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意外と料理に適性があった
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2025-09-19

意外と料理に適性があった

袋麺より高等な料理はまったくしてこない人生だった。

 

袋麺に調味料自分なりに足して好みの味にする程度の時期が長かった。

ただ、料理番組料理YouTubeを見るのは好きだったし料理をしてみたいなという気持ちも持ち続けていた。

それに、自分でもやればできるはずだという自信があった。

その自信には根拠もなくはない。

料理客観的方法論が体系化されている分野であること。

控えめに自己分析しても自分比較的器用なほうであること。

同じく味覚もわりと確かであること、などである

そもそも料理一世帯当たり一人以上の人が日常的にやっていることで、車の運転技能よりも技術普及率は広い。

まり特殊技能などではなく人並みの知能と要領があれば誰でもできるはずだという確信

ちょっとした境遇の変化もあって、もう少し料理に取り組んでみようということになった。

 

袋麺にネギを刻んで入れるくらいのところからモールスタート。とにかく庖丁が使えなければ話にならない。

最初のうちはネギが全部つながってしまったが、上下動と前後動のバランスまな板への当て方などを微調整しているうちにやがてコツをつかんだ。

しかしそのコツを言語化するとなると難しい。

「ことばでは説明できないがやっているうちに何となくわかってくる」、これは俺が一番キライなやつだ。経験暗黙知。つまりコツ。

だが、調理プロセスの大部分はこうしたコツの集合体であることがだんだんわかってきた。

およそ客観的指標にとぼしい判断を要所要所で迫られるのである

レシピに「○分焼く」と書かれていても、それは目安に過ぎない。コンロの火力や鍋の特性などは各家庭でまちまちだからだ。

「お肉に火が通ったら」 「玉ねぎがしんなりしてきたら」など、調理における状態変化はたいてい連続的で、どこまでが状態Aでどこから状態Bという境界値が判然としない。というか、ない。

 

3分ジャストで火を消せばよい袋麺しか知らなかった私には、このあいまいさ、再現性NASAがしばらく受容できなかった。

やがて気づいた。機械的方法調理工程再現する方法などないのだと。

工業的に安定生産される加工食品と違って、肉や野菜などの生鮮食料品は買ってくるたびに状態が異なる。大きさ、厚み、鮮度、分量。

コンロの火力ツマミだってユルユルアナログで、毎回同じ火力で加熱できているわけではない。

したがって、調理されていく食材を目で見、音で聞き、鼻で嗅ぎ、時にはつついたり舐めたりしながらその場で経過を判断していくしかない。

 

と言っても、その判断基準はきめわてゆるい。

から下ろすのが多少早すぎても遅すぎても、調味料が多少多すぎても少なすぎても、まあ食べられるものができる。食べられさえすればよいのなら許容範囲は実はかなり広い。ちょっとおいしかったりおいしくなかったりするだけで、飢えることはない。

そのことに気づいてずいぶん気がラクになった。

トライエラーしたり、数をこなして経験値を高めることに対して気持ち積極的になっていった。隙あらば台所に立とう。

 

野菜炒めやチャーハンみたいなプリミティヴな料理でも数をこなすと見えてくるものがある。

具材を切り出す大きさ、次の具材を投入するタイミング、炒め終わるタイミング、などが徐々に定まっていく。手際もよくなっていく。

文章に書けと言われても正確には伝えられない。五感で「今かな」とか思ってるだけだから

気づけば、いつの間にか庖丁も難なく使えるようになっていた。

まだ入り口に立っただけだけど、少なくとも自分料理が苦手ではないらしい、どちらかというと好きらしいということがわかった。楽しく深めながら続けていけそうだ。

 

しか調理は「食生活」という広範な営みを構成するほんの一要素にすぎない。

第一歩なのである

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