三重県松阪市の老舗駅弁屋「あら竹」の「モー太郎弁当」は、東京で女優を目指していた新竹浩子さんが作った、全国的にも大人気の駅弁だ。BSE騒動やコロナ禍などの窮地を乗り越えて、あら竹の駅弁はどうやって愛子さまの旅のお供に選ばれるまでになったのか。フリーライターのみつはらまりこさんがリポートする――。(後編/全2回)
「あんた、社長やるかな」消去法で社長に
女優を志し上京するも、25歳で見切りをつけて三重県松阪市へUターンした駅弁あら竹の新竹浩子さん。家業では雑用係から始め、BSE騒動による売り上げ10分の1という危機を「モー太郎弁当」で乗り越えた。
しかしBSE騒動と同じころ、あら竹には、もう一つの危機が訪れていた。
父・日出男さんの腎臓機能が低下し、週3回の透析が必要になったのだ。さらに専務で長男の信哉さんは何万人に1人の難病を患い、一時は命の危険もあった。ふたりの体調不良が重なって、取引先や銀行の視線が少し変わったことを浩子さんは感じていた。
ある日の夕食の席で、日出男さんから「あんた、社長やるかな?」と、聞かれた。理由は語らない。
浩子さんは驚いたものの、状況を俯瞰していた。次男は銀行員、三男は当時運営していたドライブインの販売と調理の責任者、四男は経理でまだ若い。一方、浩子さんは取引先との面識もあり、広報として駅弁ファンから認知され、新商品を作った実績もある。
「弟の病を思えば、私しかいない」
こうして浩子さんは48歳で代表取締役社長に就任。この選択があら竹を次のステージへと導くことになる。

