40年以上にわたって経営手腕を振るい、スズキを世界的な企業に育て上げた鈴木修元相談役。だが1970年代半ば、同社には倒産の危機が訪れていた。進まない技術開発、迫る排ガス規制に、鈴木修が取った行動とは――。

※本稿は、永井隆『軽自動車を作った男 知られざる評伝 鈴木修』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

2001年4月、仙台での販売店大会に向かう鈴木修氏
撮影=内山英明
2001年4月、仙台での販売店大会に向かう鈴木修氏

エピック・エンジンは未完成のまま

鈴木修が国会で答弁した再燃焼方式のエンジンは、社内でエピック・エンジンと呼ばれていた。3代目社長の鈴木寛治郎が並々ならぬ執念を持って開発を急がせていた。排ガスを再燃焼させる仕組みだが、再加熱したときにマフラーが異常発熱してしまう問題を、どうしても乗り越えられないでいた。また、周辺温度が下がるとエンジンがかかりにくくなった。

それでも、東京モーターショーに出品した上、「開発に成功しました」と発表してしまう。広報担当だった鈴木修がである。なのに、問題解決はできないままで、その後の1974年12月に開発チームは解散してしまう。

鈴木修はエピック・エンジンに、一抹の危機感を最初から抱いていた。それ以前に、2サイクルエンジンそのものに対して懐疑的だった。スズキUSAに駐在していたとき、自動車の本場であるアメリカで2サイクルの四輪車などは見たこともなかった。二輪車にしてもほとんどなかった。

このため、72年11月の段階で、鈴木修はR&D(研究開発)部門に再燃焼方式を担う2チームを編成したほかに、触媒を研究する1チームを別に設置させていた。

触媒は、酸化還元反応を利用して排ガスを無害化させる部品である。COとHCは酸化させて、COは二酸化炭素に、HCは水と二酸化炭素にする。NOxは逆に還元させて窒素と酸素にする。触媒の貴金属には白金やロジウムのほか、ピアスや歯のつめものに使われるパラジウムが使われる。HC対策では、酸化機能が求められた。

世は4サイクルエンジンの時代

エピック・エンジン開発が頓挫し、開発チームは解散と同時に全員が触媒チームに編入された。

この時点で、スズキは追い詰められた。触媒チームは6人から40人を超える大所帯となった。だが、燃焼技術を専門とするエンジン技術者たちが数多く加わったわけで、彼らが材料技術である触媒を短期間に作れるのかは、未知数だった。

鈴木修の脳裏には、「倒産」の二文字がチラつく。

前述したが、スズキ以外の自動車会社はみな4サイクルエンジン。利害が一致し、国が示したNOxの削減目標は、なし崩し的に緩和されていった(昭和51〈76〉年規制の実施は2年延長された)。

ところが、スズキは孤立無援だ。自力でロビー活動を展開して、実施時期を延期してもらい、それまでに新型触媒の開発を成し遂げ、規制に適合していくしかない。

あるいは、他社から4サイクルエンジンを供与してもらうか……。

ちなみに、本家アメリカのマスキー法は、ビッグスリーがロビー活動を展開し、74年実質的に“廃案”にされていった。

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