最近、人生が楽しいYO [雑記]
子供たちは元気でかわいいし、
妻とは良い感じだし、
仕事は忙しいけど充実している。
生きる方向に悩みながら試行錯誤をくりかえして、
ようやく進むべき道が見つかった感じ。
今は、考えるよりも、日々、実践あるのみ。
こういうのを幸せって言うんだろうな。
父の愛と母の愛 [教育論]
父親の愛情と母親の愛情は、その本質が違う。
子供の成長にはどちらの要素も書くことが出来ないのだけれど、
日本の育児環境においては圧倒的に父の愛が足りない。
父の愛が足りない子供は、被害者意識が強く、打たれ弱いのが特徴だ。
なぜそうなるのか、そのメカニズムを具体的に見てみよう。
長男が4月から新しい保育園に通っている。
今まで通っていた小規模な保育園は3歳までだったので、
公立の大きな保育園に転入することになったのだ。
慣れるまではずいぶんと時間が掛かった。
6月ぐらいが「保育園に行きたくない」のピークだったかな。
ある晩、ママと二人で寝ているときに、
長男は辛かったことを語ってくれた。
長男が一生懸命、何かを作ったのだけど、
その何かをお友達から「ウンコ」と言われて悲しかったらしい。
妻は息子に同情をして、「明日から保育園行かないで良いよ」と息子に言った。
妻は長男の立場に立って、お友達は意地悪だと判断したようだ。
同情は女を伸ばし、男をダメにする [男女論]
女性の場合は、困難な状況にある友人を励ますために同情を用いる。
電話をしたり、話を訊いたりして、相手の状態を理解し、
困難な相手に同情を示す。
女性は、自分の状態に関心を持ってもらい、共感をしてもらうことでがんばれる。
細やかな関心→愛されているという実感→がんばれる
女性の関心への執着はすさまじいものがある。
「発表会で綺麗な服を着てみんなの関心を集めることを思えば、
いやなピアノのレッスンもがんばれた」などという話は、
多くの男性にとって理解不能だろう。
男は、困難な友人に対して、あからさまな詮索をしない。
というのも、
詮索→心配→能力への疑問
となり、相手にとって失礼だからだ。
どうしても心配な場合は本人ではなく、
現状を把握できてそうな第三者に探りを入れる。
その上で、励ますにせよ、気分転換に誘うにせよ、
同情的なことは絶対に言わない。
「いろいろ大変みたいだけど、お前なら大丈夫だよな」という態度で接する。
この無言の信頼こそ、男を成長させるために必要なものなのだ。
男に対して、同情を示すことは禁物である。
女性にとって社交辞令程度の同情であっても、男性にとっては過剰なのだ。
独立心がある男には、同情は失礼な行為である。
逆に、同情を示すことで、依存心が強い男はどんどん弱くなる。
同情→能力の否定→やっぱり俺はダメなんだ
依存心が強い男は能力を否定された時点で、挑戦するのを止めて、
出来ない自分を前面に出すことで楽に生きようとする。
同情が男を腐らせるということを、女性には知るよしもない。
多くの母親は無用な同情を示して男の子の成長を阻害する。
特に父親不在の場合、その影響は顕著だろう。
挫折がスタート地点 [結婚論]
人は自分の価値観がいかに先入観に縛られているかを知らない。
「結婚したらゼロから新しい生活を築いていきたい」と思っていたとしても、
実際には良い結婚生活とはこういうものというイメージは持っているはずだ。
俺も、最初は結婚生活とはこうであるべきと言う先入観に縛られていた。
身勝手な理想像を自分と妻に課していたのだが、
妻が「そんなの嫌だ」と言って、出て行ってしまった。
仕方が無く、俺が妥協をすることになった。
不思議なことに、妥協をすればするほど、夫婦関係は上手くいくようになった。
「なんだ、こんなんでも良いんだね」という発見を重ねるにつれて、
自分がいかに無意味に高い理想に縛られていたかということを理解した。
最初は、嫌々妥協をしたはずが、
いつのまにか新しい方法論を発展させようと熱中していた。
俺にとっての結婚生活とは、自分の先入観を壊す作業だったように思う。
理想の結婚像に挫折をした時が、本当の意味での結婚生活の始まりだった。
憎しみ合う夫婦の構図 [結婚論]
結婚をする時には、誰もが良い夫婦関係を築きたいと思う。
しかし、多くの人がすぐに挫折をしてしまう。
挫折をする人の共通項は、先入観の強さだ。
夫婦関係には、大きく2つのスタイルがある。
A:当てはめ型
良い夫婦関係とはこういうものというイメージが先にあり、
自分と相手をそのイメージに合うように変化させる。
B:試行錯誤型
夫婦が楽しく生活できるようなスタイルを試行錯誤をしながら編み出す。
男女の違いについて知ることの意義 [男女論]
男と女の違いはある。
ただ、それは一般論であって、個別の関係に常に当てはまるとは限らない。
たとえば、「男は女より筋力がある」というのは、全体的な傾向としては正しい。
しかし、特定の男女を取り出した場合、女の方が力がある場合もあるだろう。
たとえば、イタリアのママンと日本のもやし男では、ママンの方が100倍力強い。
男女の差は、確率論的に存在するからと言って、例外はいくらでもある。
男だから、女だから、という決めつけをすべきではない。
プロの思い出 [男女論]
俺は学生時代に雀荘でバイトをしていたことがある。
その雀荘には、とある有名なプロがよく遊びに来ていた。
俺はテレビとか見ないから全然知らないんだけど、
「えー、本当に知らないの?」と他の店員から呆れられるぐらい有名人らしい。
プロにしてみたら、適当に遊びで打っているのかも知れないが、
周囲とは格段に力の差があった。とにかく負けないのだ。
手作りは結構適当で、傍目から見ても流している感じなんだけど、
要所要所で、しっかりと危険牌を止める。
俺から見たら、「何でこれが止まるの?」という牌も止まるのだ。
今にして思うと、プロとしての勘を常にとぎすましておくために、息抜きも麻雀しかない。
その息抜きの場があの店だったのかも知れない。