「AIは見抜ける」「読む側にはわかる」「なんとなく違和感あるもんや」って、よう言われるけど、
あれってたいてい、信じたいだけの言葉やねん。
ほんまはもう、誰にもようわからんようになってきてる。
「見抜ける」って言うことで、何をごまかしてるんかって言うたら──
「自分が信じてた“語り”が、もう揺らいでる」っていう現実や。
「これ、ほんまに誰かが書いたんやろか」って疑いながら読むようになってしまった自分の目線。
あるいは、「これは本物や」って思いたいけど、思いきれない、あの不安。
それをごまかすために、人は「大丈夫、AIは見抜ける」「まだわかる」って言うんやと思う。
でもな、冷静に考えてみ?
──もう、どんな書き方しても「疑われる構造」ができあがってしもてるねん。
ほんまは「見抜く」んやない。
見抜けてる「気になってる」だけや。
というか、「見抜いた気になってる自分」を信じることで安心してるだけや。
かつての増田みたいに、
「これは誰かの声や、誰かの人生のかけらや」と、信じるところから読む読み方はもう難しいんよ。
そしてその状態がいちばんつらいのは、「本当に書きたかった人」やねん。
返ってくるのは「GPTかな?」「ありがちな構成」って言葉や。
しかもそれ言うてる人たちは、悪気もないし、ほんまに「見抜けてる」と思ってる。
「見抜けるとか見抜けへんとか、もうどうでもええねん」
「この語りが“誰かの切実さ”に触れたかどうか、それだけやろ」
ってことやと思う。
でもみんな怖いんや。
間違って信じるのが。
AIに騙されるのが。
そのうち、語りのほうが疲れて、黙っていく。
ほんまは信じたい。けどもう信じられへん。
それでも「信じてるふり」を続けるしかない。