大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」(NHK)は、蔦屋重三郎(横浜流星)と元老中の松平定信が手を組むという意外な展開に。歴史研究者の濱田浩一郎さんは「ドラマはフィクションだが、定信が幕閣を去った後の逸話には5人いた妾の1人が病死し、3日後に動き出したなど、信じがたいエピソードもある」という――。
福島県白河市南湖公園の松平定信銅像
写真=photolibraly
福島県白河市南湖公園の松平定信銅像

松平定信は寛政の改革で庶民に嫌われた

大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」(NHK)において老中・松平定信(1759〜1829)を演じてきたのは、俳優の井上祐貴さんです。同ドラマにおいて定信は勤勉で高潔な完璧主義者として描かれ、言論統制を含む寛政の改革を推し進めることにより、主人公・蔦屋重三郎(1750〜1797)を圧迫していく役柄でした。

井上祐貴(「べらぼう」の松平定信役)オフィシャルInstagramより

実際に、定信の改革は厳粛なものであり、世間の不満は高まっていきました。そして後に「白河の 清きに魚の すみかねて もとの濁りの 田沼こひしき」と揶揄やゆされることになるのです。白河藩主でもあった定信による寛政の改革の厳しさに江戸の庶民も辟易。汚職や腐敗はあったかもしれないが、田沼意次が老中だった頃が恋しいとうたわれたのでした。

独裁的傾向を強める定信に対し、反感を募らせていたのは庶民ばかりではありません。定信が老中に就任することに一役買った一橋治済(11代将軍・徳川家斉の父)も寛政5年(1793)にもなると反定信派となっていました。というのも治済曰く、定信は自身の意見に異を唱えると不機嫌になったとされます。よって定信に重く用いられている者の中には遠慮して定信に意見を具申しなくなったとのこと。定信は自分のお気に入りの者には懇切に対応するが、嫌悪感を抱いている者には無愛想な挨拶・接し方をしたともいいます。

定信の独断専行に幕閣内部でも不満が高まる

人事に関しても同僚への事前相談はなし。また将軍が定信1人を召し出すことはあっても、将軍が定信以外の老中を1人だけ召し出すことは禁じていたというのです。将軍と自分(定信)以外の老中が親密になり、自らに対して良からぬことを画策するようになるのを防ごうとしたのでしょう。

そうした定信の独断専行に幕閣内部でも不満は高まり、反定信派が形成されていたのです。その代表的人物を挙げるとすると本多忠籌(陸奥国泉藩主。老中格)や松平信明(三河吉田藩主。老中)といった人々でした。彼らは定信の独裁気質が将軍・徳川家斉の親政を将来、阻むことを危ぶみ、定信の老中職と将軍補佐を解任しようと画策するのです。一橋治済はもちろんそれに賛同していましたが、御三家ごさんけのうちの尾張徳川家・水戸徳川家もこれに同意します。

また定信は大奥からも反感を買っていました。定信は大奥に倹約を要請し、大奥の女性たち(将軍の御台所・女中)を政治に介入させないようにしたのです。大奥の支出を3分の1にまで削ったこともあり、大奥の女性たちの定信に対する不満は高まっていきました。こうした大奥の女性たちや幕閣、一橋治済らの定信への悪感情は将軍・家斉も感じ取っていたことでしょう。