あれっくす @NStyles HGヤムチャ(※HGはHayakukoi Gokuhの略)フィギュアって、ヤムチャがサイバイマンの自爆でやられたシーンであり、あの時点では死んでいるわけで、なかなか見られない死体のフィギュアなのだけど、そもそもゾンビ設定のキャラ以外で死体のフィギュアって前代未聞ではないだろうか。 2015-03-27 05:12:36
あれっくす @NStyles HGヤムチャ(※HGはHayakukoi Gokuhの略)フィギュアって、ヤムチャがサイバイマンの自爆でやられたシーンであり、あの時点では死んでいるわけで、なかなか見られない死体のフィギュアなのだけど、そもそもゾンビ設定のキャラ以外で死体のフィギュアって前代未聞ではないだろうか。 2015-03-27 05:12:36
15日付けの日本経済新聞における紀藤正樹弁護士の「インターネット免許制」もそうですし、郵政省・堀部政男教授による「公然性を有する通信」概念にしてもそうですが、不特定多数の人に対して、あるメッセージを公然と発信することって、そんなに規制しなくちゃいけないことなんですか? TVドラマ「ギフト」(私は見てませんが)をめぐってのお話で、人気者がナイフを持っていることが、TVや人気者のもつ影響力をわきまえないことだ、と批判されていますが、ある表現が影響力をもつことって、そんなに悪いことなんですか? なんだか昨今の議論を聞いていると、憲法上保護される表現というのは、上品に、他の人に影響力を与えずに、つつましやかに・ひそやかに行われるもの、しかも、多くの人に(できれば、あらゆる人に)喜ばれるものに限られる、といわんばかりの御説がまかりとおっているようです。しかし、「表現の自由」というものが「その程度のシ
⇒いくつかの失望と怒り - いまだに落ち着きのない三十路(アラフォー) から、id:T-3donさんのコメント。 差別の受容と文脈に関しては、sk-44@地を這う難破船さんも論じていますね。正直、地下猫さんの論との差異が何処で生じるのか今一つよく解らない(からブクマコメントできない)んですが、この後明らかになるのではないかと期待を持っています。いまだ回り道の途上である、と私は考えますので。 ごく簡単に言うと。表現、というのは社会通念のコードに対する異議申立としてある。社会通念のコードをそのままなぞってしまうなら、それは表現ではない。表現論的にはそうなります。無自覚になぞってしまうならそれは素人だし、自覚的になぞってみせるならそれはプロの仕事です。プロの仕事とは、商業ということです。そして、そもそも社会通念のコードが(性差別に限らず)差別的であるとき、その差別性を自覚的になぞってみせるプロの
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