F-101
えふいちまるいち
昔、アメリカ空軍には戦術空軍(TAC)と戦略空軍(SAC)のふたつがあった。
戦術空軍は戦闘機を主体として戦場防空・対地攻撃を任務とし、戦略空軍では爆撃機を中心に戦略爆撃を目的とした。後に戦略空軍にはICBMが配備され、こちらの管理も担当することになった。
さて1940年代後半、戦略空軍は長距離にわたって爆撃機を護衛できる戦闘機を求めていた。この目的に対してマクドネルが出品したのが「XF-88」で、これは本機に発展する「もと」となる。対してロッキードは「XF-90」を出品し、こちらは既存のF-80から発展した機である。
これは『侵攻戦闘機計画』と呼ばれ、
- 1500マイル(2400km)の行動半径(のちに900マイル、1400kmに下方修正)
- 15000ポンド以下の重量
- 護衛が主任務だが、限定的ながら対地攻撃も可能。
といった要求であった。
XF-88は1948年10月20日に初飛行し、XF-90よりも高い性能を示した。だがB-36の維持経費がかさんで他の予算を圧迫し、侵攻戦闘機計画は1950年9月に中止となり、XF-88も2機の試作だけで終わった。
戦略空軍の侵攻戦闘機としては予算に『撃墜』されてしまったXF-88だったが、時代からは見捨てられてはいなかった。
1951年、戦術空軍は『長距離戦闘機計画』を開始。
マクドネル社ではXF-88を大幅に改設計したF-101を提出した(そのころリパブリック社はF-105を提出していた)。これは『核爆弾1発を搭載して敵地深くに高速で侵入する』という目的があった事、そして防空軍団(ADC)はF-102に代わる長距離要撃戦闘機を求めていた事がある。最高速度ではマッハ1.7を記録しており、両方とも大いに期待が寄せられた。
ところが、ここまでの性能を示しながらも活躍は地味だった。戦闘爆撃機はF-105が本命で、F-101は保険とされていた。最大速度や搭載量では見劣りしたのが要因である。
さらに戦闘機としての設計にも問題があった。T字尾翼の採用をはじめ、元々迎撃機に近く設計してあり、一撃離脱の迎撃ならとにかく旋回戦闘には向かなかったのだ。ベトナム戦争では、高速性能を生かして偵察機に使われるだけに留まった。
ただし、いくら高速でも敵地を単独で突破する事には危険が大きく、実に31機が対空砲火で失われている。撃墜された機がこれだけあるという事は、損傷を負いながら辛くも帰投した機(もしくは修理不能と判定された機)はもっと多いという事でもあり、あまりに消耗が激しかったので州軍(ANG)配備の機体までかき集めて運用されている。
この穴埋めには戦闘爆撃機として使われなくなった機体が送られ、F-101A/CがRF-101G/Hに改造されて運用された。
このように戦闘爆撃機として期待はずれとなってしまったF-101だったが、最も長命だったのはF-101Bである。これは複座(二人乗り)の迎撃戦闘機で、AIM-4を機内と機外にそれぞれ2基搭載する。前はパイロット、後ろにレーダー手が搭乗し、協同で迎撃任務にあたる。
F-106に対し、F-101Bはとくにアラスカ向けに配備された。アラスカは本土防空システム(SAGE)が手薄な地域であり、探知や誘導にはどうしても人間の力が必要とされた……というのが予算を請求する空軍の説明である。
また、F-101BはCF-101Bとしてカナダ空軍にも採用され、アラスカの防空部隊と共に1980年代まで主力を務めている。
同じ年にF-104が初飛行し、最速記録は早くも打ち破られてしまった。さらに続くF-105は戦闘爆撃機としての能力が高く、ここでもF-101を打ち負かした。
F-101の登場は『空振り』に終わってしまったが、マクドネル社は続いてF4H-1を海軍向けに開発し、一大戦闘機メーカーとして名を馳せるのである。
F-101A
1954年初飛行、1957年から配備が始まった最初の型で、核爆弾のみを搭載して開幕即必殺を狙う戦術空軍向け戦闘爆撃機型。当初のコンセプト通りにスピード・パワーに優れ、当時の世界記録をいくつも塗り替えた。
しかし空軍にとってはより重装備のF-105が本命であり、このF-101Aは77機生産されるに留まった。のちにベトナム戦争でRF-101Cの損害が増えてくると、内29機がRF-101Gに改造されて配備された。
武装は20mm機銃ポンティアックM39を4挺、B43やB57などの核爆弾を1発のみ搭載する。のちにTACAN航法装置が追加されたため、M39を1挺取り外してスペースを確保した。
RF-101A
初飛行前から要求されていた偵察機型で、機首の設計を大幅に変更してレーダーFCSを廃し、そこへ最大6台の偵察カメラを搭載する。軽量化のため武装は一切無く、スピードにパワー、そしてECMジャマーの力で「自衛」に替えている。試作機2機、生産型35機が完成。
レバノン危機(1958)やキューバ危機(1962)で実戦投入された他、1959年には8機が台湾空軍のテイで中国本土強行偵察を実施している。
F-101B
防空軍団向けの迎撃戦闘機型で、強力なレーダーを備え、またレーダー手も同乗できるよう大幅に改造されている。
武装は場所こそ変わらないものの、20mm機銃が4発のAIM-4に置き換わっている。
これは、一見ではF-4などで見慣れた半埋め込み式ミサイルベイのような恰好をしているが、ベイ底部が「どんでん返し」の要領で次のミサイルがせり出してくる「回転式ミサイルベイ」という機構になっている。初期にはAIM-4A(赤外線誘導式)とAIM-4B(セミアクティブレーダー誘導式)を組にして搭載しており、後にミサイルベイの片側をAIR-2「ジニー」核対空ロケット弾に対応するよう改造を施した。
F-101Bは479機というシリーズ最多生産型で、うち112機はカナダ向けにも輸出された。「防空用」なので前線では運用されず、常に設備の整った飛行場で運用されていたので傷みが少なく、現役期間も長くなった。最新鋭でなくなったF-101Bは州空軍にも移管されて、1982年まで運用が続いていた。
F-101C
F-101Aと同じく、1957年から運用の始まった改良型で、F-101Aの機体耐荷重が想定を下回った事から、構造強化によって解決を図った型。これで500lb(約230kg)重量が増し、7.3Gもの加速度に耐えられるようになった。同じく、燃料系に手を加えてアフターバーナーの使用時間を延ばし、核爆弾に加えて増槽も吊架できるよう搭載架が追加された。
武装は、F-101Aと同じく20mm機銃ポンティアックM39が4挺、核爆弾1発。
主にワルシャワ条約機構軍へ対抗すべくヨーロッパ方面に配備され、F-101Aとは混成で運用されていたという。47機生産。のちに32機がRF-101C規格に改造され、RF-101Hとなる。
RF-101C
F-101C規格の偵察機型で、こちらは核爆撃能力を残してある。
このため生産166機のうち、96機はF-101Cとして発注されていた機をRF-101Cへ振り替えたものにあたる。
1961年から「軍事顧問団」がベトナムに派遣される一方、RF-101Cはタイへ展開してラオス・ベトナム方面への強行偵察に投入された。元来の高速性を活かして、高高度を高速で通過する強行偵察飛行に活躍したが損害は大きく、33機が失われている(他に運用損失として6機、計39機)。この損失の穴埋めに、既に州空軍向けに引き渡されていたRF-101Cが引き抜かれてベトナムへ投入され、その穴埋めの穴埋めにF-101A/CからRF-101G/Hへ改造して引き渡されている。