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2016年03月11日08:00 【3.11忘れない】もう一度みよう 3.11東日本大震災の衝撃動画 Tweet 転載元:http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1457569534/ 1: ダイビングヘッドバット(catv?)@\(^o^)/ 2016/03/10(木) 09:25:34.87 ID:ok7KfrHX0.net BE:511393199-PLT(15073) ポイント特典 すぐそこに津波が【被災者が残した動画】2011年3月11日 宮城県亘理町荒浜 https://www.youtube.com/watch?v=oQA29tKMYac 3.11 東日本大震災 釜石市大津波 地元TV局が捉えた魂の記録映像 https://www.youtube.com/watch?v=1OVgpcxjZvA 2011年3月11日 東日本大震災
東日本大震災。 東日本全体で21000人もの人が命を失い、または行方不明となりました。私も被災し岩手県陸前高田市米崎小学校の体育館で二ヶ月間にわたり避難所生活をしながら避難所運営を経験しました。 多くの人に助けられ過ごした時間です。この場をお借りして、日本中の人に御礼を述べさせていただきます。 本来であれば、避難所運営の一例として記録と御礼だけに留めるべきことですが、次の万が一の時のために避難所運営の改善点とご支援をいただいた際に気になった点を記させていただきます。 両親と妻と一男二女の7人暮らしをしていました。両親とも同じ米崎町生まれで、昭和35年のチリ地震津波の被害も経験しています。妻は同じ岩手県内でも内陸の一関市生まれなので、結婚するまで津波に対する防災教育を受けずに育ちました。 震災時、子どもは小学校一年の長女と保育園年長組の次女は学校と保育園へ。1歳6ヶ月の長男は自宅で妻と一緒で
1 サッカーボールキック(家) :2014/03/01(土) 22:18:51.32 ID:+qDfebda0 ?PLT(12750) ポイント特典 8 メンマ(埼玉県) :2014/03/01(土) 22:22:07.96 ID:EkNkWyNn0 空撮はリアルタイムで見てた気がする 10 アイアンフィンガーフロムヘル(東京都) :2014/03/01(土) 22:22:13.99 ID:LB1G2+VM0 当時、耐震研究室にいた自分には衝撃だったな 34 テキサスクローバーホールド(大阪府) :2014/03/01(土) 22:26:48.63 ID:6NAWeqc40 当日ながれたけどADSLが危ないからお蔵入りしてたんだろう 44 河津落とし(やわらか銀行) :2014/03/01(土) 22:28:20.40 ID:k3ON/RBU0 犬が逃げ道を失って津波に飲まれ
私は2011年の東日本大震災の半年後から英国インペリアルカレッジ・ロンドンの公衆衛生大学院へ留学していましたが、この度留学を終え、本年11月に相馬中央病院内科の常勤医として勤務を始めました。相馬中央病院は現・相馬市長の立谷秀清氏が設立した病院で、規模こそ小さいものの地域に密着した診療を行っています。 相馬市への移住の決意 「原発の近くに支援に入るなんて勇気があるね」と言われることがよくありますが、これには2点、修正したい点があります。 1点目は、私は「支援」に入っているつもりはない、ということです。私が相馬市に移住した理由には様々ありますが、何よりも相馬市の地域復興の在り方が公衆衛生学的な視点から見て興味深かった、という点が挙げられます。 また、現在相馬市という小さな町に研究者、教師、アスリートなど、あらゆる分野で一流の人々が集まっており、そのような人々との交流のチャンスも与えられています
おととしの津波でほぼ水没した、宮城県女川町の5階建てのビルで、中にいた22人が溺れずに生き延びていたことが、当時の映像や証言で明らかになりました。 窓がなく、空気の逃げ場がない部屋だったため、空気の圧力で水が一定以上侵入しなかったとみられ、専門家は「震災の重要な教訓であり、今後の津波対策のために細かく検証すべきだ」と話しています。 女川町の中心部にある「女川町生涯教育センター」は、鉄筋コンクリート造りの5階建てのビルで、東日本大震災が発生した際、周辺から多くの人が逃げ込みましたが、高さ20メートルある屋根まで津波が達しました。 当時、町役場の屋上からこのビルを撮影した写真では、最も高い津波が押し寄せた際、屋根の先端だけを残してビルが水没した様子が分かり、撮影した役場の職員も「5階までは水没していた。中に人がいても生きていないと思った」と話しています。 ところが、5階の機械室に逃げ込んだ、高
新聞2013年3月6日の日経夕刊14面、東日本大震災の津波に耐えた(ことになっている)岩手県陸前高田市の「奇跡の一本松」の復元について。いままで全く興味がなかったので気にしていなかったのだが、こんなことになってんのか……。これは現代のホラーだわ。 ……特殊な樹脂を使って再現した枝葉のレプリカを幹に取り付ける作業が6日、始まった。……作業員約20人が高さ7.7メートル、重さ1.4トンのレプリカをクレーンでつり下げ……枝の角度などを調整、松の周りに組み立てられた足場を撤去した上で、市は22日に完成式典を開いて一般公開する。 肝心の部分というか、関係者全員が心の中では思っているがその場の雰囲気もあって絶対に口にできない事実を抱きしめながら、樹脂で枝葉のレプリカを作ったり、クレーンで引き上げたり、そして記念式典を開いたりする感じが、つらい。 それで勇気づけられる人がいるなら、それはそれで素晴らしい
去年3月の大津波の際の避難について、国が岩手と宮城、福島の3県の1万人余りにアンケート調査を行った結果、避難した人の3分の1は、避難先に津波が迫っていたことが分かりました。 専門家は「今回の大津波では避難先からさらに高いところへ“2度逃げ”をして助かった人が多かった。いったん逃げた所からさらに避難ができるよう、高台や避難路を見直すべきだ」と指摘しています。 東日本大震災では、各地で自治体が指定する避難場所に高い津波が押し寄せ、多くの人が犠牲となりました。 内閣府が岩手と宮城、福島の3県で浸水した地域にいた1万1000人余りを対象にこの秋、アンケート調査を行ったところ、当時、「津波から避難した」という人は全体の79%に当たるおよそ8500人でした。 「最初に避難しようとした場所」は、「市町村が指定した避難場所」が37%で最も多く、次いで、「高台」が36%、「親戚や友人、知人の家」が9%などで
夫の遺志 旅館再建 被災した場所…「これで良かったか」 東日本大震災の津波で被災した岩手県大船渡市の旅館が再建された。只野八百子(やおこ)さん(80)は、再建を見届けて病死した夫昭雄(てるお)さん=享年(83)=の遺志を継いで、復興工事の関係者らの寝食を支える。ただ、再建したのは流されたのと同じ場所。「本当にこれで良かったのか」との思いを拭えないでいる。 (立石智保) しゃしゃしゃしゃっ-。昨年三月十一日、砂利を巻き込んで進む波の音を聞いた八百子さんと昭雄さんは、海から約八百メートルにある只野旅館最上階の三階に逃げた。三階への階段まで海水が迫ってきた。 三日目の朝に救助された。テレビ局の取材に「再建しましょう」と答え、昭雄さんは「再建おじいさん」として話題になった。旅館を手伝う長女英理子さん(51)も被災直後からがれきを片付け、再建に強い意欲を見せた。英理子さんからは「お父さんが『再
東日本大震災の大津波によって、児童・教職員84人という世界でも例のない犠牲者が出た石巻市立大川小学校。震災から1年5ヵ月が経過したが、なぜこれほどの児童・教職員が犠牲にならなければならなかったのか、今もまだ真実は明らかになっていない。 石巻市教育委員会が公表した報告書によると、児童たちは津波が来る5~10分前には、三角地帯に向けて避難を始めていたことになっていた。しかし私たちは、大津波が来る直前に大川小の校庭で何人かの人影を目撃したという地域の数少ない生還者たちに出会い、証言を得た。 大川小学校の周囲には、県道を中心に140軒近い釜谷地区の集落があった。しかし、いまは大地に校舎の廃墟がポツンと佇むだけで、集落は夢の跡のように消えてしまった。 その津波が来る直前まで集落にいた数少ない生還者の中に、学校の様子を目撃した地域の人たちもいる。 間一髪で大川小児童の甥と姪を救出! 津波襲来直前の学校
大槌町小槌 鬼原愛子 26歳 前の日に、デジャビュっていうんですか。「大きい地震がくる」って親に言ってたんですよ。「荷物まとめておいて」って、荷物まとめたんですね。結構当たるので。 その日は、ちょうど仕事が休みで、3番目の(子どもの)予防接種だったので、3番目だけ保育園休ませて家にいて、予防接種終わって帰ってきたときでした。あーやっぱ何もなかったんだーって言って、その荷物をほどいたんですよ。30分くらいしてから来た。 鬼原さんは、18歳で結婚。両親と、夫、3人の子どもと実家で暮らしていた。 準備はしてたんですけど。ちっちゃい頃から、海が目の前だったので、親が津波の度に逃げる、避難してたんですよ。お父さんは、チリ津波に遭ったので。同じ場所で。なんか、全部流された、みたいな感じらしいです。お父さん口数あんまり少ないから。お母さんが心配性なので、繰り返し言われていた。 ちっちゃいころはもうずーっ
Documentary describing the 3:11 Tsunami / nuclear disaster of 2011 in interviews with children. in no way do i claim or infer responsibility of ownership or authorship of this program. nor 100% copyright infringement, it is posted here for educational purposes only on the 1st anniversary of the tragic events. we pay a BBC Tv licence fee here in U.K so it seems fair we post it here for our Japanes
3月11日、震災当日の夜から、多くの報道番組で津波の解説を続けた地震学者がいる。彼はその後、被災地を何度も歩き、津波の実態に迫った。今回は、その学者に取材を試みることで「大震災の生と死」に迫る。 高さ十数メートルの“水の壁”が 視界に入ったときにはもう遅かった 東京大学地震研究所の都司嘉宣(つじよしのぶ)准教授は、3月の震災で発生した巨大津波の特徴を、釜石市(岩手県)で聞き取ったことを基にこのように説明した。 「地震後30分間は、市街地の中では異変を感じなかった。市の広報が、大津波警報の発令を告げるばかりだった。このようにして住民を油断させておきながら、突如、防潮堤の背後に高さ十数メートルの “水の壁”がぬっと現れた。 その壁の頂上から、滝のごとく居住地の中に大量の海水が注ぎ込み始めた。市街地の中の水位は瞬く間に上昇し、ビルの2階の窓から3階の窓、そして4階の窓まで浸水し、反対側の窓から流
■編集元:ニュース速報板より「【風化阻止】東日本大震災の衝撃動画」 1 【東電 70.6 %】 (東日本) :2011/09/10(土) 23:40:49.25 ID:kWzPbU0w0 ?PLT(12000) ポイント特典 東日本大震災:震災の記憶「風化させないよう」 県庁などに電子看板設置 /佐賀 http://mainichi.jp/area/saga/news/20110908ddlk41040439000c.html 東日本大震災発生から間もなく半年を迎えようとする中、「震災の記憶を風化させないようにしよう」と、被災地の風景や、現地での支援活動の様子を写真や動画で伝えるデジタルサイネージ(電子看板)が佐賀市役所や県庁に設置された。 県内のさまざまな団体、個人、企業が被災地支援に取り組む「佐賀から元気を送ろうキャンペーン」の一環。NPOなどの協力要請を受け、設置した。
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