孫呉政権に於ける孫・陸抗争の真偽 本ページは、学習研究社編集部の許可を得て、『真・三国志』第3巻、... 孫呉政権に於ける孫・陸抗争の真偽 本ページは、学習研究社編集部の許可を得て、『真・三国志』第3巻、(平成10年10月出版)から転載するものである。 反魏か順魏か 1、孫・陸対立の実態 終わりに 反魏か順魏か〜無定見の中の定見〜 建安五年(二〇〇)、兄孫策の不慮の死を受けてその跡を継ぎ、曹操から討虜将軍・会稽太守に任じられた孫権ではあったが、当時実質的に孫氏が支配下に置いていた地域は、僅かに会稽郡・呉郡・丹陽郡・豫章郡・廬陵郡の五郡に過ぎず、しかもこの域内の人々が全て孫氏に服従していた訳ではなく、特に山岳地帯に居住する山越と呼ばれる少数部族は、孫氏の支配に強行な抵抗を示していた。 因って孫権がすぐさま着手せねばならなかった仕事は、対外的には武将を派遣して各地で抵抗する山越部族の討伐であり、内政的には兄孫策から受け継いだ官僚以外に己自身が直接徴辟登用した孫権直属の家臣団を作り上げること
記事へのコメント0件
このエントリーにコメントしてみましょう。
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています