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底本には仙台叢書第一巻奥羽軍記所収(寛文二年の印本)を使用した。 読み辛いので原文にはない段落を付... 底本には仙台叢書第一巻奥羽軍記所収(寛文二年の印本)を使用した。 読み辛いので原文にはない段落を付け、番号と小見出しを付した。 誤訳を発見した時には、ご一報願いたい。 2012年6月吉日 奥州後三年記序 わが国の朝廷に文官と武官の二つの道があり、互いに助け合って政治を行ってきた。仏教にも「顕教」と「密教」の両宗があり、それぞれの教えを護持している。 このことは優れた天子様の現れた明るい時代の大事業を発端として、神仏が姿を現したといえないこともないであろう。 わが国の神武天皇より五十六代に当たる清和天皇に御子貞純親王の六代目の子孫に伊予守源頼義殿が居られた。さてその長男が陸奥守義家殿である。通称八幡殿と言われた。 この八幡殿が、堀川院の御代である永保三年(1083)に、陸奥守として奥州に赴任された。ここには、陸奥の奧六郡を領するようになった鎭守府将軍清原武則の孫である武貞(荒河太郎)の息子真
2024/04/17 リンク