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●日記の内容をくれぐれも本気にしないでください。ほぼ何にも調べずに書いています。
●何を言っているのかよくわからない場合はとりあえず用語集を参照してください。
●時々同じ事を何度も書いています。心配するだけ無駄だと思うけど。
●敬称略。
●おしゃべりがどうしても治りません。
●リンクは御自由に(リンクを外すのも含め連絡不要です)。
●ここに書かれていることや文章の形式などはごっそりパクっても構いません。
●万一ここに書いてあることが何かの間違いでありがたく見えてしまうときは【あるわけなかろうおれカネゴン】、あなたの精神力が弱っていますので視聴を控えてください。危険です。
●もしここからリンクされると格が下がる/貫目が落ちるとお嘆きの場合はご連絡いただければ外します。
●日記インポート時のエラーがそこここに残っていたり恥ずかしくていたたまれない箇所があったりするので、折に触れて過去の日記も書き直しています。
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今日もお仕事。つかの間の休みであった。南無阿弥陀仏。
指数の底 e がエノキダ的にキモチイイ理由。eに「自然」という言葉が使われていることにカネゴンも含め誰しも一度は疑問を持つと思う。e = 2.7182818... は一見して自然には見えないが、微分を適用して初めてわかるありがたみであるようだ。
。既得権益 (この場合音楽の著作権) を奪い合う姿が生々しく描写されているが、描写している側も当然ながらその一人でもあり、客観性を保つことの難しさを痛感する。
カネゴンにそういう自慢できるような既得権益が仮にあったとして、果たして公平に振舞うことなどできるだろうか。自分でも無理だと思う。へらへらしていられるのは金がないからで、金を掴んでおかしくなるカネゴンの姿が何となく想像できなくもない。
カネゴンが愛して止まない読書猿は、最近とみに刊行ペースが落ちているが、考えてみれば読書猿のテーマは「本なんか読まずに済めば、それに越したことはない」というものなのだから、ペースが落ちて当然。遠からず終ってしまうのではないかという気がする。その読書猿によれば、ソビエト連邦の憲法には「加盟国はいつでも連邦を脱退できる自由がある」というものすごいことが書いてあるのだそうだ。憲法それ自体に時限爆弾のように崩壊装置が仕込まれているとは。読書猿のテーマにもそれに似たものを感じる。
ともあれ、カネゴンのような日記おしゃべりは、読書猿を読むたびに何だか恥じ入ってしまう。「学問は[こうするとこうなる]ということは言えるが、人に向かって[こうしろ]などと言うものではない」という言葉にはカネゴン共鳴することしきり。
ところで、その生き別れのお兄さんから数式処理ができるTIのポケコンを紹介していただく。ありがたいことです。Mathematicaより断然安い。数値演算ならこれまでの関数電卓でも十分だが、数式を数式のまま処理することがこんなサイズでできるとは。すでにMuPadを入手したカネゴンではあるが、これはちょっと惹かれるものがある。
ネイピア数eをjavaで算出してみた。eの級数展開
e = 1 + 1 + 1/2 + 1/(2x3) + 1/(2x3x4) + 1/2(2x3x4x5) + ...
はプログラム的にはカネゴンでもできるほど極めて単純で、アセンブラでも十分実行できる。カネゴンが小学校のとき最初に買ったTK-80というマイクロコンピューターには、たった128バイト(誤植にあらず)のメモリーしかなかったが、今から思えばそこでやってやれないこともなかったはず。しかしそれを実行する知恵がなさすぎた。遅過ぎた。
夜9時のNHK特集で、太古に地球に隕石が衝突した巨大クレーターが地中に深く埋もれており(石油探査のついでに毎年5つも新たに発見されているのだそうだ)、そこから豊富な地下資源が産出するということを放映していた。そして隕石が衝突することによってもたらされる大災害は、その後1万年もの間プランクトンの化石が絶えてしまうほどの規模だったが、それが逆に生物の進化のタイミングと奇妙に一致しているということも。久しぶりのヒデキ指数=180。大災害がその後地下資源の恵みと生物の進化を同時にもたらすとは不思議な因果。女神が死ぬとその身体から穀物が生えてくるという、世界中に広がる豊饒伝説にもどことなく通じるものがあるようなないような。その昔地磁気の反転による大災害が仮定されていた時期もあったが(情報源:諸星大二郎)、衝突がきっかけて核の回転が乱れて地磁気にも何らかの影響を与えた可能性もあるかもしれない【勉強せいおれカネゴン】。
ダイナマイトポップス、案の定見に行けず。紹介してくれた生き別れのお兄さんまで急な仕事が飛び込んで見に行けず。共に仕事を呪う。本当にシンクロしているとしか思えない展開。M1号は見に行ったとのことなので日記をお楽しみに。
本日は五月晴れのもと「あけてくれ」母校の音楽サークルで「ニューウェーブ大会」が催される。カネゴンは曲のコピーが甘いので気合いで強引に補うも、良心がうずき後ろめたし。しかしさまざまな祝(ことほ)ぎの報せ多数、まっこと喜ばしきことなり。カネゴンは大好きな Roxy Music を初めて唄えて有頂天。その後緑の恐怖らとともに呑みに行く。翌日頭が痛い。
家からうっかり古い日記を送信してしまう。ただいま復旧。そして大遅刻、そして「なかさん」のページへのリンクが微妙に間違っていた。いよいよ注意モード発令なり。
柳澤公夫の「ディーノ」という漫画にもこういうのがあった。この日記は暴露ページではないので書かないが、大きな企業には多かれ少なかれ「頭が病気になった人が押し込められる部屋」というのがあるようだ。中には新入社員に見学させ「お前たちもぼやぼやしているとここに入れるぞ」と発破をかけるところもある由。会社であろうと何であろうと、組織が合理的な理由で動くなどというのはめったにあることではなく、もしそんなところがあったら赤飯を炊いて祝ってあげてもよいぐらいだろう。南無阿弥陀仏。
恥ずかしくてこんなことカネゴンが言うことではないが、組織だろうと個人だろうとその活動のエネルギー源は「欲」しかないだろう【どうかと思うおれカネゴン】。エネルギー源といってもグリコーゲンやブドウ糖とは違う、もっと上の層の概念と思っていただきたい。「欲」という言葉を使うと何だかあさましく見えたりして客観性に欠けるので、何か違う言葉を当ててみるというのはどうだろう。意外に他に言葉が見当たらないものだ。今辞書を引いてみたらデジレ (Dezire) という女性名が見つかった。すごい名前だ。ナニワ金融道みたい。
その昔、
Hidekiこと中間子でおなじみの物理学者である湯川秀樹は、梅棹忠夫か誰かとの対談で「これまでの欠点をすべて解消した究極のドラッグというものがこれから開発されるんやないかと思うとるんや」みたいなことを言っていた。これからの人類がそれを必要とするだろうとも。しかしダイエットがナチュラルドラッグである以上、中毒しない薬はありえないことになる。中毒しない薬すなわち「何にも効かない薬」ということか。南無阿弥陀仏。
よーこさん (スーパーユニット「あなんじゅぱす」の歌姫) が淡々と日記を始めている。あなんじゅぱすのページがリニューアルしたと思った矢先のできごとであった。
さて、あなんじゅぱすと言えば昨日書いたロリコン治療薬のことだが、すぐさま連想できるのは「女性ホルモン」みたいなものではないかというものだ。もしそうなら治療というより限りなく刑罰に近いような気がしてならない。
ドイツでは NSDAP の時代に、男性ホルモンを男性に投与してみたらいったん男臭くなったものの、身体が怠けて男性ホルモンを生産しなくなってしまい、投与をやめると逆に女性化してしまったということがあったらしい(情報源:唐沢商会)。
「満ち足りると努力しなくなる」というのは何も人の心だけではなさそうだ、などと書くと天声人語みたいなのでやめておく。しかし満ち足りるかどうかは本人次第なり。金持ちなのにまだ働く人というのは、自分の欲をかき立てるのがたまたまうまいのだろう。カネゴンにはピンとこない。
今夜は帰れるだろうか。
やっと「指数関数・対数関数」に突入。少し間が空くと、もともとない勘がさらに鈍るなり。級数の次が指数というのは一見不思議な順番だが、指数に任意の実数が使える(拡張可能)ということを級数を用いて示そうとしているということらしい【おれカネゴンあんよは上手でごんす】。
恐竜に羽が生えていたというニュースは今朝TVでも見かけた。カネゴンアイにはまるで水墨画のような達筆に見えてしかたがなく、自然のものとはにわかには信じがたい。別に疑るわけではないが、始祖鳥の化石が偽物であったという事件もかつてあったこともあり、頭から信じるのも気が引ける。
考古学に限らず、「やれば必ず報われる」ようなものごとというものは、実は極めて少ない。外からはいかに楽しそうに見えようとも、学問世界が厳しい現実世界から隔絶されているはずもなく、やはり現実世界と同じ競争もあれば足の引っ張り合いもあるし、成果が出せなくて都落ちということはむしろ現実より多いぐらいかもしれない。考古学でも、苦しみぬいても成果が出せるかどうかがわからないというときに、そういう誘惑にかられずに済むことの方が難しいだろう。「ダイエット」が一向にすたれないのは、それが数少ない「やればやっただけ目に見えて効果が現れる」作業からだとカネゴン確信している。別に脳がどうしたこうしたを持ち出さなくとも、ダイエットは本質的に中毒するようにできている。
既に指摘されていることなのだろうし以前にも書いたような気がするが、社会人が学校に行ったり習い事をするのが流行るのは、そういうあこがれに突き動かされてのことだとカネゴン思う。でも、受験勉強の季節が過ぎた後、やればやっただけ報われるものごとというのはそうそう見つかるものでもない【おれカネゴンは受験勉強しとらんだろ】。好きなことと仕事を一致させるのは想像以上の難事業であり、勝ち目は決して高くない。
姓名判断の画数は自然数だが、整数または任意の実数にまで拡張しようという剛の者はおらぬか。
それはさておき、微積分の階数(order)は自然数に限られているらしいが、これをたとえば有理数や無理数あるいはそれ以上に拡張しまくることは可能だろうか。カネゴン例によって言ってるだけだが、そんなことはとっくに誰かがやっている(か意味なしと断定するか)可能性が高い。1.47階微分とかルート2階微分とか、何だかくらくらしそうである。
と思ってたった今調べたら早速あった。今の時点ではカネゴン何一つ知らないが、実数階微分はきっとグラフで見ればすごくわかりやすいはずだ。階数を滑らかに変化させると、きっと1階微分のグラフと2階微分のグラフの間を波打つのだ。そして階数が負のときはきっと不定積分を表すのだ。そうしたら記号が一つ減って美しかろう。そうじゃろそうじゃろう。
微分階数は果たして複素数にまで拡張可能か。指数関数が複素数にまで拡張可能であるということは教科書の先の方に書いてあるからこれから勉強するとしてとして、i階の微分はどういうものになるのやら。楽しみなり。わくわく【あるかどうかもわからんぞおれカネゴン】。
すでにおなじみのハッカー氏は、大学院で無限数論を研究していた暗殺剣の達人でもあるが、彼によれば「x2/x」や「logx/x」がx→∞のときに発散するかどうかを直感的に理解できるか、そこが無限を理解できるかどうかの境目なのだそうだ。まさにそこはカネゴンがつまづいた巨大岩石なり。南無阿弥陀仏。
今日も書けない。また日付を間違えていたし。
雨が降るので訳もなく落ち込む。昨日天気と気分について書いたばかりなので、まるでわざとやっているみたいだが、暗示に弱いカネゴンのことなのでどうかお気になさらぬよう。
実用的に生きられない人間は、誰にも聞こえない頭音を鳴らすよりないのだろうか。丘の上のあほうか、はたまた三年寝太郎か。ダンサー・イン・ザ・ダークを思い出さないよう必死になる。
カネゴンの職場に、「あけてくれ」母校出身者がいることを知る。しかもカネゴンと同じ教授についていたのだそうだ。驚き。「あけてくれ」母校だけにその女性は必死で隠していたせいかわからなかった。しかも本日で寿退職。
久しぶりの超能力ネタ。心がなごむ。
例の姓名判断で「東郷デューク」を入れてみた。吉であった。「すべての面で器用です。知力もあり才能にも恵まれ、その道では成功します。ことに技術的な能力をもっています。温厚で気質がよいので、みんなに好かれます」だそうだ。
ちなみに「御茶漬海苔」(苗字は「御茶」であることに注意)は凶だった。「ツキも能力もありますが、なにかと浮き沈みが激しい人生です。外から見ると幸せそうであっても、つねに心の中には空虚で寂しい気持ちを抱えているでしょう。」との由。
あなたの名前:ビョー ク さん 「すごくラッキーなことが続いても、その運を生かせないことが多い傾向にあります。おとなしそうにみえてガンコ、強そうにみえて弱い人。なまけると大失敗をする暗示が。」中吉。
小田島小田嶋隆のページの「伝言版」にサッカーの神が降臨している。
今日はこれしか書けない。
おなじみ「生き別れのお兄さん」からパワフル歌謡曲コピーバンドのライブにお誘いいただく。まっことありがたいことです。今週金曜日赤坂で執り行われるとのこと。しかしカネゴン時間が取れるのか。このページをごらんのみなさまもいかがでしょう。
特命リサーチでは「異食症(炭や消しゴムをついつい食べてしまう病気)の原因が鉄不足にあり、時には寄生虫によって貧血が引き起こされることもある」との結論を出していた。鉄が不足すると自律神経がまともに働かず、おかしな欲望を制御できなくなるのだそうだ。そして翌日の朝のTVでは「天気によってスーパーで売れるものが変わる」との特集が。晴れの日は肉や刺身が、雨の日は(ビタミンを補おうとして)かぼちゃがよく売れるのだそうだ。すでにこういうのを研究する「生気象学」というジャンルもできているのだそうだ。下手なマーケティングなどより天気の方がよほど人心に影響を及ぼすというのは当然予測できることなり。オーディオも、高い機材を買うよりもスピーカーの置く場所を変える方が音質が劇的に変化するが、それと似ていなくもない。
人類の歴史を振り返れば【カネゴン大袈裟な】、必要な栄養を過不足なく摂取することができた時期の方が圧倒的に少なかったに違いない。だから、猿が木から下りて以来、常に何らかの栄養が不足し、いわゆる正気を保てない状態の方がむしろ普通の状態だったのではないかという気がしてならない。外界に何らかの変化が起これば、それに対応する状態になるのが当然なのだから、常に正気を保って幸せでいられることの方が相当無理があることになる。誰しも常にベストコンディションになれるわけがないのだから、調子が悪いときはじっとしているに限る。
生気象学が発達して「雨の日は会社を閉める方が能率が上がる」なんて結論が出たりしたらどうしよう。ぜひそうあって欲しいものだ。コンピュータ業界では、プログラマーが深いパーティションに入れてもらえるのがあたりまえになっているが、それは海外の経営コンサルタントか何かが「プログラマーの生産能率を上げるには、深いパーティションといつでも呑めるコーヒーメーカーを用意してやることだ」と大真面目に取り上げたのが原因。でもパーティションの効用はコンピュータ以外にもきっとあると思う。お役所のような、パーティションも何もなく上司が監視しやすくするためだけの机配置は著しく生産効率と勤労意欲を下げていることにそろそろ気付かれてもよいのではないか。
緑の恐怖が紹介していた姓名判断、カネゴンの秘密の本名を入力したら「大吉」。しかしこれは当然のことなり。なぜならカネゴンの本名は占い師によって命名されたからである。そして「おれカネゴン」は「凶」。「抜群の頭脳と能力に恵まれています。けれども運命的にはあまり恵まれず障害が多い人生となりがち。やる気があっても体力がともなわず計画倒れが多いことも。」だそうだ。計画倒れ、あまりに図星。南無阿弥陀仏。
とはいうものの、ものは考えようなり。「一度心に決めたことを最後までやりとおす」というのは一見よく見えるが、連続猟奇殺人犯または失敗した革命家もこのテーゼに忠実なのである。「物事を必ずやりとおす」というのが必ずしも最善手であるとは限らないとすれば、多少は安心できるというものである【カネゴンそりゃ自己弁護じゃ】。
カネゴンの秘密の本名の最後には漢数字が使われている。とすると、その数字はもしかすると画数を大吉にするためのつじつま合わせだったのか。そう思うとありがたみがない。南無阿弥陀仏。皆様の周りで名前に漢数字が使われている人がいたら、おそらく大吉のためのオフセット ナンバーあるいは埋め草(padding) である可能性がありまする。
例の「雑記草」は、どうやらカネゴンが思っていた以上に大物サイトであるらしい。最近カウンタの進みが激しいのはそのせいであろうか。公開しておいて何をか況やであるが、何か大それたことをしでかしてしまったような気がしてならない。カネゴンのちっちゃなハートはぶるぶる震えている。
何だかカネゴン最近の内容が天声人語じみていないだろうか。反省。
小池一夫/芳谷圭児(フジオプロ出身!)の「カニバケツ」という成人漫画が小学校のときに激烈に流行った。古本屋で目にしたら一度手にとっていただきたい。検索したが今ひとつよい絵がない。残念。
カネゴン的には、精神的筆おろし漫画としては「俺の空」より遥かに好みに合っていた。例によって強引なストーリー展開なのだが、今となってはそこが(ナンパの描写として)かえって現実感がありそうに思える。緻密に論理的に展開されるナンパというものがもしあったら、それこそ笑止千万であるような気がしてきた。
以前NHKの動物番組か何かで、孔雀が羽を広げて雌を誘うという行動について説明していた若い動物学者が、知的りりしさにあふれるJ指数=140に到達しそうないでたちだったが、彼が研究室の書斎で壁一面にずらりと並ぶ本をバックに深々とソファに座り、くつろいだ姿で孔雀の求愛について語るのを見ていると、まるで後ろの本が「孔雀の羽のパロディ」であるかのように見えてきた。何だか、とてもよいものを見たような心持。果たして「教養」の正体は孔雀の羽なのかどうか。
部屋の片づけをM1号に手伝ってもらった。まっことありがたいことです。おかげさまで部屋がえらく広くなりました。シンセを棚に積み上げたらちょっと危なっかしい気がしないでもない。テレビを床に置いたので前より楽に見えるようになった。
土日出勤禁止令のおかげで何とか生き延びている。南無阿弥陀仏。
これまたニュートラルで岡本喜八「近頃なぜかチャールストン」を見る。実はカネゴンは昔この映画をビデオで見たのだが、途中で寝てしまったのだ。今回続きを見ると、何と岸田森と平田昭彦がマージャンをしているではないか。カネゴン感激。殿山泰司、田中邦衛、東野英二郎(黄門様)などなど、まるで役者のお楽しみ会のような映画であった。田中邦衛の運動神経の良さに驚く。この人は顔がああでなければ一流のダンサーになったことであろう。嗚呼。なお、おやっさんは岸田森のことを「伊丹十三の顔が長くなったような奴」と認識していたとのこと。
雑記草を読んで思い出す。昔読んだ今昔物語でこんな話があった。
ある女が男に捨てられ、怨みにまみれて憤死する。死体は屋敷の布団の上にそのままになっていたが、夜ごと青い光を発し、近所の人間が気味悪がる。ついにもとの男の耳にもその話が届き、たたりを恐れた男は占い師に助けを求める。
その夜、占い師の指示でいやいやながら男はその屋敷に忍び込み、うつぶせになっている女の死体の背中にまたがり、夜の更けるのを待った。丑三つ時になると突然死体が「あな重しや」(ああ重い)とうめき声を上げ、突然物凄い勢いで髪を振り乱しながら走り出し、京の町中を狂ったようになって憎い男を探して回った。しかし男は背中に乗っているのでどうやっても探すことが出来ず、明け方に死体はばったり倒れ、二度と起き上がらなかったのだそうだ。どっとはらい。
平安京ゾンビの間抜けさもさることながら、「青い光を発して」というのがカネゴンすごく気になった。平安時代に青い光を発することができる光源は存在したのだろうか。想像力だけで青い光を描写したのなら大したものだ。可能性としては「燐光」があるだろうか。死体が腐って雨に降られたりして湿度の高いところに放置されていると、リン成分が遊離してそれに何かのはずみ(雷とか球電現象とか)で点火されて青白い炎を発したりすることがあれば完璧なのだが、燐光は残念ながら赤またはオレンジなのだそうだ。青い光の正体求む。
浄土は近い。
見知らぬファンの方からメールをいただく。ありがたいことです。きんどーさんとガラガランダー!の日記の続きが読みたいと所望されている。他にも同様のリクエストあり。
ガラガランダー!、おめでとうございます。カネゴンも小躍りします(人目を避けて)。
ニュートラルで、近松門左衛門原作「曽根崎心中」(主演:梶芽衣子、宇崎竜童)を見る。素晴らしい。まさに「ロミオとジュリエット」に匹敵する完成度の高さ。近松はシェークスピアと同時代なのであろうか。おやっさんも梶芽衣子の演技のうまさに舌を巻く。花登匡もどおくまんも藤本義一も、なにわど根性のルーツはまぎれもなくここにある。カネゴンは梶芽衣子が啖呵を切るシーンでつい泣いてしまう。人情ものには目がない故、許せ。何にしろこんないいシナリオは教科書に載せるだけではもったいなさすぎる。
芝居は別にリアルである必要はないのだなあと何となく思う。曽根崎心中はシナリオが世界遺産なので時代がかったセリフのみで構成されているが、それでも問題なく「乗れる」ことがわかった。何と言うか、遊園地で戦隊ものなんかのアトラクションショーを見ていて、最初は「頭がでかいなあ」「足が短いなあ」とか「うそくさいなあ」とか思いつつも、見ているうちにその空気に引き込まれて大人も子供もだんだん興奮してくるような、そんな感じであろうか。
そうすると、芝居を成り立たせるエッセンスとは果たして何なのだろう。と、ここで「エッセンスを求めようとする行為」自体に何か問題があるような気がして、いてもたってもいられなくなった。要するに「○○さえあれば」「やせてさえいれば」「お金さえあれば」みたいなものの考え方、これは案外根が深いものなのかもしれない【近松はどうしたおれカネゴン】。
空騒ぎでも、やっぱり夢はあって欲しい。ブラッドベリの小説か何かで、「この家のどこかに宝物が隠されている」という話を子供の時に聞かされ、その宝が本当にあるかどうかとは関係なく、その話のおかげで家が不思議に光り輝いていた、みたいな話があった。
カネゴンは睡眠中に夢を見ないので何をか況やであるが、「夢」というのは果たして「現実」と対立する概念なのだろうか。もうちょっと考えてからまた書くが、こういうものを単純な二者闘争みたいなふうに捉えないほうがきっと面白そう。「すべては定義次第」というふうに考えるようになってからなおさらそう思う。自分への宿題とする。
忙しさに目が回りそう。カネゴン慌て癖を発揮しないようにするのが一番緊張する。何か忘れていないか。
仕事上の秘密というのは誰しもあると思う。カネゴンもやはりいっちょまえにそういう秘密を抱えている。そういうことをぽろっと日記に書いてしまいはしないか、そこに緊張する。本日は緊張の日なり。緊張緊張。
緑の恐怖だけではなかった。技術革新がこんな形で業界にとばっちりを喰らわすと誰が想像しただろうか。ささいな、しょうもないことであっても、重大なことと同じぐらい世の中に影響を与えるようだ。
その「ラフトレード」を大久保の近くのビルで発見。現在は何をしているのだろう。
多忙につき、プレビューせずに日記を掲載している。めくら打ちに近いので、どうなっているか不安。緑の恐怖の画面が派手になっていて人目を気にしてあわてて引っ込めたというのもある。
温暖化について書くのは何だか気が引けるが一つだけ。かつて古代の地球は厚さ数百メートルの氷に隙間なく覆われていた時代があったという説が最近浮上しているらしい。一旦「相」が安定してしまうと極めて長期間にわたってその状態が保たれることになる。均衡を打ち破り、炭酸ガスを吐き出して、それまでほとんど0に近いほどに落ち込んでいた温室効果を急激に進行させて氷を一気に溶かしたのが「火山活動」だったのだという。
氷漬けへの移行と解凍は極めて短期間(といっても地球規模につき数百年)の間に完了したという。問題は今後このような急激な変化が起こりうるのかどうか、予測するのは極めて難しいということだ。数学とコンピュータと人類の全知全能を駆使しても、予測できるのは周期的な現象、または比較的単純に増減する現象以上のものにならないようだ。温暖化の進行の早さの変化(要するに微分)もたぶんろくすっぽわかっていないのではないか。なにしろ地球の時間のものさしが長すぎるので、10数年の観測ではなかなか長期的な現象を捉えることが難しい。
なんちって。
昨日と今日たとえば東京FCが勝ったからといって10年後も勝ちが多いかどうかを当てるのもまた難しい。そういうタイムカプセル的に気の長いTOTOというのはあるだろうか【ないっておれカネゴン】。その間にチームがなくなってたりしたら悲しいことこの上ないが。
オフコース「さよなら」が聞こえてきた。天国は近い。
久しぶりによくできた話。誰かの創作ではないかと思えるぐらいピタリと決まっている。
連載の続編は印税のしくみなどなど。こういう情報でよくまとまっているものは意外に少ないので貴重なり。資料的価値も高い。ここからたどる「印税の計算のしかた」リンクもよさそう。
しばらくの間多忙につきあんまり書けそうにない。土日に体力を蓄えたので、しばらくは放出する一方と思われる。南無阿弥陀仏。なるべく家から書くようにします。おまけにまるまる一週間日記の日付を間違えていたことが判明。
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」、某掲示板上では評価が真っ二つに分かれているらしい。カネゴンはあの映画に私小説を感じた。それを感知する私小説レセプターがある人は揺すぶられるし、それがない人には理解不能にしか見えないと思う。ただ、あれを感じてしまうことは肯定していいのかいけないのかはカネゴンにも今一つよくわからない。もしかするとそういうレセプターはない方がいいのかもしれないし。感受性はほどほどに鈍い方が心臓にはいいような気がする。想像することしかできないけど、感受性が鋭いというのはあれはあれで苦しいものなのではないだろうか【だいぶまいっとるのうおれカネゴン】。
おやっさんがカネゴンに以前から「絶対お薦め」と大プッシュしてくれたジェット・リーの香港アクション映画「Black Mask (黒侠)」(今や超大物のサモ・ハン・キンポーも製作か何かでクレジットに出ていた)をついにビデオで借りて見た。
最高であった。
これを見てしまったらもう「マトリックス」はどうでもよくなってしまう素晴らしい完成度(ワイヤーアクションもストーリーも配役も)。というより「マトリックス」はこれをほぼ無断使用していると言っても過言ではない。話のテンポが早く、一瞬でも目を離すと筋がわからなくなるのでビデオ/DVD向き。侵入された香港警察のコンピュータも「芝居の馬」として100%機能している(侵入されると画面に邪眼が表れる)。殺伐としがちなストーリーを、大竹しのぶ似のコミカルなお姉さんが柔らげてくれている。つまらぬ「引き」や「謎」を一切残さない明快なストーリーは、続編のことなど念頭にない全力投球ぶりをよく表している。図書館のゆかいな仲間たちの一番年かさの人物がホイ3兄弟の一人に見えるのだが気のせいだろうか。
しかもカネゴンのツボにはまったのは、物語の運びや映像、主人公と敵の関係が不思議に「レインボーマン」に似ているという点だ【またそれかおれカネゴン】。製作側はきっと「バットマン」をなぞらえたつもりなのだろう。実際ジェット・リーがマスクをかぶった黒侠氏のいでたちは、バットマンまたは「グリーン・ホーネット」のケイトウ(加藤--ブルース・リーが演じた)に似ている。しかしカネゴンの心眼にはレインボーマンのエッセンスが時空を越えて作用しているとしか思えない。川内康範はレインボーマンは本当はこう撮りたかったに違いないとカネゴンは確信した。おやっさんはそこまで読んでカネゴンに薦めてくれたのであろう。大感謝大満足。
カネゴンにとってはレインボーマンはカルトではない。クンフーがそうであるように生活の一部であり人生の指針であることは以前カミングアウトした通りである。あの番組の最大のコンセプトは、「正義の味方が正気を保つのがいかに困難であるか」ということに尽きるのだが、Black Maskにはそのコンセプトが惜しみなく反映されている。米国が自称正義の味方を無自覚に継続している間は、このコンセプトはハリウッド映画で実現することが極めて困難なのである【話が大きいおれカネゴン】。レインボーマンを映画化しようとしているrainbowman.orgの皆さんには、ぜひ「Black Mask」を見ていただき、カルトをいたずらに強調しないことを密かに願う。東方の光となれい。
などともっともらしいことを書いてはいるが、カネゴン極めて小心者につき、そういうオフ会やBBSに参加して盛り上がることがどうしてもできない。
以前カネゴン日記で紹介した雑記草を主催している後藤さんからメールをいただく。まっことありがたき。そんなすごい人からメールをいただくようなことになるとはカネゴン感激の至り。その後藤さんから、「雑文速報」という日記猿人の雑文版みたいなサイトを教えてもらった。登録してみるかもしれない。
久しぶりにお茶の水に行き、DEVOのような衣装(まっ黄色のトレーニングウェアみたいなもの)を探すが、案外手頃なものが見つからず。どこかに品揃えの豊富な店はないだろうか。ついでに「(豪華本)魔女っ子メグちゃん」(池原しげと画)、「悪魔くん千年王国」「鬼太郎夜話」「キテレツ大百科」を買う。池原しげとは今やコロコロの「ファミコン風雲児」で知られるが、当時の絵は手塚治虫の絵にかなり似ていた。特に2色刷りカラーの色使いがあまりにも師匠とよく似ていて驚かされる。師匠ほどダイナミックではないが絵のエッチくささも師匠ゆずり。
久しぶりに楽器屋にもより、自動伴奏が出来るポータサウンドみたいなキーボードを物色。なるべく安っぽい音が欲しいのだが、意外にないものだ。カネゴンが今持ってるYAMAHAの一つ上位の機種がよさそうだ。しかし同じようなポータサウンドが2つあるのは悔しい。何とか処分したい。
最近の電子ピアノは極めてコンパクトで奥行きが小さく、しかも軽い。そしてここ1年で登場したらしいのだが、ピアノの鍵盤が高音と低音で重さやアクションの作りが微妙に変えてあり、すごくリアルになっている。これなら生ピアノはもういらないのではないかと危なく錯覚しそうになるほどの出来栄えである。欲しい。
久しぶりにレインボーマンのLDを見る。やはり時々これを見ないと落ち着かない。何度見ても涙がにじむ。
ミスターKを演じる平田昭彦の身のこなしを見るたびに、本当に運動神経がいいのだなあとカネゴンしみじみ感心する。カネゴンは運動神経が存在しない分、他人の運動神経が結構気になる。これはスポーツをやっているかどうかとは関係なく、何気ない「身のこなし」にふと表れたりする。岸田森は剣道をやっていたらしいが、その割に運動神経はどことなくよじれている。そこがまた良いのだが。
今更カネゴンが書くことではないが、レインボーマンのシナリオは、ワイルド7に匹敵するぐらい破綻した部分があちこちにある。マイクロフィルムの行方を追っていたはずが、いつの間にかそのことが完璧に忘れられていたり、女性の腕に醜い傷があるのを意味深に写しながらその後何の説明もなかったり。でもまあいいのだ。神はディテイルに宿ると言うし【それは言葉が違うおれカネゴン】。
魔女っ子ものの呪文は、一度逆に読むと何かヒントがあるかもしれない。「コロヒシヤハンャチスネグア」というのもあったし。
日本のアニメの輸出攻勢が続いて久しいが、果たして魔女っ子ものは輸出されたのだろうか。本気で悪魔崇拝やってる村があるという話(情報源:ゴルゴ13)もあるし、メタル好きが昂じてバンドメンバーを殺して食べて教会に火をつけたという事件もあったぐらいだから、何が起こるやら。情報求む。
ついでに言えば、初期の魔女っ子ものでは必ず1話は「魔女裁判」ものをやるのが通例だったのだが、昨今はどうなのだろう。何にしろヨーロッパの民が嫌な顔をしそうな話ではある。
「24時間365日コンピュータに触っていられる」というキャッチコピーがマイナスに働かないことを祈る。
いつぞや、カネゴンは昔見た悪夢「死刑執行のTV中継」について日記で書いたことがあるが(タグをつけていないので赤い検索エンジンで「死刑」でお探しください)、まさか本当にやるとは。どうかしゃれにならない演出を心がけていただきたい。バラエティやComedy Central でおちょくられようもないぐらい、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」よりさらに徹底させることを希望。当然取材は一切お断りである。南無阿弥陀仏。
広辞苑にない慣用句「当社規定により優遇 」の意味がよくわからない。優遇ということは比較の対象があるように見えるが、誰に対してなのだろう。後から来る人ほど優遇されるとしたら誰も最初に行きたがらない。
ソフトウェアの巨人と戦う最も良い方法: 世界中の優秀なUNIXハッカーが口裏を合わせてその会社に大量に採用され、重要なプロジェクトを抱えてインセンティブをがっぽりいただいたタイミングで、全員病気その他を理由に同時に退職する。名付けて「神輿に乗ったら手を離せ」。その結果どうなるかは知らない。もしも本気で戦うなら、このぐらいしてもよいのでは【カネゴン他人事だと思って】。
再びミュンヘン在住「ゲルベゾル太」氏よりファンレターをいただく【こらまた適当な名前を】。ありがたいことです。カネゴンの「キャラ」とは何ぞや。問われてはたと考える。
朝出がけに梁に頭をぶっつけた。まだ痛い。
おやっさんサイエンスネットワーク(本物)がかなり早期に警告を発していたとおり、日本の火山活動がだんだん富士山に接近している。部屋の中にいるのに何だか卵の腐ったような匂いがしてくるような錯覚に陥る。今のうちにヘルメットとマウンテンバイクを購入か。
昨日のニュートラルで、純粋な(直接の知人でない)「あけてくれ」読者に出くわす。カネゴンがとっくに忘れていた日記の内容について受け答えするのは誠に妙な気持ち。何よりメンバー全員の日記についてここまで知っている人がいるとは、うかつなことは書けない。感激の余り便所に行って泣こうかと思ったほど。「すげこま」ネタ大いに盛り上がるも、酒が回るとカネゴン爆睡に突入。
今度の休日出勤は禁じられた。今から飛ばしてはならないとのお達し。南無阿弥陀仏。
その昔「忍法十番勝負」という漫画があった(サンデーコミックスだったと思う)。手塚治虫を除いた大物漫画家たちが交互につながったストーリーで10本の話を描いたという、豪華企画。絵柄がまるで違うわけだが、共通して登場するキャラは「密書」だけなので何とかなるという寸法。藤子不二雄Aが描いた回が一番異様でよかった。一人だけ描かなかった手塚治虫は、まるでオロナミンCのCMに出演しなかった王貞治のようではある。
キャラといえば、貸本版「悪魔くん」(東考社版)の
人物紹介に「9000万円」という項目があって目を疑った。しかも最初は「9000億円」だったのに、途中から9000万になったり3000万になったり、かなりいいかげんであった。しかしこのサイトでは無難に「用語」として扱われている。
この間おやっさんに数学を見てもらって(高一の数式展開)、カネゴン自分の慌て癖を改めて知る。しかもカネゴン自分で思っていた以上に人の言うことを聞かないのでなおさらである。てきぱきやることはもう望まないが「ひたひた」進めるよう気をつけることにする。ひたひた。ひたひたひた。したしたした。こうこうこう(折口信夫)。ほほき、ほおきい。
ぐっすり眠りたい。しかしもしかすると今週土日も出勤。ガラガランダー!の方がもっと大変なのだが。
生徒が先生の知らない間にデートサイトに先生を登録。美談めかして書かれているが、一歩間違えれば警察沙汰。間に人をはさめばスパムも合法なのだろうか。
緑の恐怖が発見してくれたDEVOの映像を見る。素晴らしい。ページのキャプションに「また彼らの社会的な見解に報道陣から酷評が挙がることもあったが」という記述があるが、これは果たして何を指しているのだろうか。
「Mongoloid」で「あいつはモンゴロイドだから、おれたちよりいい目を見てる」「帽子をかぶって普通に仕事していても所詮あいつはモンゴロイド」みたいな歌詞があったが、もしかするとこれが東洋人蔑視にあたるということなのだろうか【きっと違うぞ俺カネゴン】。日本のマイナーな怪獣映画のテーマソング(タイトル失念)を、デビュー前から「映画館での耳コピ」で演奏していた彼らのこと、心配はないと思う。
山形浩生氏のプロフィールを読んで、目頭が熱くなった。特に「渋谷陽一を DJ に擁する国家 FM ラジオ放送で育ったぼく(と妹)にとって、ポップな感覚はすばらしいもので、商業ロックは唾棄すべきもので、両者は相容れないものだった。」という辺りは、カネゴンの日の当たらない高校生活を思い出させる。「すきなもの」リストも決してカネゴンと同じではないのだが、当時の情報源が何となくだぶっていたような気がしてしょうがない。Joy Divisionとかも聞いていたのだろうか。
この間のNHKアーカイブスで、1968年(カネゴン2才)にもかかわらず「コンピュータに追い立てられる時代」みたいなナレーションがあった。実はカネゴンが生まれたときからコンピュータはこの世に存在していたという事実を改めて思い出した。番組での当時の取り上げられ方は「(大型)コンピュータが『もっと稼げ』と強迫観念のように人間に迫ってくる」という、若干一神教が混じった微笑ましいコンピュータ観のように見受けられた。当時のコンピュータの最大の使命は「神託を下す」ことだったということにしておこう。
なお、ここで言うコンピュータは、TVや映画に出てくる「芝居の馬」と同じ意味でのコンピュータを指す。今も昔も、TVや映画に登場するコンピュータは本物とはかなり趣が違う。刑事ドラマの犯人と実際の犯人がかなり違うように。
ともかく実際当時のコンピュータは1.「鼻の詰まった声で指令を出す(声優が蓄膿症だったのではない)」2.「天から聞こえてくるようなエコーとドスの効いた声で指令を出す」のどちらかが基本であったので、コンピュータを神とか宇宙人に重ねやすかったと思う。そのコンピュータも今では完全にありふれたものになった。Windows のコマンド プロンプトを表示して鼻をつまんで読み上げるとノスタルジアまくり。
神託を出すのが使命なら、大型コンピュータが伊勢神宮だとすれはインターネットカフェや電話ボックスは街角のお稲荷さん、そしてパソコンは神棚みたいなものか【もすこし考えてから書けおれカネゴン】。
ごぞんじ「あなんじゅぱす」の保育園ライブレポート。ものすごく臨場感あふれる。写真もきれい。
宇宙空間でのブルースクリーンはつらかろう。よく冗談で言われていたが、本当にこんな時代になったのだと痛感。
ということは、この会社のサポートを担当すれば無料で宇宙に行ける(呼びつけられる)かもしれない。売り文句は「仕事で宇宙に行きませんか」。カネゴンそれまでに虫歯を治さないと。
その巻上公一は、東京キッドの件でロンドンで路頭に迷っていたとき、「ルミエール アンド サン」とか何とかいう劇団に偶然(というよりやけくそで)参加し、「雷に打たれたようなショックだった」とエッセイか何かに書いていた。曰く「グロテスクでなお美しいコンセプト、とかく頭でっかちになりがちな日本の演劇よりも遥かにリアリティを獲得している」なのだそうだ。巻上公一はこのときの経験がものすごく大きかったとあちこちに書いていた。何しろ知らない世界なので好き勝手に引用してます。
「リアル」というのも考えてみると深い。科学者を教育テレビに出演させると、ただの理科の先生にしか見えないことなどざらにある。もちろん「TV効果」(カネゴンが勝手に命名:いろんな意味で被写体を擾乱する)があるからそれを差し引いて考えないといけないが。本物だから本物のように見えるとは限らない。むしろ岸田森に白衣を着せて手に持った試験管を凝視してもらう方が遥かに「科学者っぽい」。
そう考えると、随分昔の長島茂雄の伝記映画で、長島茂雄が「長島茂雄の役」で出演したというのはかなりすごいことだ。他の王貞治とか柴田とかは俳優がやっているらしいが【仕事しろおれカネゴン】。
カネゴンががりがり作成している書類をふと誰かが覗き込んでそこにびっしりと「デビルマン」とか書いてあったら、やっぱり怖いか。やめときます【仕事しろおれカネゴン】。
「パリのある米国人」ではないと思う。ガーシュウィンがサントラをやった映画「パリのアメリカ人」そのまんまのタイトルなのだから【カネゴンに突っ込まれるのは何だかいやじゃのう】。
でも、物凄く高尚な映画のタイトルをアダルトビデオにそのまま使うというのは、結構よいかもしれない。「羅生門」とか「ラスト・エンペラー」とか。電話や店頭で注文しても恥ずかしくないという効果もある。Googleでろくでもない結果が続々出てきそうだ。
昨晩帰りに寄った定食屋にあった読売新聞で(主にキリスト教関係者に向けて)「子供を勝手に天使と同一視するな」みたいなことを書いた本が紹介されていた。本当はスコラ学者についての研究本らしい。既にこのことは例の教科書でも厳しく指摘されているが、この認識はもっと広まってもよいと思う。
子供は欲望にめちゃめちゃ忠実だし、「純真無垢」ではなく「悪知恵がまだ足りない」だけだと思う。すぐばれる嘘をついて叱られた後はもっと巧みな嘘をつくものではないだろうか【カネゴンはすぐ顔に出とる】。
メキシコのゲリラがつける覆面は、きっとマスカラスみたいなデザインだと思う。そういえば頭巾を被ったレスラーというのも見たことがない。まだまだ被り物はいっぱいあります。
M1号の日記を読んだら「シェリーにくちづけ」が聞こえてきた。
アニメ画像評価サイトのことは初めて知りました。なぜかこの分野、けっこう前から掲示板の自動翻訳をやろうとして悪戦苦闘している。日本と海外のファンがチャットできるようにとのことと思われる。アニメファンのボキャブラリーがかなり完結しているので自動翻訳しやすいと踏んでいるのだろうか。自動翻訳がもとで国際的なフレーム合戦が起こったりして。しかし自動翻訳の悲しさ、きっと「死んでしまいなさい」とか「あなたはすばらしくひどい人ですね」みたいに口調だけは丁寧なままだったりするだろう。笑いながら怒る竹中直人のように。
どこかのメール配信ニュースで、「linux の作者である Linus が、自伝中で Mach を酷評した」というニュースを読んだ。「ありとあらゆる設計ミスがあり、しかもまだ増えている」のだそうだ。
説明すると、Mach とはいわゆる「マイクロカーネル」と呼ばれる技術を実現(業界用語では「実装」)したもので、カーネギーメロン大学部屋出身。要するにおまけをつけすぎて
戦艦大和みたいに身動きが取れなくなってしまったオペレーティング システムを軽くしようというのが狙い。
他にもこういうマイクロカーネルの実装はいくつかあるが、MachはMac OS X (の前身NeXTSTEP) で採用されたことで知られている。しかし、Windows NT のマイクロカーネルにも、実は
ほぼそのままMachが使われていて、カーネル技術者が見ればすぐわかるのだそうだ【確認しとらんだろおれカネゴン】。この情報が古くないことを祈る。
ということは、いつの間にかMac OS X と Windows 2000(NTの後継だから) は2親等ぐらいの親戚関係にあると言ってもよいことになる。まるで南朝北朝である。どっちが南朝かなどと書くと命が危ないのでやめておく。そしてまとめて Linus に酷評されるとは。南無阿弥陀仏。
マイクロカーネル(意思決定と人事だけやり、後は部下に任せる)と伝統的なカーネル(零細企業の社長のような何でも屋)の問題は、そのまま現実の問題でもある。どちらを選ぼうと、やらせたい仕事の数を減らさない限り問題の数も減らないような気がする。ついでに書けば、Windows NT のマイクロカーネルは、本来の思想に反してビデオ表示回りをカーネルに組み込んでしまっている。要するにスピードを上げるためなのだが、まるで仕事ののろい部下に任せておけず「どけ!俺がやる」と手を出してはまる社長のようでもある。
おやっさんが妖精に会いに行くとあれほど書いてあったのに、しかもそれを掲載したのはカネゴンなのに、それを忘れて8時にニュートラルへ行ってしまった。南無阿弥陀仏。しかたなくモスバーガーに行き、ゲーセンに行ってジャンピュータをやったら突如生まれて初めて対面から対戦を挑まれ、しかもぼこぼこに負ける。なんまんだぶ。
本日も一人ぼっちで仕事なり。会社に来るのは別に苦痛ではないからいいようなものの、勉強したい。
やっと定積分から不定積分、原始関数に突入したというのに。ちょうどこの間買った「なっとくする電磁気学」という本で積分が出まくっていて、本当にめぐり合わせがよすぎるなり。電気の世界と力学の世界は思う存分微積分を実行できる数少ない世界らしい(つまり連続でかつ滑らかと見なせる)ので、どうして電気と微積分をからめて教えないのか不思議でしょうがないなり【何でコロ助口調かおれカネゴン】。しかし「なっとくする電磁気学」はレイアウトも含めて本当に良い本。
その微積分をやっていて、やっぱりこれらの記号が「演算子(operator)」という感覚にまだ慣れない。ついつい
diff(f,x)
とか
int(f,x=-a..a)
などとプログラミング言語風に書き直してみて初めて納得する有様。これはこれで一種の困ったことであった。
だから原始関数を微分するともとの関数になるというのは、「diff(int(f,x=0..a),x)=f;」のような感じになるのだろう。こっちのほうが断然読みやすいような気がするのは気のせいか。どうして微積分の記号がいろいろあるのか昔から不思議だったが、教科書によればどれにもそれぞれ一長一短があり、一つに絞りきれないからだとのこと。でもニュートンが使ってた、xの上に・を打って微分を表すというのだけは見事に廃れてしまったらしい。
コンビニでよく売っている、身体を拭くためのウェットタオルがあるが、あれで粘膜を拭いてはならないことが判明。痛さのあまり座り込んでしまうほどであった。
ついでに、諸星大二郎の絵柄は女性(ホラー好きを除く)に大変受けが悪いことも判明。意外に生理に訴えかける絵柄であるらしい。
久しぶりにGoogleで検索してみたら、こんなものが引っかかった。これは相当初期の藤子F不二雄だが、この小学校三年生向けの(はずの)「ユリシーズ」がジェイムズ・ジョイスの方だったらどうしよう。Fはオリエント方面の神話や史実をモチーフにすることが多いが、手塚治虫はネタに詰まると「イソップ物語」からいただいたのだそうだ。人それぞれ。
本歌取り(パクリとは呼ぶまい)はなるべく現在から遠くというか原点に近いものからやった方がたいてい面白い。それは「めったなことではオリジナルを越えられない」現象なのかもしれない【いい気なものだおれカネゴン】。
なつかしものの番組をなんとなく見ていたら萩本欽一が出ていた。見ていて何か変だと思っていたら、「きんどーさん」と喋り方が生き写しなのだ。きんどーさんを知らない人は、萩本欽一の声を心の中で吹き変えて日記を読むように。
おやっさんがカネゴンアパートに来る。事務用ではあったが、ついでに数学の勉強の「仕方」を教わる。M1号はあいにく留守。そしてそんな絶妙のタイミングでモルモン経が布教に来る。名乗りはしなかったが「
ユタから来ました」の一言で言ったも同然。丁重にお断りする。
NHKアーカイブスで「東京キッドブラザース」をやってた。「一人1000円集めて土地を買ってユートピアにする」みたいないかにもヒッピーな運動をしていたらしいが、豊田商事以降、もうやれないだろう。カネゴンは演劇界のことは何にも知らないが、東京キッドと言えば、柴田恭兵と「巻上公一」がいたということだけが記憶にある。
よくわからないのが、巻上公一は「井上(ヒカシューのキーボード)はキッドを愛していたが、ぼくは東京キッドを憎んでいた」ということを何かで書いていたことだ。何があったのやら。ヒカシューのバイオを読むと、東京キッドがロンドン公演中に突然現地で解散し、役者として同行した巻上公一(当時20才ぐらいか)は路頭に迷い、激しく落ち込んだのだそうだ。気持ちはわかるような気がする。が、どうもそれだけではないらしい。
随分後になって、当時の東京キッドの方法論について事情を知っている人から聞いたところでは(かなりうろおぼえ)、上京して右も左もわからない若い衆というか志望者を部屋に閉じ込め、人に言えないつらい体験を無理矢理話させて感情を爆発させ、それをそのままステージに持ち込むというものだったのだそうだ。洗脳のプロセスそのものだったりするが、当時はのどかだったという結論にしてよいのだろうか。よくはわからないが、カネゴンはついていけなさそうな気がする。黒テントから脱走した佐野史郎と同じ運命であったろうと予想される【頭が春かおれカネゴン】。
また今日も忙しくなりそう。
その後、賛美歌「羊を飼う人よ そのほか何見たの」「母マリヤが赤ちゃんを きれにくるんでおりました」がなぜか聞こえてくる。次は「Childs' Anthem」TOTO
だからというわけではないが、エクソシストが13日の金曜日には放映できないのだそうだ。今朝TVをつけたら、ジーザスに復顔法を適用したというニュースが出ていたし(当時の平均顔を算出しただけ)。わざわざそんなことをしなくとも、キリストはとっくに白人顔ではないと思う。そういえばジーザスのホロスコープを作って逮捕された数学者もいた。
問題があるとすれば、ジーザスに対するばちあたりは恐れるのに、人間に対するばちあたり感がないか、または全く違うレイヤーで考えている点ではないか【カネゴン地雷地雷、大きいぞ!】。
何だか「陛下にはご尊顔麗しゅう...」みたいな頭音。
カネゴン、4-5月はかなり忙しくなりそう。ゴールデンウィークがぶっつぶれる可能性まで浮上。
カネゴンの無知無知プリン: 「戯曲」というのは面白半分に作った音楽のことだと本気で思い続けていた。(舞台用の)ドラマならドラマと言ってくれればいいのに。そもそも何でこんな訳語が当たったのか理解に苦しむ。もともと日本語にあったのだろうか。近松門左衛門か井原西鶴あたりが言い始めたとでも言うのだろうか。
いつかカネゴン日記でも紹介したことのある「数学のいずみ」HPのコーナー「数学玉手箱」はとっても良い。読んでいて、カネゴンも反復練習が必要との認識に達す。「いいですね。よしおが計算したように平方数、立方数の和の公式はスラスラとそらでいえるようになってないと
だめだよな。」という記述があったからだ。あとlimの計算ぐらいはできるようにしておきたい【千本ノックじゃおれカネゴン】。
この忙しいのに、いつぞやのセルフ宿題「人口に適正値があるか」についてふと思ったりした。このまま人口が増えつづけてスペースコロニーを建造する前に石油がなくなったりしたら、どう考えても強引な方法で人口を抑制せざるを得ないだろう。その時にどんな基準で人間を間引くのか。まさか Google のリンクによる評価と同じアルゴリズムを使って「知人が少ないということは重要度が低いと見なす」だったらどうしよう。自分で思って怖くなった。合コンもクラブ活動も遊びもサバイバルと化す。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。
久しぶりに日付を間違えた。巨大フジ隊員の日記では人形が踊っている。春うらら。
エイプリルフールがいつの間にか通り過ぎて行った。「四月バカ」とはもう表記されないのだろうか。カネゴン日記は嘘800(かどうかも定かでない妄言)を書き連ねているので、この日だけはリアリズム日記にしようと思っていたのだが。
玉木さん陰謀本を購入。この種の本がなくならないのは、政治に参加しないで見物だけしているからだろう。国民を強制的に政治に参加させてしまえば、いかに面倒で頭の痛いことだらけなのかがよくわかってもらえるのでは。そういう政治形態は何と呼んであげればよいのだろう。
パチスロを通じて男の成長を描く。ヨーデル王子(おおひなたごう)みたいなものか。
おやつさんの店「ニュートラル」のピンク電話の故障は、電話の引込み線のジョイント部分がひっくり返って水がたまっていたせいだったらしい。出費0で直ってよかったよかった。
おじゃる丸を愛して止まない人たちのためのページ。提供はくりこさんでした。ありがたいことです。ネット上のおじゃる丸情報は大変充実していてとてもフォローしきれないほど。
もう一人のフジコ・ヘミングか。とても勇気付けられた。それから青汁の人が元野球選手だったとは。大魔人役の人も東映フライヤーズの出身だったし、昔は野球選手→俳優というルートが確立していた模様。
M1号らと朝の走りこみ。何だかすごく健康的なり。
オーロラがついに活動の極大期を迎える。とてもきれいだが、PCやエフェクター、インターネットや電源ラインなどにどんな影響を与えるだろうか。
去年すてきなライターを誕生日にいただいたのだが、このたびついに紛失す。まるで何かの身代わりになったように【言い訳にならんぞおれカネゴン】。下さったみなさん、ごめんなさい。しかし半年持ちました。
おじゃる丸がリニューアルして「新おじゃる丸」になった。しかしその違いはエンディングテーマ(さすがに「おじゃる丸音頭」とかではなかった)と、おじゃるの刈り上げが若干鋭角になったことだけである。天晴れ天晴れ。
今週はあまり日記書けなそう。
花見に行く。例によって夕方は寒さに震えるが、知人多数に出くわす。よろしたもう。
以前から各方面で絶賛されているヘビー・デューティーなミュージカル映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を見る。つらすぎ。これは「ダメ人間の内部を実況中継する映画」だ【また決め付けをおれカネゴン】。主人公が盲目になるというのはおそらくストーリーの中では重要ではない。見ていてなぜか「死の刺」(島尾敏雄--小説版)を思い出した。私小説をわかりやすく図解してくれる映画というか。
私小説は「ダメ人間からダメ人間へのメッセージ」だと勝手に解釈しているカネゴンだが、主人公が妄想するミュージカル(豪華な頭音)は、何かまわりにきっかけとなる音がないと決して始まらない。だから無音の世界に行くと妄想すらできなくなる。逆に、かすかな音が発生しただけで勝手に頭音が始まってしまい、それに没頭しているうちに当然のごとく仕事で大失敗する。この妄想の中だけで響く音楽は、最後の最後に初めて外に表現されるが、まったく救いになってない。
みなさん、みなさんをいらいらさせるダメ人間の内側にはこのような世界が展開されています。でもそれは、まず表に出ることはありません。ダメ人間は表現することも賢く立ち回ることもできません。
何にしろ物凄い映画であった。しっかり体調を整えて見ないと影響が大きい。このダメな主人公に感情移入してしまいそうなのをカネゴン必死でこらえるが、最後は強引に涙を搾り取られたような心持ち。移民一世が数多く登場するので英語は極めて聞きやすい。吉祥寺では4/6までやってます【ネタばれセーフかおれカネゴン】。
終った後風呂に入って「おじゃる丸」のビデオを見てやっと取り戻す。ぬかりなし。