はてなキーワード: 中学生とは
さっきトラバした人だけど、ググりにAI回答が自動でついてくる世の中になって以来、
はてな人力検索サービスの質問が、いよいよ低レベルになっちゃってるのちょっと面白い。
一回ググればちゃんとしてるっぽいAI回答がどんなものにもついてくるのに、
本当にググりすらつかいこなせない、自分の本来の質問をつくれない人だけが来るようになってて逆におもしろい。
昨日突然みにいったら「どういう心理でしょうか」さんとか
かなりもやついてるんだろうけどうまく言語化できないんだろうね)、
いまどきめずらしい生の困惑が楽しめる……
なんかはてなは実質小数の人達が何年も同じ話題している印象がある。増田もなんだかんだいって不毛なセックスとジェンダーの話ばっかりしている。何年もやっているわりには進歩がなくて中学生の童貞みたいなこと延々と書き込んでいる。キンゼイレポートとか奈良林祥とかドクトルチエコとかアダム徳永とかを経ても全然進歩がない。でもときどき恋愛工学みたいなモダンシステムの断片が持ち込まれる。
叱ると、怒るは、違うからさ。
叱るというのは相手のためにやることで
7年前、東京。地下かどこかの喫茶店で、デザイナーのHさんと打ち合わせをした。
自分が企画した仮設の公園シリーズのデザイン制作物を依頼する場だった。
まだ若くてバカだった当時の自分は、「A3サイズで世界を変えよう」と笑いながら真剣に言ったのを覚えている。鼻息でストローの袋を吹き飛ばした気がする。
その後に作ったA3のフライヤーは、原稿の渡し方もイメージの共有もめちゃくちゃで、散々迷惑をかけた気しかしない…。でもHさんは最高の納品物をつくってくれた。
それからあちこちでHさんのデザインを目にするたびに(先日も実家近くの本屋で見かけた)、あの狭い喫茶店で口にした言葉を思い出す。
Hさんはあれから、マジでA3サイズで世界を少しずつ変えてってると思う。
「どうして“哲学対話”という名前を使うんですか?難しそうだとか、参加に身構える人もいるかもしれないのに」と尋ねた。
Nさんはいろいろ考えた末に、「なんか…ムカつくんすよね」と言った。
哲学と、対話という言葉の意味を新しく上書きするために、あえてこの名前を使うんだって話してくれた。
今の自分は、どうだろう。
「ムカつく」という言葉を聞いて、久しくその感覚を忘れていたかもしれないと気付いた。
どうせ何も変わらないと思って、絶望してたんだと気付く。ぜつぼうって、Zから始まる強い響きの言葉だけど、耳がキンとするほど静かで、うっすら気付きながら置き去りにして、気付けばゆっくり死んでいるような絶望もある。
思い出すと自分も「A3で世界を変えよう」と言ったあの頃、世界に対してムカついてた。
少し前、自分は臨時職員だった。アートと教育に関わる仕事。給料は月13万円。
でも求められる仕事の内容は変わらない。自分が足りないから倍以上頑張るしかないんだ。
「アーティストやクリエイターとつながっておくのが大事だ」と教わりつつも、飲み会に行くのが怖かった。行ってもバカにされるだけ、雑にいじられて否定されて、3000円払っていやな思いをするだけだと思ったから。
それでも「今日は違うかもしれない、大丈夫かもしれない」と信じてみる。
先にコンビニでおにぎりとホットスナックと缶ビールを胃に詰め込み、遅れて飲み会に顔を出す。結果「やっぱりカタパンはダメだな〜」と何かのきっかけでバカにされ、ヘラヘラしながら5000円払わされ、真っ暗な帰り道で涙がつっとこぼれそうになる。今思えばもっと自己開示すべきだったのかなって思う。でもあの時の自分は、自分を守るのに必死だった。
同じ部署の臨時職員同士で競わせられ、蹴落とし合う日々。毎日どんどん嫌な自分になる。
それは素晴らしいことで、自分は今日も帰れない。自分は常に欠けていて、仕事ができないからしょうがないんだ。自分も子どもを育ててみたいという気持ちをこんな手取りじゃ絶対無理だとグッと押し殺し、上司に嫌な感情を向けてしまう心に嫌気がさす。
「カタパンの説明は下手すぎる」「カタパンは才能がない」「カタパンは惜しいんだよな」「タレ(当時付き合っていた彼女)と結婚してさっさと仕事やめたら?」「カタパンのタレはメンヘラだよな」「それ俺が考えたことにして。そっちのほうが絶対うまくいくから」「カタパンが考えることは全て、もうすでに俺が考え終わったことだよ」「カタパンは、ソーシャル・ネットワーク(映画)の、ザッカーバーグじゃない方なんだよ。自分が考えたことも上司がうまいところを持っていく。そういうのってこの業界じゃ当たり前だから。」「カタパンはエモいからな〜」「カタパンは伸びしろがない」「泣くのはプロじゃないよ」「カタパンもう◯歳でしょ?いい加減大人になってほしいよね」
大学1年生のころ、そのアートセンターでやっていたノイズミュージックのライブを初めて聞いて衝撃を受けた。
退屈してて何もないと思っていた、都市ってつけるのがおこがましいくらいの地方都市で、爆音の圧に内臓が揺れる。初めて音に殺されるって思った。
こんなこと公共施設がやっていいんだ。そのアートセンターで働くことに憧れた。
そこには市民の有償ボランティア制度、サポートスタッフがあった。入りたいと思った。
でも1年生でサポートスタッフになっても、きっと自分は他の人に埋もれてしまうと思い、いろんなアルバイトを経験した。
3年生になって、ようやく少し自信を持って、サポートスタッフに登録する。
“カタパン”は、サポートスタッフを始めた初日、教育普及の職員に付けられたあだ名。
理由は、肩パンしても大丈夫そうなキャラだから。嫌なあだ名だったけど、あだ名を付けてもらえたことに喜んで、自分は否定しなかった。
ようやく入った憧れの施設では、地元の人やサポートスタッフを蛮人と呼んでる人もいた。
もちろん冗談で。冗談なんだから否定するのは粋じゃない。自分は一緒に笑った。
自分も笑われているのに。
どんなに嫌なことがあってもそのアートセンターに憧れたあの時の気持ちは捨てられないし、どこかで全員尊敬できたし、すごく優しい人もいる。
周りの誰も憎めずに、自分を責め続けた。心配してくれた人の言葉を、自分は大丈夫ですよとヘラヘラ聞き流した。
周りを変えることよりも自分を責めることの方が楽で、でもずるくて、いざ失敗したら周りのせいにしてた自分もいる。この文章だってそうかもしれない。
自分は自分のそういうところがめっちゃ嫌い。だからこの文章をここに書き残しておく。
ダサいことも、痛いことも、全部置いておく。
今は常勤職員になってしばらく経ち、生活も少し安定するようになった。チームが変わり、すごくいい仲間に恵まれて、痛みを感じることを言われることも少なくなった。安心できる場所をつくることが出来た。年下の後輩も入ってきて、それまでリーダーをやってくれてた同僚が抜けることになった。
常勤職員から、副専門職員になる試験を受けたら、普通に面接で落ちた。
付き合いの長い上司から、あなたに専門性はないですって諦められたみたいで悲しかった。
たしかに自分はまたヘラヘラして、自分の言いたいことを伝えられなかった。
伝えることを諦めてしまった。そんな自分が悔しくて、その夜電気を全部消して泣いた。
今の自分は、どうだろう。
昨日『104歳、哲代さんのひとり暮らし』という映画の感想を語り合う場所を開いた。これは一昨年の暮れから、だいたい毎月4回くらいやっている。休憩がてら立ち寄った人たちとお茶やジュース(ミルクティーが人気)を飲みながら、映画の印象に残った場面を話すうちに、みんなそれぞれ自分の過去をぽつりぽつりと思い出して語り始めたりする。昨日も15人くらい来てくれた。
コロナ禍の入院で、本当は会いたかった人を病院の窓から見送った話。
離れて暮らす娘の早産を電話で励ますことしかできず、悔しかった話。
祖母が隔離病棟で亡くなる直前、看護師がつないでくれたLINEビデオで声をかけたけど、触れられなかった話。
「哲代さんは明るくてすごい。私は後悔ばかりだ」と84歳の参加者が漏らすと、別の人が「いまからでもイメチェンできる!84歳、あと20年ある!」と励まして笑い合う。
飲み物を継ぎに別のグループへ。「職員さんですか?」と聞かれたので簡単に自己紹介し、「楽しく働いています」と答えると、一人の女性が「…仕事はつらいですよ。人生はつらいですよ。」と自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
彼女は三人の子どもを育てるために、大好きだった介護の仕事を諦めたそうだ。
「介護の仕事は給料が低くて、今はレジ打ちなんかをしています。でも、本当は働きたい」そう言うと、彼女の目から涙があふれた。
彼女にとっての“働く”は介護であり、レジ打ちはやらなきゃ立ち行かなくなる”仕事”。
彼女は泣きながら、どんな場面を、人を、思い出していたんだろう。
そのタオルがすごく大きくて「いっぱい泣けるね」とふざけて笑い合う。
尊敬する館長がしばらく前に亡くなった。
自分は、館長の本棚にあった「公共の役割とはなにか」という本をもらった。
館長から出された宿題みたいに、その問いのことをずっと考えている。
まだ宿題の途中だけど、今館長に聞かれたら、
公共文化施設とは、みんなで人間らしさを取り戻す場所って答えたいと思う。
人生は一人で抱えるには重すぎる。いつか自分の足で立つためには、みんなで少しずつ荷を下ろし、身軽になる必要もある。何かを得るだけでなく、重くなった気持ちも置いていける場所。そういう場所が、自分はあってほしい。
それは捨てていくんじゃなくて、きっと誰かが聞いている。
誰かが誰かを覚えていると信じられるから、新しい自分になっても安心して息が吸える。
小学生がうちの施設に社会見学に来たら「メディア・テクノロジーは人にものごとを伝えるワザ。コンピューターやインターネット、映像、照明、音響とかいろんなものがある。そう聞くと、電源が必要とか、新しくてシュッとしてるとか、固くて冷たいものを想像するかもしれないけど、いまみんなに話しているこの言葉だってメディア・テクノロジーのひとつ。僕らはつい最新のテクノロジーに注目しがちだけど、僕らが生まれるずっと前は、この”言葉”だって最新のテクノロジーで、思ってることを人に伝えられるのやべ〜!ってなってたはず。もし言葉が喋れなかったとしても指差しをしたり、狼煙を上げてここにマンモスがいるぞー!って伝えてた。でも当たり前に使えていると思ってるものも、使い方を間違えると怪我したりする。
このアートセンターでは、メディア・テクノロジーを改めて広く捉え直して、ありたい未来や可能性(こんな使い方出来たんだとか、こんなふうに伝えられるんだとか、こうなるとヤバそうとか)をみんなで考えて、みんなでつくっていくために、全員まだ答えを持ってない新しいアート作品をつくったり、紹介したり、それをみんなで見る場、話す場を開いてる」って伝えてる。ともにつくり、ともに学ぶ場なんだって。
例えば映画の上映に合わせておこなうお茶会みたいなイベントは、小さな場所の小さな営みで、”オリジナル”みたいに威張れることはしていない。たまたま映画を見に来た鑑賞者同士が、なんとなく休憩しに立ち寄って、お互いの話を聞きあえる場を開いているだけ。でも、そこに来る一人ひとりは、とても大きな人生を背負っている。
昨日立ち寄ってくれた年配の2人組。
少し背の低い女性が「耳がほとんど聞こえなくなった主人が、この映画は見たいって言ったんです。だから字幕がなくても今日は来ました」と穏やかな声で教えてくれた。
これを見たいと思うことと、一緒に見る人がいるのめっちゃいいですねと伝える。そしたら突然その人がパートナーの耳元に向かって、自分がさっき言ったことを大きな声で復唱してくれる。(この人、こんな大きな声が出るのか)と内心びっくりする。
男性は嬉しそうに「そうなんですよ」と言って笑った。言葉があってくれて、でっかい声で伝えようとしてくれて、ここに来てくれて、聞いてくれて、ほんとによかった。
その場を見ようともしない人ほど「効率が悪い」とか「KPI」とか「来てない人を納得させないと」とか「ソーシャルインパクトが大事」とか「経営的な戦略が必要」とかって、ティーチ(一方的に教える)よりラーニング(自分で学ぶ)が大事と言う同じ口で、一方的に教えてくれる。
いや、なんかそうなんかもしれんけど、うっせ〜〜〜。
簡単に人をモノのように扱える人ほど評価される世界は絶対間違ってる。
世界を変えるって、トランプみたいに自分勝手に世界を掻き回すことじゃ絶対にない。
世界を変えるって、ひとりひとりが自分の力を思い出して、取り戻すことじゃないんかい。
この前ポッドキャストの収録で話したひるねちゃんは「手元をみよう 手元をみよう」と、祈るみたいに2回言った。
「人の心に反射したその光こそが作品。作品が光ってるって言うより、あなたの心に反射したものが光ってるんだよ。エネルギーを飲み込まないで発散できる自分でいたいな」と言いながら、最後の語尾は震えてた。
心が諦めてしまうと簡単に、ブラックホールとかベンタブラック(99.9%の黒)みたいに、どんな光も吸収してしまう。
収録が終わってしばらく経ったある日ふと、本当に信じてることは信じてるなんて言わないのに、信じたいって思うことほど信じてるって口に出して言うのは不思議だなと思った。
言葉に日光を浴びせるように外気にさらすことで、いつかほんとに信じられるものに変わるかもしれないから、僕らは信じたいことを口に出すのかもしれない。
先週も大学を訪ねたら「アートは自分には縁がないもの」と学生が匿名チャットで教えてくれた。おい、誰がアートをその子に縁がないものにしてしまったんだ。関係ないものなんて、本当はなに一つないはずなのに。おい、誰がそんなふうにしてしまったんだ。
でも自分もアートに関わる仕事をしててそう感じさせたうちの一人でもあるかもしれないからそれはごめん!もう一度やり直したいからチャンスがほしい。そんな悲しいこと言わないでよ、寂しいじゃんって思う。
あームカつくな。ムカつくし、ムカつくという感情を思い出せたのが嬉しいな。
ムカつくの前には悲しいな、とか寂しいな、があるな。ムカつくのにも、悲しいなとか寂しいなを反射させる力が必要なんだな。
自分は小さな空間で、人が変わるまぶしい瞬間を何回も目にしてきた。
たしかに自分の文章はまだまだ分かりづらくて、曇った鏡みたいなものかもしれないけど、本当はもっともーーーーーっとすごい。まじ伝えきれね〜〜〜〜って思う。
それでも自分も、反射できる自分でいたいと思うからこの文章を書き残しておく。
昨日の朝、映画を見る前、教育学部の授業に自分が働くアートセンターの紹介をしに行った。
朝一の貴重な40分をもらって全力でプレゼンしたあと、先生がブラインドトークのワークショップに参加させてくれた。
10人が3チーム、絵を見て言葉で伝えるチームと、その説明を聞いて絵を書くチーム、そのやり取りを観察するチームに分かれる。
5分間で出来上がった絵は、答えに近い人もいれば、まあまあ遠い人もいる。
その後のフィードバックの時間は、こう説明すれば良かった、こう質問すれば良かったなどの意見を交わす。
右から1/3の位置に〇〇があるみたいに数字を入れて伝えるとか、全体の雰囲気やテイスト(イラストなのか写実的なのかなど)を伝えてから具体的な描写を伝えるとか、一番大事なこと(なにを伝えたい絵なのか)に絞って伝えるとか、いろんなアイデアが出た。
どれもすごい大切だって思ったと同時に、自分はなんかもう、最強だな〜〜〜って思った。
最強って、いまめっちゃ強いとか、いまめっちゃ説明が上手とかじゃなくて、変われるってことだと思った。伝えようとしてる人がいて、聞こうとしてる人がいる。もうそれで十分じゃん。言葉が足りなきゃ付け足したら良いし、分かんなかったら聞けば良い、言い直したらいい。
ほんとは完璧なコミュニケーションなんてなくて、伝えたいとか聞きたいとか、それを諦めずに関わろうとし続ける限り、うちらはもっと強くなれる。もしかしてそれを教育と呼ぶのでは?!みたいなことに気づいて驚きながら言った。
みんないい姿勢で、まっすぐ聞いてくれた。おい、まぶしいな。ありがとう。
先生にお礼のメールを送る。あの子達が4年生になるのが楽しみですねって伝えた。ここには書かないけど、嬉しい返信が返ってきた。また会いたいな。学生も先生も全員サポスタに登録して欲しい。
同僚のNさんとサポスタ募集の打ち合わせしたら「うちらがやってることは、誰に見せても恥ずかしくないから本当はターゲットなんてない。ターゲットは全人類、死んでるやつも、これから生まれてくるやつも。ひとまず50億人全員サポスタに登録してもらおう。」って話してて爆笑しながら超グッと来た。絶対そうなった方がいいしやっぱ最高だなこの人って思った。
トランプも、ゼレンスキーも、オバマも、プーチンも、ネタニヤフも、オードリー・タンも、石破茂も、議員会館の地下で迷子になってる秘書も、海を渡ってきた難民も、夜勤明けでレジを打つコンビニ店員も、介護の夜勤でウトウトしてる人も、野良猫を拾ったけどなかなか懐かなくてすこし懐いてくれて安心したら実は腎臓病が進行してて休日は暴れる猫を連れて動物病院に通う新入社員も、推しのVtuberにスパチャしすぎて家計簿が真っ赤な人も、好きな人と一緒になれなくて家で一人で泣いている遠距離恋愛のカップルも、育休取りたくても言い出せない課長も、同性婚を夢見るカップルも、初めてステージに立つ前に鼓動が早くなってるドラァグクイーンも、卒論提出3時間前の大学5年生も、家の外に出る勇気が湧かないひきこもりも、声を出すと噛んじゃう吃音持ちも、白杖を持った視覚障がいランナーも、手話でコントをやる芸人も、補聴器の電池を切らしたおばあちゃんも、手足のないスケボー少年も、車いすで山道を攻める登山家も、PTSDに苦しむ帰還兵も、大学の講義室で聞いてない学生に向けて伝えることを諦めようとしてる教授も、モテることとサボることと遊ぶことと就活で頭がグチャグチャだったあの頃の自分みたいな大学3年生も、収容所で自由を夢見る政治犯も、その看守も、裁判で涙を流す加害者も、被害者も、サウナで “ととのい” を追い求める会社役員も、離島で保育士を探す町長も、推し色ジャージでライブに並ぶ中学生も、バイト代を全部ガチャに突っ込んだのに天井まで SSRが来ない高校生も、フィリピンのごみ山でタガログ語ラップを刻む子どもも、アマゾン流域で川と話すシャーマンも、北極で氷が割れる音を聴く魚も、火星着陸の夢を抱く在野の<
友人(30代女性)が中学生フォロワーと同人イベントに参加した話を詳細に聞いたのだが、個人的に有り得ないと思ったポイントをいくつか。
① 友人が売り子募集をした際、声を掛けてきてくれたフォロワーが中学生だと知りながら売り子を許可した。
②友人はR18本を扱うサークル(該当日もR18本を頒布していた)
③友人が買い物に出掛けている間、R18本を頒布していたのは売り子の中学生。
④友人は売り子に頼まれ、別サークルのR18本を購入→売り子(未成年)に渡す。
箇条書きにしただけでもアウトな点が何点もあるのだが、同人イベントの現状って実際こんなものなんですか??
それにしても30代にもなって未成年、ましてや義務教育中の子どもと一緒に行動する危険性を彼女は分かっていなかったのか。それにドン引く。
金銭の関わる場所で、未成年とR18本を置き去りにしていく。怖すぎる。考えただけでも恐ろしい。
それともこれは私がお堅い頭の持ち主なだけであって、周りはみんなそのような空気なのだろうか。
バレなきゃいいよね!は結局人の口からバレていく。
30代にも関わらず、大人としての行動をとっていない彼女は今後も在り方を変えるつもりはないのだろう。
ところでこういう場合は然るべき団体に報告するならばどの窓口がいいのだろうか?
中学生も悪いのはもちろんだが、全てを知っていて加担した大人はもっと悪い。
彼女が二度と同じような過ちを犯さないように……と思っていても、彼女はこの件を過ちだと思っていないのでどうやら二度目があるらしい。
小学生→壊してもよい。取り返しがつく。
中学生→壊してもよい。まだ取り返しがつく。
社会人3年目まで→壊さないほうがよいが、壊しても転職はできるので取り返しがつく。
50代→壊してもよい。
日本人男性が15歳の少女を脅迫して3歳妹の淫らな画像を送らせた事件があった
男がこの世に存在する限り0歳でも裸は淫らなんだよ
「セクストーション」=性的脅迫とみられる手口で、男が逮捕されました。
愛知県警によりますと、東京都に住む無職・片岡龍哉容疑者(30)は、SNSで知り合った中学生の少女(当時15)を脅し、少女と当時3歳だった妹のみだらな画像や動画あわせて3点を送信させた疑いで逮捕されました。
捜査関係者によりますと、片岡容疑者はこの時すでに少女のみだらな画像を所持していて、「俺の言う事を聞かないと画像を晒すぞ」などとメッセージを送っていたということです。
調べに対して「黙秘します」と認否を留保していますが、片岡容疑者は別の少女(14)に対する不同意性交の疑いなどで、これまでに3回逮捕・起訴されています。
文章力がない。特に長文になると中学生が英作文書いてるのかってぐらい下手だ。ツイッターあたりの超短文ぐらいならまだマシ、200文字以上になってくると書いては消して、書いては消して…になってしまう
学生時代は大人受けがいい薄っぺらい文章ばかり量産していた気がする。そのせいか、大人になって自分の意見や今日あったちょっとしたこともなんて書けばいいか分からない
本を読むのは苦手ではないし、むしろ好きな方なのに自分で書き始めると途端に下手で苦手だ。みんなSNSでどんな風に面白く文章を書いているのか知りたい。誤字や言い間違えがなく、文意がわかりやすく、面白い文章はどうやってうまれるのか?何か練習しているのだろうか?
性欲があまりに旺盛すぎてその辺の男より強い自信がある。
性欲との付き合いは長い。小学校中学年あたりから性欲というものが人生に入ってきてるので、かれこれもう20年近くの付き合いだ。その頃から生理の時以外毎日シコってる。成長してからは1日2、3回は抜いてる。何もない休みの日なんて朝から晩まで抜いてる時もある。化け物かよ。
性欲が減退するらしい、と聞いて大豆製品をしこたま食べた事もある。悲しいかな、私の性欲は弱まるどころか余計に強くなった。
疲れるまで動いたら疲労で抜くどころじゃないはず、そう思うだろう。ところがどっこい、私は週2、3でジムに通う運動大好き人間だ。休みの前日は身体を追い込んでる。
なのに帰ったら疲労よりも性欲が頭をもたげてる。なんでだよ。そこは寝させてくれよ。
風邪引いた時ですら普通に抜いてるので、体力や疲労の有無と性欲は別なのかもしれない。カスのデザートは別腹理論だ。
ちなみにちょうど今絶賛発熱中だけど、やっぱり性欲はある。最悪すぎる。
幸運なのは、こんなクソみたいに性欲が強いのに他人に性欲がミリも向かない点だ。
そういう雰囲気になった時、拒絶して当時の彼氏と別れた事もある。カマトトぶってたわけじゃない。むしろヤル気満々だった。なのにいざって時に急に嫌悪感が出てきて拒絶してしまった。こんなに性欲塗れなのに。当たり前だけどこの後しっかり振られた。
好きじゃないのにヤろうとしたから拒絶したのかな?って考えた私は以降、好きな人とだけ付き合おうと決めた。結果誰とも付き合えていない。終わってる。
生まれてこの方好きとか恋とかみたいな感覚を持った事がないから、多分アセクシャルとかそういうのなんだろう。アセクシャル名乗るにはちょっと性欲が強すぎるのでとても名乗れないけど。
ひたすら部屋で過酷にオナニーするのだけが好きな化け物、それが私なのだ。誰かこの化け物の倒し方を教えてくれよマジで。
多分性依存なんだろう、とは思う。ただ、女性のオナニー狂はどうも少ないっぽいので自信が持てない。ただの異常性欲独身女性なのかもしれない。
病院で診断受けて治療した方が良いのかもしれないけど、どんな顔で行けばいいんだ。バ○童と足の裏とモンタナ州を足して割ってヤスリで削ったみたいな顔のアラサー弱者女が「私シコ猿すぎて恥ずかしいんです…///」って問診票に書く姿を想像して欲しい。地獄である。絶対に行かない。
渋谷新宿に近い都内在住だからだと思うけど、中学生のころからナンパされてきたし道もよく聞かれるタイプ。
経験があるかないか文章からは読み取れないのに、書かれていないことを勝手に妄想して勝手に補完しないでほしい。気持ち悪いので。
そうだね。
そういうことをやってもうまくいかないという判断ができない社会的スキルの低さみたいなところから勝手に小学生か中学生くらいだと想像して回答を書いちゃったよ。
今時は長年不登校になっていて、学校にほとんど行かないまま大人になる人もいるらしいので、そのパターンだと中高生の息子に今のやり方をするアラサーもあり得ると思う。
相手との年齢差がある場合は確かに気持ち悪い、近づかないようにするのは仕方ないと思う。
お店の店員にアプローチするのも職場の同僚に突然告白するのとも確かにあまり変わらない気がするけれど、やはり同じパターンな気がする。
どちらの場合も日常のたわいもないような雑談があって、それなりにお互いに自分のことを開示してからの告白なら相手も人となりとがわかっているけれど、
そうじゃないとまずおまえが誰か知らない・気持ち悪いになるのは不可避だろうな。
日常のたわいもない会話をしてくるのが気持ち悪いと思われているかどうかは、相手が話に乗ってくるかを見て判断しないといけなくて、のってこないなら脈なしだね。
https://president.jp/articles/-/103837
日本アニメにはまず濃密な人間関係がベースとしてあり、そこにファンタジーやSFや学園モノといった趣向が被さる二重構造になってるということでいいのだろうか。
いわば等身大の人間たちがお芝居をしている感じ。だからガッツリ自己投影・感情移入しやすいと。(かつ、それが欧米では新鮮に受け取られている。日本ではむしろ食傷だが)
翻ってハリウッド作劇術によるような一枚岩のよく整理された物語においては全てのキャラクターが特定の機能を帯びており、観客は完全に蚊帳の外、スクリーンの外である(まあ本来あたりまえだが)。
藤田和日郎作品にもこの“欧米”っぽさを感じる。おとぎ話として自己完結しており、キャラクターは話を進めることにそれぞれ真っ直ぐ奉仕してるので全体にしらんがなと思ってしまう。
巨大ロボットに乗って敵と闘いつつ中学生みたいな恋愛もする、そしてその恋愛が主たる任務の遂行にも絡んでくるというとっちらかった二重構造は日本のマンガ・アニメ独自のものなのだろうか。
ハリウッドヒーローも恋愛はするが、それはわちゃわちゃ近づいたり離れたりというものではなくて「さらわれた恋人を助ける」的な大目標であったり、あくまでオフの息抜きだったりする。
それがなければ好きじゃないどころか口も聞きたくないくらい気持ち悪くて嫌い」
……自分のことをそんなふうに看做している異性と結婚するシチュエーションを考えると震え上がるほど恐ろしく、身を切るほど悲しい気持ちになります。
また、
「キャバクラなどで遊ぶ、キャバ嬢とメールでイチャイチャする、キャバ嬢と同伴デートをする……こういうのがつらくて出来ない。相手の作り笑顔や『一緒にいることが嬉しい』という心にもないポーズを見る」
そういうシチュエーションを想像しただけで申し訳なくてつらいです。
私のこれらの感覚を人に明かしたところ
「成人でそれは異常なくらい幼稚。お前は中学生か」
と不快感を顕わにされながらかなり強く非難されたか経験があります。
私のこの感覚って異常なのでしょうか?