第75撃:紅と蒼、空を駆ける
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一真はげんなりとした表情で口を開いた。
「天駆空歩か……あれは体力の消耗が激しくてなぁ……」
ぼやく声を聞き、姫咲はにやりと笑った。
「だからいっぱいご飯食べさせてあげたでしょ? それに――これも修行よ。苦手を苦手のままにしておかない。頑張りなさい」
一真は気持ちを切り替えるように問いかけた。
「目的地はどこなんだ?」
「奈良県よ。ここからなら車で一時間ちょっと。今のあなたなら……そうね、天駆空歩で三十分もあれば着くはず」
げんなりした気持ちを必死に押し殺していた一真は、思わず顔をしかめた。
「三十分も維持するのか……」
沈んだ声を聞いて、姫咲は小悪魔のような笑顔を浮かべる。
「ふふっ、そうしょげないの。上手く倒して早く帰ってこられたら――特別に今日の修行はお休みにしてあげます。だから、頑張れ、男の子♪」
一真は苦笑して肩をすくめる。
「もう俺も二十半ばだぜ? “男の子”は勘弁してくれよ、姫咲さん」
「なら――私にかっこいいところを見せてね、一真」
その笑顔に一真は思わず胸を突かれ、頬を掻きながら目を逸らした。だが、姫咲は優しくそれを見つめ、次の瞬間にはきりりとした表情へと切り替える。
「じゃあ行くわよ。一真、私が先行する。速度は落としてあげるけど……ちゃんとついてくるように」
そう言うと、姫咲は空に一歩踏み出した。紅の仙気が淡く光り、足場が生まれる。そのまま軽やかに蹴って、彼女の身体は空へと駆け上がっていった。
一真も深く息を吐き、蒼い仙気を固めて足場を作り出す。ぎこちないながらも後を追い、空を駆け登っていく。
二人はやがて雲に手が届くほどの高さに立ち止まり、姫咲が言った。
「大切なのはペース配分。移動で力を使い果たしたら、敵と戦う前に終わるわよ」
そして前を向き、長く美しい黒髪を風になびかせながら宣言する。
「――じゃあ、走るね。遅れないように」
次の瞬間、姫咲の紅色の足場が一斉に咲き誇り、空を切り裂くように駆けていった。
姫咲の速度はどんどん速くなっていく。その速度は車に匹敵するほど。
「くっ……速い!これで加減しているのかっ!」
一真も必死に食らいつく。だが足場を作るたびに余分な仙気を注ぎ込んでしまい、エネルギーのロスが大きい。
(無駄が多い…! これじゃ三十分も持たん。もっと効率を――!)
一真が僅かに後方の地上を見下ろす。封神拳で強化された視力でも、広大な竹林はもはや見えなくなっていた。
焦りと同時に前方に向き直ると、前方を駆ける姫咲の姿が目に焼き付いた。
紅の光を纏う足場は、一切の揺らぎもなく、まるで空に咲く花々のように美しい。
(……やっぱり姫咲さんは凄い。仙気の制御が神がかってる。あれなら一日中でも維持できるんじゃないか……)
姫咲はちらりと振り返り、後ろを追う一真を確認した。まだぎこちないが、必死に制御しようと考えながら動いている姿が頼もしい。
(よし……ちゃんと付いてきてる。偉いわよ……一真)
その胸の奥が、不思議な温かさで満たされていく。
――まさか、自分がこんな気持ちを抱くなんて。
数年前、草薙一真が自分のもとを訪れた時には、思いもしなかった。
親友である綾女の死を聞かされて、その上で綾女の甥から弟子になりたいと言われた時は、さすがの姫咲も驚きを禁じ得なかった。
姫咲は封神拳を習い、八代目“闘神童子”を継いだ時点で、人として、そして女としての幸せを諦めたはずだった。
封神拳を使い、その威力に耐えるための修行は、姫咲の身体を根本から作り変えた。
その修行は、姫咲から普通の人としての時間すらも奪ったのだ。だが――。
姫咲は心の奥底に鮮やかに蘇る光景を思い出す。
弱い身体で懸命に笑い、生きようとした少女――草薙綾女。
姫咲は彼女に出会い、人としての想いを取り戻した。
人を辞めるのではなく、人でありながら人を超える。その決意を与えてくれた、たったひとりの、百歳近くも年の離れた親友。
悪神との戦いがあるため、あまり綾女とは会うことは出来なかったが、それでもどうにか時間を作って綾女に会いに行った。
会うたびに見違えるように成長していく綾女。対して姫咲は外見的に変わらない。
生きる時間の違いに寂しさを覚えつつも、それでも綾女と過ごす時間は姫咲にとってかけがえのないものだった。
その彼女の甥から綾女の死を聞かされて、手紙を渡され「弟子にしてください」と言われた時、姫咲の胸は暗闇に沈みかけた。
最初は反対した。封神拳を教えるということは、この子にまで自らと同じものを背負わせるということだから。
なぜ綾女は、そんな道をこの子に示したのか?
当時の姫咲には分からなかった。
だが今――空を駆ける蒼い光を背に、懸命に食らいついてくる青年の姿を見ていると、胸が熱くなる。
永くを生きてきた姫咲の孤独を埋めてくれた二人目の人。
一真と過ごしたこの数年の修行生活は、姫咲の感覚からすれば僅かな時間だが、それでもかけがえのない数年だった。
綾女には分かっていたのかもしれない。一真には生きる強さが必要で、姫咲には……一真が必要だったことが。
(綾女……私は……この子に、もう“弟子”以上の気持ちを抱きかけているのかもしれない……)
風を切りながら走る紅と蒼の光は、まるで空に咲く二輪の花のように、寄り添うように進んでいった。
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