なぜ松本人志はこれほどまでに神格化されるのか
2025年11月1日21時。大きな話題を呼んでいた有料配信サービス「DOWNTOWN+」(以下、「ダウンタウンプラス」)がスタートした。久しぶりに公の前に姿を現した松本人志による生配信。1人でのフリートークから始まり、途中からは進行役とともにオリジナル企画の紹介、そして今後の構想へと話は進み、約1時間の配信を終えた。
サービスは始まったばかり。その成否については差し当たって成り行きを見守るしかないが、生配信で話した内容や配信中のコンテンツ、さらにこれまでの松本の軌跡などをもとに、「松本人志の笑いは変わるか?」という点についてここで考えてみたい。
生配信の松本は、性行為強要疑惑報道をきっかけに2年近く表舞台から姿を消したことによって「笑いの空白」が生まれたことに責任を感じているようだった。
そこには、1980年代後半から30年以上のあいだ、テレビを拠点にお笑いの世界を引っ張ってきたという強烈な自負がある。
松本人志という存在が、なぜここまで神格化されるのかよくわからないというひともいるだろう。過去、さまざまな人気芸人が存在した。だが、なぜ松本人志だけがここまで崇拝される対象になったのか。
他の芸人との決定的な違い
「ダウンタウンプラス」の企画「7:3トーク」のゲストだったシソンヌ・長谷川忍も、「我々は松ちゃんの宗教に入った人間」と言ってはばからなかった。
それは、松本人志が世のすべてのものの頂点に「笑い」を置き、かつそれを実践したからである。普通プロのお笑い芸人であっても、これは笑いにしてはまずい、あるいはできないと考えるテリトリーがある。だが松本は、その線引きをすべてなくした。要するに、「笑いにならない」と思われたものもタブーなしに笑いにしたのである。
『ダウンタウンのごっつええ感じ』(フジテレビ系、1991年放送開始。以下、『ごっつ』)のコントを思い出せば、納得できるだろう。たとえば、「キャシィ塚本シリーズ」。
松本が扮する料理講師のキャシィ塚本がテレビ番組で料理をつくる。だがつくっているうちに興奮し始め、異様で支離滅裂な言動を繰り返し、果てには食材も調理器具もなにもかも無茶苦茶にして去っていく。パロディをはるかに超え、一種狂気をはらんだ暴力的なコントだった。

