の果てにオタク婚活サイト「アエルネ」が引っかかっちゃって、一時、クレジットカードが使えなくなったりしたんですね。クレカ問題はそこまで来てるんです。
これには経緯がありまして、アメリカで児童ポルノに対する裁判がカリフォルニアであって、それをきっかけとしてカード会社がその決済に加担してたんじゃないかというふうに裁判所に認定されたということがありました。そこであわてたカード会社が児童ポルノは扱っちゃダメよということになったんです。元々はただそれだけ。
そんなふうに違法なものは扱わないというのは全然いいと思うんですが、それがどこからか、要はエロのものだったりとか、特に子どもに関するものについては違法であれ、合法であれ、ダメなものはダメというふうになってしまった。
そこにもう一つ、キリスト教観的に獣姦だとか絶対にタブーとするものに関して、日本では元々おおらかに認められていたものもけしからんということになって、言葉狩りが始まっていくんですよね。こういうタイトルのものはダメなんだというようなことが、どこからか指摘されるようになって、リストを作り始める。しかも、そのリストもどこかが1個作ったのではなく、これもダメそうだ、あれもダメそうだと割とそれぞれの加盟店とか、アクワイアラ(加盟店契約会社)とか、決済会社の間で同時多発的にいろいろなリストが出回っていったんです。
橘 ベトナム戦争で、ナパーム弾の爆撃から逃れるために、泣きながら裸で走る少女を撮った有名な報道写真があります。ところがノルウェーの記者が、ピューリッツァー賞を受賞したこの写真をフェイスブックに投稿したところ、「児童ポルノ」と判定されてアカウントが凍結されるという事件が起きました。これなど、いったん表現の自由を規制すればどうなるか、よくわかる事例ですよね。
山田 そうなんです。これもやばそう、あれもやばそうと。大問題なのは、内容が関係ないということです。内容を見て、この内容だからとてもダメだとは言わない。タイトルがダメだと。だから、タイトル変えたら通っちゃったりとか。当初はそういう話だった。それがどうなっていったかっていうと、今度はもうダメなものはダメなんだと。理由もわからずダメになっちゃう。