製作:古賀プロダクション 企画:国際観光振興会 1972年 カラー 11分 日本の着物の特色は、豊かに変わる自然を巧みに取り入れて、柄としている。日本の風物を背景として、着物と日本女性の風情を映画詩としてうたいあげた音楽映画でもある。
『TALKING TO THE DEAD』(写真:Aya Watada、蛙企画)より【時事通信社】 青森県に今も残るイタコの姿を追った写真集が出版されました。亡くなった人や霊と交信する口寄せという形態から「怪しいもの」と思われがちですが、地域にとっては悩みを聞いてくれる心理カウンセラーとしての役割も大きかったとされています。このイタコの写真集を企画した意図、そしてイタコという存在への思いについて写真集を企画・出版した蛙企画(東京)の篠原匡さんに寄稿していただきました。 ◇ ◇ ◇ 『TALKING TO THE DEAD』(写真:Aya Watada、蛙企画)より【時事通信社】 読者のみなさんは「イタコ」という言葉を聞いて何を思い出すでしょうか。「死者の口寄せ」や「恐山」、あるいは「胡散臭い」というイメージを持つかもしれません。それでは、イタコが絶滅の危機に瀕しているという現状はご存じ
祝福芸 『万歳』は字義通りにとれば万年で無限と同義と言って良い。万歳という芸能は無限に続く祝福を授けるという意味の芸能だ。起源は中世に確立した『千秋万歳*1』だろう。同じ万歳の語が含まれている。こういう目出度い言葉を延々と連ねて祝福を授ける芸能は『祝福芸』とよばれている。祝福芸の起源は古く門付芸で乞食の一種でもあった。コトバンクには以下のようにある。 しゅくふくげい【祝福芸】 祝福の唱え言や言い立て,ほめ詞などを内容とする芸能。古代には〈ほかいびと〉(ほかい)と呼ばれ,家々の門(かど)に立って祝言を述べ,その代償として物を乞う存在があった。中世になると千秋万歳(せんずまんざい),物吉(ものよし),松囃子などといった祝言職が現れ,年の初めに禁中や諸寺,諸家に伺候して祝福の芸を演じ,また村々をめぐり歩いた。江戸時代になると祝言職の種類がさらに増え,万歳,節季候(せきぞろ),うばら,つるそめ,え
真室川祭りでの真室川音頭によるパレードの様子(2008年) 真室川音頭(まむろがわおんど)は、山形県最北部に位置する真室川町の民謡である。1950年(昭和25年)にレコード化され流行唄となった[1]。 現在でも町の各行事で歌われ、同町では真室川音頭の全国大会も毎年開催されている。 元唄は明治時代、北海道東海岸方面で流行した作業唄「ナット節」(罐詰所節)であったとされる[1]。 大正時代になり、町に鉱山が開発され(現在は廃坑)、大日本帝国陸軍真室川飛行場の建設工事が始まると、全国から集まった出稼ぎ労働者達の間で、「ナット節」の歌詞を卑猥に改変した「真室川花電車」が歌われるようになった。 一方、これとは別に、真室川出身で宮城県女川の料亭で働き、後年、真室川に戻った近岡仲江(ナカヱ)が、やはり女川で習った「ナット節」を「山水小唄」に改変し、真室川の料亭で歌っていた(通常は、近岡ナカヱが起源とされ
陰陽師が邪気を払い除くため呪文を唱え大地を踏みしめ,千鳥足に歩む呪法。三足,五足,九足などさまざまの種類がある。平安朝以来天皇・将軍など貴族の外出にあたって多く行われ,悪い方角を踏み破る意味があるという。土御門(安倍)家の秘法では反閇のとき燃灯し,水,米,大豆,ゴマ,アワ,麦,酒,生牛乳などを用意して散供(さんぐ)を行う。平安朝,陰陽道の進出につれ,日本古来の鎮魂の作法が反閇と習合し,神楽が芸能化する中世にはそれに伴って反閇も《翁》《三番叟》《道成寺》など猿楽にとりいれられ,乱拍子(らんびようし)などとも呼び,祝福的意味をもつようになった。神楽などでも反閇を踏むことが行われる。 反閇を禹歩(うほ)とも呼ぶのは,昔禹が水土を治め,山川を歩くこと10年でそのため足を傷め満足に歩けなかったという由緒に基づくもので,古代中国の巫術として一方の足をひきずって歩くような形の呪法があったことから付会した
建築エコノミスト 森山高至「土建国防論Blog」Powered by Ameba マンガ建築考の森山高至が「たてものと生活と社会と文化」を考えています。 twitter始めました。https://twitter.com/mori_arch_econo 連絡先は moriarchecono@gmail.com 幕末に撮影された江戸の風景、西洋人も驚嘆した美しい甍の波 なぜ本命なのかというと、いつもこの話題で引き合いに出している建築デザイン系の住宅雑誌で調べてみても、ここ数年間の設計事務所案件の約300件ほどの中に瓦を使用した建物が存在しないからです。 また、瓦を屋根につかった建物を設計したことがないという若手建築家が全体の8割を超えているからなのです。 これ、異常事態だと思いませんか。 たとえば、刺身を切ったことがないという若手料理人とか たとえば、着物を着たことがないというブライダルコーデ
和歌山市立博物館曰く、 緊急事態宣言の解除後は「マンボウ」を発動することもあるようですが、「マンボウ」とはまん延防止等重点措置のことで、当館の「疫病除けマンボウ」のことではありません。 当館の「疫病除けマンボウ」は一旦役目を終え、21日に収蔵庫へ戻ります。#疫病退散 #新型コロナウイルス #マンボウ pic.twitter.com/GASgcVsS6m— 和歌山市立博物館 (@w_city_hakubuts) 2021年3月19日 理由はわかりませんが、昨日から急に数多くの要望が寄せられたため、4日から再び「疫病除けマンボウ」を展示します。なお、繰り返しになりますが、当館の「マンボウ」は、まん延防止等重点措置のことではありません。ふざけた雰囲気もありません。#疫病退散 #新型コロナウイルス #マンボウ pic.twitter.com/k1S8KuCHvp— 和歌山市立博物館 (@w_cit
【3月18日 Xinhua News】中国青海省(Qinghai)玉樹チベット族自治州(Yushu Tibetan Autonomous Prefecture)称多県出身のニマ(尼瑪)さん(40)は、有名なチベット建築の大工だった父親の影響で、幼い頃から伝統的なチベット式の建物に強い関心を抱いていた。 2010年の玉樹地震でふるさとの多くの家屋が損壊した様子を見て、伝統的なチベット式の村落や建物を保護することが急務だと感じた。家屋の再建が始まると、通天河(つうてんが)流域にあるチベット族の伝統村落を保護する活動に積極的に参加するようになった。 15年に「玉樹古建築保護協会」を設立し、三江源(長江、黄河、瀾滄江の源流)地区に分布する100以上の古村落を調査。場所やレイアウト、装飾の特徴、風俗・習慣などの基本情報をまとめた資料を作成したほか、観光地として「古村落生活体験区」をオープンする手助け
『福井新聞』の記事; 伝承のカッパ銅印、何て書いてある? 敦賀市の寺「誰か解読して」 2021年2月20日 午前7時20分 妖怪のカッパから贈られたと伝わる印鑑が、福井県敦賀市の真禅寺で長年保管されている。「川太郎の銅印」と呼ばれる銅印で、水難よけの御利益があるとされる。ただ、掘られている文字が何なのかはっきりしないため、これまでに多くの人が解明しようと挑んだがいまだ分からないまま。前住職の平吹宣夫さん(77)は「何とか解読できないだろうか。やはり何と書いてあるか知りたい」と今後、解読者が現れるのを期待している。 銅印は印影が4・5センチ四方の角印で、高さは3センチあり持ち手部分が竜の形になっている。1954(昭和29)年に同寺の近くに住んでいた男性が寄進したという。先々代の住職が銅印について熱心に調べ、まとめた資料には、ある書物にこの銅印にまつわる物語が載っていると書かれている。 資料に
2度目の「白い大文字」を報じる1944年8月17日の京都新聞の記事。「送り火は若き力で」の見出しとともに、写真も掲載された 京都の盆の伝統行事、五山の送り火は、太平洋戦争中の1943年から3年間、灯火管制や薪(まき)の不足で中止を余儀なくされた。代わって早朝の如意ケ嶽に浮かび上がったのは「白い大文字」。途絶えさせまいとする地元住民の呼び掛けで、小学生たちが人文字で描き出した。 43年8月17日付の京都新聞には「山腹にパッと白の大文字咲いて」の見出しが躍る。当時の模様を「白シャツ姿の第三錦林国民学校の4年生以上四百と一般参加の市民たち」計800人が「エッサエッサと如意ケ嶽の朝露を踏んで登坂」したと報じている。 当時6年生だった、田中道子さん(88)=宇治市=、足立美津子さん(88)=同=、豊田恵美子さん(89)=京都市西京区=は「先生に白い体操着を着て登りなさいと言われた」と振り返る。夏休み
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