800mが埋められないJRと京急の溝
大田区は羽田空港を擁し、中心繁華街である蒲田は「東京の玄関口」として認識されている。しかし、この玄関口には致命的な欠陥がある。中心となるJR・東急蒲田駅は、羽田空港と鉄路で結ばれていないのだ。
羽田空港と鉄道で接続する京急蒲田駅と蒲田駅は、わずか800メートルしか離れていない。しかし、この800メートルが、70年以上にわたって埋まることのない溝となっている。乗客は今日も、重い荷物を引きずりながら10分の徒歩移動を強いられる。
実は、かつてJRと京急が線路で結ばれていた時代があった。戦後、羽田空港を接収していたGHQは、物資輸送のために現在のJR線から分岐し京急と接続する線路を敷設していたのである。皮肉にも、占領軍のための貨物線として、蒲田と羽田は確かに「直結」していた。
しかし、この線路が旅客化されることはなく、接収解除後にあっさりと廃止された。以来、蒲田は「つながりそうでつながらない」空港玄関口であり続けている。
戦前からあった幻の鉄道構想
羽田空港の歴史は、1930年に逓信省航空局が飛行場用地として土地を購入したことにはじまる。こうして建設された飛行場は「東京飛行場」として命名され、1931年8月31日に、日本航空輸送が、大連行きの一番機を飛ばしている。この時は乗客はおらず、会社は苦肉の策で松虫と鈴虫約6000匹を積み荷として運んだとされている。
その後、各新聞社などが格納庫を設置、次第に定期便は増加していった。とりわけ1932年に満州国建国後は、大陸との貨物需要が増大、1939年には空港敷地を拡張し、3本の滑走路が建設されている。
こうした中、将来の需要増を見越して、都心と連絡するための鉄道構想は早い段階で立ち上がっている。1931年3月には民間の羽田航空電鉄という会社が蒲田~穴守間を懸垂式モノレールで接続することを構想し、鉄道大臣に免許を申請している。
しかし、当時はモノレールが実績の少ない技術だったことに加えて、京急穴守線と競合することが問題となり、申請を却下されている。
そのまま、戦前に羽田空港に鉄道が建設されることはなかった。


