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書痴の廻廊
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書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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ラムゼイ・マクドナルド ─平和的国家主義者と総選挙─


 こんなとしも珍しい。


 一九二四年は選挙の「当たり年」だった。


 日独英仏それぞれに於ける総選挙、かてて加えて合衆国の上下両院、大統領選。およそ「列強」と呼ばれるに足る諸国の内の大半で、政治の舵を誰が取るのかを決める、このイベントが開催された。


 筆にも口にも候補者同士が烈しく火花を散らす中、水際立った男ぶりにて断然わが目を引いたのが、やはりイギリス、ラムゼイ・マクドナルド君。

 

 

Ramsey MacDonald

Wikipediaより、ラムゼイ・マクドナルド)

 


 この労働党代表に、筆者わたしとしては注意を払わざるを得ぬ。


 毎度毎度のことながら、対立候補を蹴落とすためなら手段は一切選ばない、私行を暴いて醜聞晒しもなんのその、無手勝流を邁進しやがる政治屋どもの面上へ、

 


 ──野良犬が塵溜をつゝくやうな真似は止して堂々と智的争闘をやらうではないか。

 


 カーンと鋭く来るような、頂門の一針的な言葉をマクドナルドが放ったからだ。


 皮肉は簡明なるが好し。回りくどさは未熟の証。紳士として、蓋し洗練されている。


 この選挙戦に結局労働党は敗け、第一党から転がり落ちる憂き目に遭うが、敗勢が確実となった際にも、

 


労働党の同志はよろしく元気旺盛でなければならぬ、世の中がすべて労働党の欲するまゝになると思ふのはあまりに吾等の任務を軽く見過ぎるものである

 


 マクドナルドはこのようなヘコタレなさを発揮して、威儀を保ったものだった。


「さて浮世といふ奴、乃公より先に生まれた大きいもンで、なかなか後から生れた小さい乃公一人の自由になってくれない」──村上浪六のへそ曲がりともこれは奇妙に一致する、やはり記憶するに足る、好き言辞であったろう。

 

 

The first Labour government in 1924 with Ramsay MacDonald as Prime Minister. In an early example of image editing, MP Stephen Walsh has been added into the left hand side of the photograph as the second figure on the middle row.

Wikipediaより、第一次マクドナルド内閣)

 


 敗北は得てしてメッキを剥がす。手痛く負けた時にこそ、その人間の地金というのは出るものだ。


 逆巻く血潮の勢のまま、他責思考に没頭し、周囲に向かって当たり散らすを事とする、どうにもならない動物か。


 それとも当意即妙に、新たな目標、新たな希望、新たな闘志をでっち上げ、麾下の者らに吹き込んで、彼らの心の火を熾し、士気を維持して勇ましく次の舞台へ進んで行ける人間か。


 マクドナルドは後者であった。


 そうでなければあと二度も、大英帝国首相として返り咲き、内閣を組織するなどと、到底不可能だったろう。

 

 

 


 ウィンストン・チャーチルほどの煌びやかさは無いにせよ。──マクドナルドも、地味に名言の多い人。

 


強いことは穏やかな方法でやれ。
 新しいことは古い方法でやれ。
 革命的なことは立憲的な方法でやれ

 

「理想は世界平和の天を仰ぎ、足はナショナリズムの大地を踏む。余は平和的国家主義者である

 


 上の二つなど特に、筆者のお気に入りである。

 

 

 

 

 


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古きボトラー


 あるいはボトラーの先祖と呼べるか。


 戦前、すなわち帝国時代の日本に、便所に行くため席を立つのを億劫がったやつが居た。

 

 

 


 職場にて、のお話である。


 それも尋常一様の職場ではない。


「お役所」だ。


 こやつの勤め先たるや、なんとなんとの中央官庁、当時に於いてもエリート中のエリートコースを突っ走った者にのみ辛うじて門戸を解放している、行政機関の枢要の大官の一名ひとりなのである。


 当然、彼が執務室にて使用つかうところの机ときたら、馬鹿馬鹿しいほど高級たかくて広い逸品で。


 だからこういう情景を成立させる余地もある。

 


「…官庁のある高官で遠い便所へ一々通ふを難儀とし、机の下に甞て含喇薬の入って居た壜をひそませておき、時折机の下で之を充行あてがっては済してるのがあった。机の下では妙な行動をしながら、上半身は談笑自若たりで、相対してる人も、まさか机の下で変態尿器を弄して様とは思はないから、小便して居ても誰も気附れない。机下の薬壜はほんとの薬壜として給仕には取扱はれて居る」

 


 医学博士高野六郎、昭和三年の刊行による屎尿屁』からの抜粋だ。

 

 

 


 割と最近手に入れた「医者の随筆」の一冊である。


 確かそう、彩の国所沢古本祭りの収穫だったか。積読タワーの結構上にあったから、おそらくそのあたりであろう。まあいい。戦前、本職以外にも、文筆の業を好んでふるう医師どもに、マッドな香りが濃厚だということは以前どこかで書いたはずだが、この高野六郎なる仁も、然り而して御多分に漏れず、変態的な偏りがそこかしこに見出せる。

 


「生理学的に考察すると尿は屎屁よりも遥に高尚なものである。尿の源は血液である。真紅に生命が溶けて躍動して居るあの血液が尿の母である。血液の濾液が尿となるのであるから尿は生物の本体に近い。従って尿中には生命のにほひがある。尿を研究すれば生命の神秘をも覗ふことが出来る。──尿をここまで詩的に謳い讃美可能な逸材に遭遇したのは初めてだ。


 なかなか貴重な体験である。

 

 

(『まつろぱれっと』より)

 


 それにしても、「真紅に生命が溶けて躍動して居るあの血液」と、血を生命の本体と視るか。


 高啓蒙な見識をお持ちのようで非常に結構。これはまたぞろ、ビルゲンワースに適性のあり気な人が居たものだ。

 

 

 

 

 


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道の彼方


 お前コレ、半ばトランス状態で、感極まった勢いのまま一気呵成に書いたろう──。


 そう突っ込みたくなる文章に、時たま出逢うことがある。


 直近では高村光太郎にこれを見た。


 然り、高村。


 日本国で義務教育を受けた者なら、おそらく一度は彼の詩を朗読したに違いない。


「僕の前に道はない
 僕の後ろに道は出来る」


 と、黄金の精神みたような句を織り込んだあの『道程』を、青く柔こい脳髄に注入されているはずだ。

 

 

 


 その高村が叫ぶのである。


 一点の曇りだに無き喝采を。彼の最も好むところのベートーヴェンの旋律に、五臓六腑の底の底まで慄わせて──。

 


ベートーヴェンは真に努力した、努力して音楽の天国と地獄とを究め盡した。ナポレオンが砲火が人を殺すものだといふ事を初めて知った人間であるとショウがいふやうに、彼は楽音が人の魂を打つものだといふ事をたうたう知った。彼の努力は人間が『聖なるもの』に近づかうとした努力である。どうしたら、どんなに自分の力を傾けたら、あの高きにあるものゝ聲を捕へ得るかに努力したのである。努力することを許された者は幸なるかなと思ふ。さうしてベートーヴェンは遂に人間の曾て到り得なかったほど高い上層の雰囲気に聴く宇宙の聲を人間のものとしてくれた。
 われわれはかういふ努力を成しとげ得る者にこそ最上の敬意を以て天才の名を捧げようとするのである」

 

 

高村光太郎

Wikipediaより、高村光太郎

 

 

 冷静な眼で眺めると何を言っているのかわからない、「宇宙は空にある」並みにちんぷんかんぷんな言辞だが、しかしとにかく熱だけはむやみやたらと伝わってくる。


 圧倒的な熱量に、どうしようもなく押し流される。否、むしろ、進んで流されてしまいたくなる。


 まあ、顧みれば白秋も、「自分の感動うごかされたもので他者ひと感動うごかせ」と言っていた。「ものを識るよりも、先づ愛さねばならぬ。愛して、はじめてものを識ることが出来る」とも。頑なな心を融かすには、まず自分から蕩けてみせる必要があるということだ。感化を拡大ひろげる要諦を、高村もまたしっかりと踏まえていたということか。

 


「如何なる事情の変化は起らうとも人の魂は亡くならない。いくら亡くさうとしても自然に反する理論は続かない。理論で亡くし得る芸術はよい芸術でないのである。芸術の不死とは結局人間精神の不死と同意義である

 


 しかしやっぱり彼の文には、そこはかとない荒木飛呂彦が宿る。

 

 

(『スティール・ボール・ラン』より)

 


「男の世界」的と云おうか。かなり特殊な力強さを感じさせてくれるのだ。

 

 

 

 

 


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農業国防論


 相性が悪い。


「農家」自由貿易とは、だ。


 不倶戴天にすら近い。


 自由貿易に反対するのが本邦農家の半分以上、伝統のようになっている。


 伝統、そうだ、伝統だ。百年をゆう・・に遡る大正時代のむかしから、既に斯かる傾向が立派に表出しているのだから、「伝統」と呼ぶ条件は揃っていると見做される。

 

 

(福島の梨売り)

 


「農業イコール国防」との認識も、先人たちの手によって、とっくに確立済みなのだ。

 

 嘘ではない。


 表現を誇張してもない。


 当時の帝国農会重鎮、岡田温の意見を叩けば、これは即座に見えてくる。

 


「我国は耕作に機械を利用する大農地のないことゝ人口が多くて仕事が少いのと肥料や農具や労銀や租税の高いために安く生産が出来ない故に天然資源の豊富な国の農作物とは競争不可能である。さればとて之れを自然に抛擲すれば米は熱帯米に小麦は南北米産に圧倒され直に食糧危機が起らう。我国が食糧の自給政策を抛擲し多額の食糧を外国より仰がざるべからざる状態になっても尚常に外国より安価に食糧を購入し得ると考ふるが如きは何等の根拠なき盲目滅法の妄論である。現在ですら我国の米作の豊凶がインドの米価を動かして居る。要するに保護政策は国民の多数に目前の不利益を及ぼす政策であるが、之がために種々の職業が栄え国民が種々の職業によって生活を営むことが出来る。これを不可なりとすれば保護政策は総て悪政で結局自由貿易論となるが我々農業者は自由貿易には反対である

 


 煎じ詰めれば、


 ──輸入食料品が安いのは国内農業生産が壊滅するまでの話である。


 というのが、岡田の主張の骨格だ。

 

 

Okada Yutaka

Wikipediaより、岡田温

 


 国内農家をぶち殺し、競争相手の居なくなった市場から、悠々たっぷり搾りとる。あくどい国人くにびとどもは、ざっとそのような心算で、遠大なはかりごとをめぐらしている。なればこそ日本人の身としては敢えて小利にこだわらず、目前の不利益に堪えてでも、長期的なを求めて政策を組み立てねばならぬ。異民族に国民生活の大基盤、「食」を委ねてしまうのは、絶対的に間違いだ──…。


 そうしたことを述べている。


 見ようによっては被害妄想的と言おうか、陰謀論の領域に片足突っ込んでいるかのように受け取れなくもないのだが、これはひとえ筆者わたしの頭が平和ボケの中毒に罹っている所為だろう。


 フランクリン・ルーズヴェルトも「食糧は戦略物資なり」と定義づけていたりした。国家百年の大計を考える位置の人々は、これぐらいの危機感を持ち合わせてくれているのが望ましい。

 

 

 


 国家といえば、岡田温は第十五回衆院選に出馬して、みごと勝利し、国政の場に躍り出ている。彼の意見が如何に世間に幅広く許容されていたものか、多少の参考になるだろう。

 

 

 

 

 


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わが師の恩 ─国別落第回避術─


 落第回避の口上ひとつをとってさえ、日本人と支那人との間には差異天淵もただならざるものがある。


 前者がもっぱら教授の膝下に額づいて、自家の窮乏を涙ながらに物語り、如何に余儀なき哀しい事情が試験に於ける不成績の裏側に伏在せるかを掻き口説き──ひとくちに言えば人情に訴え、あわよくば・・・・・の憐憫を期待するのに対照し、後者はまさに正反対、ひたすら欲得づくめでかかる。


「彼らの眼中、利しかない」


 とは、東京帝国大学講師、後藤朝太郎の言。

 

 

Asataro Goto

Wikipediaより、後藤朝太郎)

 


 本来極めて支那に同情的であり、日支提携に執心すること尋常ならざる彼をしてさえ、時にやりきれなくなって、こうして毒を吐いている。それほどまでに思考の基盤、常識レベルからして違う。


 支那人留学生たちは、およそ教授に対しても平気の平左で商取引・・・を挑むのだ。

 


「日本に来て居る支那の留学生は、試験を受けて落第しさうになると教師とか学校の当局とかを訪れて百円とか二百円とかの金を出し『金を取って置いた方が良いでせう、私を卒業させてくれゝば、私は尚沢山の留学生を連れてくる』と云ったさうである、斯う云ふ考へは総ての支那学生に共通である

 


 唐土に於ける師弟関係のおそるべきが窺える。

 

 

(南京市街)

 


「わが師の恩」に報いる術とは、師を儲けさせる以外にないのか。師匠の財布を膨らませさえしたならば、それで能事足りるのか。


 どうやら足りるらしいのだ。


 その旨、再び後藤に訊くと、

 


論語孔子が社会をうまく導く為めに書いたもので、支那の社会相を書いたものではない、言はゞ臭い支那の社会の蓋の様なものである、昔から支那人が如何に利に敏い国民であったかの一例を挙げて見ると、賢人の『賢』と云ふ字其ものからして、既に金を作ると云ふ事を表して居る、即ち下の貝の字は昔の支那の貨幣の事である、貨幣即ち財産を作る事の出来ぬものは、賢人の資格がなかったのである

 


 なんと鮮やかな黄金魔の国だろう。


 一周廻って、もはや感心したくなる。

 

 

(金州孔子廟

 


 誠意とは言葉よりも金額、金は命より重い。


「凡そ人に恩を施して置くと言へば、其最も論理的な方法は金銭であります」と、柳田国男も言っていた。教育の神聖など嘘っぱちだ。この世が濁世である以上、どこに行こうと、どこまで行こうと結局は、銅臭からは逃れられない運命である。

 

 

 

 

 


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流れを求めて ─武蔵野台地漫遊記─


 水に惹かれる。


 水に慕い寄ってゆく。


(どうも、おれには)


 そういう性質サガがあるようだ──と、西国分寺駅改札を潜りながら考えた。

 

 

JR East Nishi-Kokubunji Station South Exit

Wikipediaより、西国分寺駅

 


 ここから歩いて五分ちょい、お鷹の道・真姿の池湧水群を眺めに行くのが目的だ。


我々は昔から人数に拘はらず、必ず一団の邑落には一筋の水の流れを必要としてゐた。何時の世にも天性の欲求から、水の畔にばかり都邑をなさうといて居ったのである。その上に、別に泉といふものは神を祭るためにも、酒を醸すためにも絶対に必要であった」。──柳田国男の説である。


 彼の著作を紐解くと、己はつくづく日本人だと自覚する。


 その「天性の欲求」が、私の中で叫ぶのだ。


 流れが観たいと。


 美しい川のほとりに佇んで、時間を忘れ去りたいと。


 そんな具合いの欲求に、脳細胞を蝕まれることがある。

 

 

柳田国男

 


 先日もそれ・・に襲われた。どこか近場にこの欲求を解消できるスポットが転がってやいまいかとあれこれ捜索した結果、幸いにして武蔵野台地のこの場所を、環境庁お墨付き、全国名水百選に名を連ねたる清流を、発見の運びと相成った。


 そうした次第でここへ来た。


 まったく余儀なき事由だった。

 

 

 


 案内板に従って、武蔵国分寺公園の敷地内を南下する。

 

 

 


 紫陽花がみごとに色づいていた。

 

 

 


 やがて坂へと行き着いた。このあたりからせせらぎが徐々に鼓膜を揺らしだす。

 

 

 


 下りきったら、

 

 

 

 

 そこがお鷹の道である。


 写真ではどうも分かり辛いが、奥の石垣下あたりから不断に水が湧いている。

 

 

 


 そのすぐ横手に真姿の池。

 

 

 


 底までパッチリ透き通る、期待に違わぬ清澄さ。


 更によくよく見てみると、

 

 

 


 苔むした巌の上の水禽よ。


 羽ばたきもせず、置物然と不動なり。


 そのまま日本画の題材にでも出来そうな、これはたまらぬ景色であった。

 

 

 

 

 


 一通り散策した後は、せっかくここまで来たついで、近場の風呂に浸かってゆくことにする。

 

 

 


 『国立温泉 湯楽の里』。


 多摩川べりの天然温泉。


 とどのつまりは地熱と地下水の恵沢である。

 

 

 


 堪能させていただいた。


 心身ともに一新したが如き爽やかさであった。

 

 

 

 

 


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断食瑣談


 犬なら平均三十八日、


 豚では平均三十四日、


 猪ならば二十日間、


 兎十五日、


 モルモット八日、


 たった三日の白ネズミ。


 ──以上の数値はその動物が断食を強制されたとき、すなわち水だけで何日生存可能かを取りまとめたるモノである。

 

 

(モルモット)

 


 高比良英雄医学博士の談に基く。


 昭和五年に大著『断食研究』を世に著したる人物だ。


 他に鳥類のデータもあって、例えば鳩で十一日間、鶏ならば十四日、鷲ともなると三十五日は保つと云う。


「総じて身体の小さい者は大きな者に比し期間短く、草食獣は肉食獣に比して短い様である」とは、当人の弁。興味深い限りだが、果たしてこいつは、この一連の調査結果は、現代社会で検証可能なのか、どうか。

 

「平均」と称している以上、一件や二件でないだろう。例証は数多要ったはず。上の数値を割り出すまでに、どれほど多くの凄惨極まる情景が展開されたか想像するとゾッとする。

 

 飢餓の苦しみは酷烈だ。ひと思いに楽にはなれぬ。じわじわと長い時間を費やして、いたぶり尽され漸く死ねる。脂肪あぶらという脂肪、肉という肉を消費つかい果たして、皮膚が直接骨格に張り付いてでもいる如き身体ときたら御世辞にも、見て気持ち良いモノでない。


 そんな代物を大量生産しようとすれば九分九厘、愛護団体が沈黙しては居らぬであろう。


 存在意義に懸けてでも、彼らは激昂するはずだ。

 

 

Peta Italia en Pamplona

Wikipediaより、動物の倫理的扱いを求める人々の会)

 


 声のみの抗議にとどまらず、極めて直接的な手段で実験体を解放きに行くのがもうまざまざと目に浮かぶ。


 畢竟かかる実験が許容可能であったのは二十世紀前半までの沙汰であり。──如上の記録も敢えて検証などせずに、そっと措いておく方が社会としては健全なのではなかろうか。

 


「エジプトのピラミッドから出たけし・・の種粒に水を与へて温めたら花が咲いた。つまりこの種粒は三千年間冬眠してゐたといふのと同じ話しである。すべて凍結させたり、乾燥させたりしたものは断食期間も長い

 


 高比良博士のこの見識が一種誘導体となり、

 


「人間の若いのは生魚のやうなもンで、暑さには却って痛み易いが老人は干物のやうだからむしろ長持のする筈だ

 


 村上浪六のこの暴言が咄嗟に思い起こされて、筆者わたしはひとり微笑した。

 

 

 


 今年もいよいよ、暑い季節が接近ちかづいている。

 

 

 

 

 


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