旗本の家柄ながら、元服後すぐに江戸を出奔。姓を唐木に変えて大坂の商家で商売と算術を、奈良の興福寺で剣術を学んだ。
その後、江戸に戻って1人暮らしをしながら臨時雇いの用人稼業で生計を立てる唐木市兵衛の活躍を描く、時代サスペンス。
シリーズ33作目。第弐部13巻。
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3月3日の上巳節の日。元川越藩士村山永正の息女である早菜が、岩倉家嫡子の高和のもとに輿入れした。岩倉家は三千石をいただく旗本である。
盃事などの婚儀がつつがなく終わると、丹精こめて整えられた庭園が見渡せる座敷で披露の祝宴が始まった。
その新婦側の宴席に市兵衛と矢藤太も縁者に連なる者として、村山家家臣...続きを読む の富山小左衛門とともに招かれていた。
宴も酣となった頃、矢藤太が岩倉側の祝客の末席にいる男を気にしながら「俺はあの男に見覚えがある」と、声を潜めて市兵衛に言った。
矢藤太によると、その男は名を七右衛門という性質の悪い金貸しで、大身旗本の祝賀に列席する人間として相応しいとは思えないと言う。
矢藤太の視線に気づいたらしく、七右衛門も盃を手にこちらを訝しげに見た。裃をつけた正装をしているが、品のない食い方をしながら胡座をかいている七右衛門には、確かに崩れた印象しかなかった。 ( 第1章「花嫁御寮」) ※序章と終章を含め全6章。
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今回は、なかなか楽しめるシーンが多かった。
まずは、鬼しぶこと渋井鬼三次とそのひとり息子の良一郎のコンビで事件の調べに取り掛かかるシーン。
聞き込みの帰り、深夜に屋台で蕎麦を食べる父子の姿には心温まるものがありました。また、助弥と蓮蔵のほか、良一郎を助ける谷助という中間も新登場。終盤の捕物シーンも含めて、ファンにはうれしい展開でした。
続いて、内偵捜査中の片岡信正と返彌陀ノ介が市兵衛を呼び出し、昼の膳をともにするシーン。
内偵先は岩倉家の別邸で、それに絡んで当主則常の奢侈に過ぎる暮らしぶりや嫡子高和の博奕での散在により、多額の借金を抱えているという岩倉家の実情が兄の信正から市兵衛に伝えられます。
今回の婚儀は近江屋の財産目当てであり、たとえ近江屋の財産を注ぎ込んでも改易は避けられぬところまできているという話を聞いた市兵衛は、早菜を救い出すために動き始めます。
これが話の本筋なので、読んでいてワクワク感でいっぱいになりました。ただしクライマックスの大立ち回りは、敵が大した腕前でもなかったため、物足りませんでした。
そして、早菜自身の鮮やかな活躍が描かれるシーン。個人的にはこの早菜についての描写こそが本作の見せ場だったと思います。ネタバレになって申し訳ありませんが、少し詳しく紹介します。
市兵衛から岩倉家の内情を聞いた小左衛門が、早菜への注進のため岩倉家を訪れます。前もっての約束も添状もないことを理由に家宰が追い返そうとしたところを、偶然聞きつけた早菜が間に入るのですが、家宰を諌めたあと小左衛門の目通りを許す態度は堂々としていて、陪臣にすぎない村山家の娘とは思えない風格があります。
また、則常に呼び出され近江屋からの援助を口利きするよう命じられたときの、早菜の冷ややかな対応もカッコいい。小左衛門から真相を聞いていた早菜は、舅や傍に控える家宰に対して臆するところを見せません。その芯の強さ、実に魅力的です。
さらに、早菜を屈服させるよう父から命じられた高和が早菜の私室を訪れたシーンが痺れます。
力ずくで早菜を手籠めにせんとした高和ですが、早菜の抵抗にあい激昂。無礼討ちにしようと提げていた大刀に右手を掛けた高和より早く床の間の刀を取った早菜は、スラリと抜くや否や切っ先を高和の右腕に突きつけました。高和が刀を抜こうとすると早菜の剣先が右腕に突き刺さることになります。
早菜は幼い頃より武辺者の父から武芸の手ほどきを受けており、下手な武士より腕が立つのです。それを知らなかった高和は無理に藻掻いたため、右腕に浅からぬ傷を負うことになりました。
結局、岩倉家は改易に。早菜は近江屋に戻り、七右衛門に殺された小左衛門の遺骨を故郷の菩提寺に埋葬するために武州松山に向けて旅立つというシーンが終章で描かれます。
まだ夜も明けきらぬ早朝のことでしたが、見送りに駆けつけた市兵衛。市兵衛を見て顔を輝かせる早菜。2人はわずかなやりとりのあと、舟と岸辺に分かれて見つめ合います。
前巻の終章も印象的な見つめ合いのシーン ( 市兵衛が思わず早菜に見惚れるシーンも!! ) がありましたが、本巻では2人の距離が縮まったように思いました。
早菜には、その登場から本シリーズにおける真のヒロインではないかと密かに期待しています。才色兼備であり気丈で腕も立つ。市兵衛の伴侶としてこれ以上の女性はいないでしょう。
序盤に彌陀ノ介が市兵衛に嫁取りを勧め、市兵衛は縁があればと答えるシーンがありました。
ぜひ市兵衛にとっての強い縁となって、次巻あたりで早菜と結ばれて欲しいものだと思いました。