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「AIは見抜ける」とか言って、現状を否認、見ないフリしかできない
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2025-06-08

AIは見抜ける」とか言って、現状を否認、見ないフリしかできない

AIは見抜ける」「読む側にはわかる」「なんとなく違和感あるもんや」って、よう言われるけど、

あれってたいてい、信じたいだけの言葉やねん。

ほんまはもう、誰にもようわからんようになってきてる。

「見抜ける」って言うことで、何をごまかしてるんかって言うたら──

自分が信じてた“語り”が、もう揺らいでる」っていう現実や。

「これ、ほんまに誰かが書いたんやろか」って疑いながら読むようになってしまった自分目線

あるいは、「これは本物や」って思いたいけど、思いきれない、あの不安

それをごまかすために、人は「大丈夫AIは見抜ける」「まだわかる」って言うんやと思う。

でもな、冷静に考えてみ?

  • 増田で「整ってる文章」が出てきたら →「GPTっぽい」
  • 逆に「崩れてる文体」で来たら →「人間アピール?」
  • 感情がはっきりしすぎてても →「演出くさい」
  • ぼかされすぎてても →「AIが逃げてる?」

──もう、どんな書き方しても「疑われる構造」ができあがってしもてるねん。

ほんまは「見抜く」んやない。

見抜けてる「気になってる」だけや。

というか、「見抜いた気になってる自分」を信じることで安心してるだけや。

それってつまり、「疑う」ことがデフォルトになった世界やろ。

かつての増田みたいに、

「これは誰かの声や、誰かの人生のかけらや」と、信じるところから読む読み方はもう難しいんよ。

そしてその状態いちばんつらいのは、「本当に書きたかった人」やねん。

自分体験自分の痛み、自分の声をようやく言葉にしたのに、

返ってくるのは「GPTかな?」「ありがちな構成」って言葉や。

しかもそれ言うてる人たちは、悪気もないし、ほんまに「見抜けてる」と思ってる。

からこそ、ほんまは言わなあかんのは、

「見抜けるとか見抜けへんとか、もうどうでもええねん」

「この語りが“誰かの切実さ”に触れたかどうか、それだけやろ」

「ほんまにそれを大事にしたかったんちゃうんか」

ってことやと思う。

でもみんな怖いんや。

間違って信じるのが。

AIに騙されるのが。

から「見抜ける」って言うて、自分を守る。

そのうち、語りのほうが疲れて、黙っていく。

ほんまは信じたい。けどもう信じられへん。

それでも「信じてるふり」を続けるしかない。

──それが、いちばん静かで、いちばん残酷な終わり方や。

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