第12話 夢路の始まり

 全身が鉛のように重かった。意識は深い海の底を漂っているようだ。遠くで波の音……いや、違う、イズミの声が聞こえる。


「……サイトウ、家に着いたぞ」


 朦朧とした意識の中で、サイトウは自分がイズミに抱えられているのを感じた。ゴルフ場からタクシーに乗り、ようやく家にたどり着いたらしい。イズミの腕の中で、サイトウはただ体を預けることしかできない。


「っと……重いな、お前」


 イズミがサイトウを担ぎ直し、玄関のドアを開ける音がした。家の中の空気に触れ、サイトウは少しだけ安堵する。ここが、自分にとって唯一、完全に力を抜ける場所だ。

 イズミはサイトウをベッドルームまで運び、ベッドにそっと寝かせてくれた。サイトウは、シーツの感触と、体の下がる感覚に、ホッと息をついた。疲労困憊で、指一本動かすのも億劫だ。


「夕飯準備するから、お前はそのまま寝てろ。いいか、起き上がるなよ」


 イズミの声が聞こえる。サイトウは、か細い声で「……ん……」とだけ答えるのが精一杯だった。イズミが部屋を出ていく気配がする。ドアが静かに閉まる音。サイトウは、イズミの存在に安堵しきって、そのまま深い眠りの中に落ちていった。


 意識が、ふわりと軽くなる。体が沈むような感覚から一転、何かに浮かんでいるようだ。視界が開ける。見慣れない風景。古ぼけた校舎、運動場、そして、どこか懐かしい空の色。


(……あれ? ここ、小学校……?)


 サイトウは、自分が小学生の頃の母校の校庭に立っていることに気づいた。時間は放課後らしい。クラスメイトたちが、数人集まって楽しそうに遊んでいる。サイトウは、その輪から少し離れた、校庭の端にある古びたベンチに座っていた。手には、読みかけの文庫本がある。


 当時のサイトウは、今よりももっと人付き合いが苦手だった。クラスの中に友達と呼べる子はいなかった。休み時間も放課後も、一人で本を読んでいるのが一番楽だった。皆でワイワイ騒ぐのが、どうすればいいのか分からない。輪の中に入る勇気もなかった。


(ああ……この感じ……覚えてる……)


 サイトウは、当時の自分が感じていた、あの漠然とした孤独感を思い出した。自分は、皆とは違う。皆が当たり前にできることが、自分にはできない。そう思っていた。


 その時だった。


「よっ、サイトウ!」


 明るい声が、サイトウにかけられた。サイトウは顔を上げた。目の前に立っていたのは、同じクラスの男子だった。少し背が高くて、明るい笑顔。


(……イズミ……?)


 記憶の中のイズミだ。小学生の頃の、やんちゃで、誰とでもすぐに打ち解ける、サイトウとは正反対のタイプのイズミ。


「何読んでんの?」


 イズミはサイトウの手元の本を覗き込んだ。


「難しいやつ?」


 サイトウは、イズミに話しかけられたことに戸惑いながら、「あ、いや……」とだけ答えるのが精一杯だった。イズミは、サイトウのぎこちない反応を見ても、気にする様子もなく、サイトウの隣にストンと腰を下ろした。


「お前、いつも一人で本読んでるよな。俺、本とかあんま読まないから、すげーなーって思うんだ」


 イズミはそう言って、空を見上げた。サイトウは、イズミが自分に話しかけてきた理由が分からなかった。どうして、こんなコミュ障の自分に、イズミは声をかけてくるんだろう?


「別に……そんな、すごくない、けど……」


 サイトウが呟くように言うと、イズミはサイトウの方を見た。その目は、サイトウの内心を見透かしているかのようだった。


「なあ、サイトウ。なんかお前と一緒にいると、俺、あんまり疲れねえんだよな」


 イズミが唐突に言った。サイトウは首を傾げた。


「……え?」

「なんだろな。皆とワイワイやってるのも楽しいけど、なんか気ぃ使うっていうか。でも、サイトウといると、そういうのが全然ないんだよ。お前、なんか落ち着くんだよな」


 イズミは不思議そうに首を傾げた。サイトウは、イズミの言葉の意味が分からなかった。自分が、誰かを落ち着かせている? そんなことがあるだろうか?


 その日を境に、イズミはサイトウに話しかけてくるようになった。放課後、皆が遊びにいく中、イズミは時々サイトウの隣に座って、サイトウが読んでいる本のあらすじを聞いたり、学校であったことを話したりした。


 サイトウは、イズミと話していると、不思議と緊張しなかった。気の利いたことを言おうと焦ることもなく、ただイズミの話を聞いているだけでよかった。イズミは、サイトウの話の聞き方が上手い、とよく褒めてくれた。サイトウは、自分がただ聞いているだけなのに、なぜそんなに褒められるのか分からなかったが、イズミと一緒にいるのは嫌ではなかった。むしろ、イズミといる時間は、サイトウにとって、あの漠然とした孤独感から解放される、唯一の時間になっていった。


 イズミといると、サイトウの周りの空気が、少しだけ変わるような気がした。サイトウ自身は何も変わっていないのに、イズミはサイトウといると心が軽くなる、と言ってくれた。それは、もしかしたら、この頃のイズミにはサイトウの無自覚な「コミュ力」の内、人の感情を癒し、共感する力は微弱ながら作用し、負の感情を吸い取る力に関しては不思議と作用しない、あるいは、彼自身の持つ特殊な性質が、サイトウの能力を相殺するような効果を持っていたからかもしれない。だからこそ、サイトウはイズミといる時だけは、常に流れ込んでくる他者の感情の波から解放され、「素の自分」でいられたのだ。イズミはサイトウの能力の影響を「疲れない」「落ち着く」という形で受け止めていた一方で、サイトウ自身は自分が特別な何かをしているとは全く思っていなかった。ただ、イズミといると、自分が自分でいられるような気がした。


 夢の中のサイトウは、ベンチに座り、隣で笑っているイズミを見ていた。イズミがいてくれたから、自分はあの孤独な時代を乗り越えることができた。イズミは、サイトウにとって、初めてできた「友達」であり、そして今では、能力のせいで困っている自分を支えてくれる、唯一無二の親友だ。


(イズミ……ありがとう……)


 サイトウは、夢の中で、心の中でそう呟いた。イズミがそばにいてくれる安心感。それは、小学生の頃も、そして今も、変わらないサイトウにとっての救いだった。


 意識が、ゆっくりと現実に戻ってくる。体の重さ、ベッドの感触。まだ少し疲労感はあるが、心は温かい感謝の気持ちで満たされていた。イズミが夕飯を作ってくれている音が、遠くから聞こえる。


 サイトウは、夢で見た小学生の頃のイズミの笑顔を思い出しながら、改めてイズミという存在の大きさを噛み締めていた。コミュ障で、人付き合いが苦手で、おまけに変な能力まで持っている自分。それでも、イズミだけは、そんな自分を当たり前のように受け入れ、そばにいてくれる。イズミは、サイトウにとって、迷子の自分が帰るべき、唯一無二の「アンカー」なのだ。

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