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新内閣発足
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橿原市今西町 #今西家住宅。#笏谷石(緑色凝灰岩)の流し台。濡れると鮮やかな浅葱色(あさぎいろ)に変わる石は #ヲホド王(#継体天皇)が支配した #足羽山(福井市)特産。笏谷石で造られた勾玉などの玉類が近くの #曽我遺跡(玉作工房跡、古墳時代後期)から出土しているのは歴史の偶然でしょうか 目次 今西家住宅(橿原市今井町)の片隅で ふくいブルー・笏谷石(しゃくだにいし)と継体天皇 継体期の巨大玉造工房・曽我遺跡(そが、橿原市曽我町859) 本文 今西家住宅(橿原市今井町)の片隅で www.zero-position.com 前回紹介した今西家住宅(奈良県橿原市今井町)の展示スペースの片隅に井戸とその側に石造りの古い流し台を見かけました。 井戸は織田軍と戦った時の水源となったそうです。 今西家住宅(橿原市今井町)にて。井戸と石造りの流し台 石造りの流し台には神棚が置かれており、横に案内書き。
奥さんの歴史探訪(グルメ付き)のお供で #橿原市今井町。歴史的な美しい街並みを堪能し #今西家住宅 へ。第八十八代当主の奥さまがガイド。ひょんなことから #三輪山 のお話になり…いつの間にやらお供の私が古代妄想で大コーフン😀 #出雲屋敷 #十市縣主 目次 今井町(奈良県橿原市)のかんたん歴史 今井町の街並み 今西家住宅 十市縣主を祖とする今西家。出雲屋敷のお話。 本文 退院後にリハビリを兼ねてウォーキングしているうちに、奥さんがなぜか歴史に興味を持ち始め、もちろん美味しいもの付きなんですが😀、ご指定の史跡巡りに付き合うようになっております(`・ω・´)ゞ。 今井町(奈良県橿原市)のかんたん歴史 奈良県橿原市、橿原神宮(畝傍山)からもほど近い今井町を訪問。 信長公、秀吉公と親交が深かった大坂堺の商人・茶人の 今井宗久(いまいそうきゅう) の出身地として知られています。 1650年代以降の
2025年の #中秋の名月(10月6日)は、ほぼ真東から月が上り #四天王寺 の伽藍の真上を通り、明け方にほぼ真西(#石鳥居)に月が沈むという珍しい現象を見ることができました。#月光環 目次 月の出 月の入 本文 月の出 2025年10月6日(月曜日)は 中秋の名月 でした。 ほぼ真東、四天王寺伽藍の中央から月の出 四天王寺さんにお団子持参でお月見。 今年の中秋の名月は、ほぼ真東から月が上り、四天王寺さんの伽藍の真上を通り、明け方にほぼ真西(石鳥居の真ん中)に月が沈むという現象を見ることができます。 夕陽に赤く照らされた雲の中、お月さまが上がってきました。 夕陽と月(2025年中秋の名月。月の出。四天王寺) 四天王寺 五重塔 中秋の名月 www.zero-position.com 2025年10月6日中秋の名月。月の出と月の入の方角 月の入 翌朝は、いつもよりも早めに起きて四天王寺さんへ。
時に2000キロも移動する #渡り蝶 #アサギマダラ。秋は本州(関東地方)から南西諸島や台湾に渡ります。関西では毎年10月上~中旬に #フジバカマ の群落に長旅の途中にやって来ます。今年も六甲山系の天空のお寺 #摩耶山天上寺(神戸市灘区)の境内にやって来ました #源氏物語 目次 フジバカマ(藤袴) アサギマダラ(浅葱斑) 本文 フジバカマ(藤袴) 山上憶良(やまのうえのおくら)が万葉集で詠んだ「秋の七草」のひとつ。 フジバカマ(藤袴)2025年10月2日。京都府立植物園 源氏物語では夕霧(ゆうぎり、光源氏の長男、中将)がいとこの玉鬘(たまかずら)に藤袴の花を差し出して「コクハク」するシーンで登場します。 花弁は素朴な藤色。 乾燥させると桜餅のような芳香を放ち、平安貴族の女性たちは藤袴の香を焚きこめて身につけていたそうです。 2025年10月4日。摩耶山天上寺(神戸市灘区)。延命地蔵尊の前に
七月の入院前、奥さんの手術成功と無事退院をお願いに詣った #石切さん(#石切劔箭神社)。今はリハビリ中ですが自力で歩けるようになって御礼詣り。参拝後はお楽しみの #石切おでん #水神社 目次 御礼参りの石切さん 石切おでん 水神社の亀さん 本文 www.zero-position.com 御礼参りの石切さん 石切劔箭神社。向こうは生駒山 七月の手術入院も無事終わり、今は杖が必要ですが、リハビリ通院中の奥さん。 御礼参りをしたいというので、生駒山の麓の石切さん(石切劔箭神社、いしきりつるぎやじんじゃ)へ。 新石切駅(近鉄けいはんな線、大阪メトロ中央線直結)から歩いて約10分少し。 軽いリハビリを兼ねてお参り。 石切剣箭神社 奥さんの入院中にすっかりキャッシュレスになった私、 かれこれ一ヶ月近く財布に残っていた一枚の千円札😀と小銭をすべてお賽銭に。 石切さんらしく過去をスッパリ切り捨ててこれ
「#暑さ寒さも彼岸まで」ご先祖様たちはうまく言ったものですね。日中はまだまだ暑い「夏」ですが、朝夕はすっかり涼しく、いつの間にか周囲や足元には「秋」がやって来ていました。#四天王寺 目次 四天王寺の日の出(2025年秋の彼岸ごろ) 朝の光 秋めく境内 本文 www.zero-position.com 四天王寺の日の出(2025年秋の彼岸ごろ) 秋分のお彼岸、四天王寺の石鳥居に夕陽が沈む時季、朝の太陽は石鳥居から昇ります。 2025年9月27日。四天王寺の石鳥居 四天王寺は 転法輪石 を中心にして東西南北が定められたお寺ですから、秋分・春分の日の太陽は、伽藍の真上を通り、東から西に軌道を描きます。 四天王寺境内図(北が下に注意) 今の季節、石鳥居・西大門(極楽門)から見ると、金堂と五重塔の中心(転法輪石)から太陽が昇ります。 (撮影は秋分から4日目の朝なので太陽はやや南に傾いてます) 202
2025年9月23日は #秋分の日。#秋のお彼岸の中日 になります。#四天王寺 では夕刻から #西門の石鳥居 に落ちる夕陽を遥拝しながら西方極楽浄土を観想する #日想観(じっそうかん)の法要が行われました。#サイノカミ信仰 #神仏習合 #聖徳太子 #推古天皇(豊御食炊屋姫) 目次 秋のお彼岸の中日(秋分の日) 西門(さいもん)と呼ばれる理由 四天王寺の核心は転法輪石(てんぽうりんせき) 姫巫女・推古天皇の日祀(ひまつり) 本文 秋のお彼岸の中日(秋分の日) 秋のお彼岸の中日は秋分の日。 春のお彼岸の中日(春分の日)と同じく、朝の太陽は真東から昇り、夕の太陽は真西に沈みます。 四天王寺の石鳥居は真西に向けて立てられているので、夕刻、太陽は鳥居の真ん中に落ちてゆきます。 2025年9月22日(秋分の日の前日)。西門の石鳥居から夕焼け 今は都会の建物の中ですが、古代〜中世は難波の海岸線が鳥居の近
近鉄上本町駅ビル屋上の #磐船大明神。今は近鉄グループの氏神様として崇敬されています。創建は #弥生時代 出雲の #下照姫 に関連付けられ #生駒の天照山(生駒の大鳥) の真東に位置する重要な社と考えています #2025年秋分の日 目次 磐船大明神(近鉄上本町駅ビル屋上) 生駒の大鳥(木股)の天照山の東 本文 www.zero-position.com 磐船大明神(近鉄上本町駅ビル屋上) 磐船大明神(近鉄内本町駅ビル、百貨店屋上) 摂津国風土記逸文の「高津、こうづ」に登場する 磐船山 のこん跡が、近鉄上本町駅ビル屋上の磐船大明神。 東高津宮(元高津)御由緒 昭和七年の駅拡張によって、東高津宮(元高津、仁徳天皇社)は、境内の磐船大明神とともに現在地(天王寺区東高津町)に移転したのですが、 おそらく近鉄大阪線の起点近くに磐船大明神の祠が残され、戦後、近鉄百貨店ビルが建築された時に屋上に磐船大明
仁徳天皇 #難波高津宮 の所在地考察の2回目。#仁徳天皇 の御世より600年前(紀元前200年頃)の弥生時代中期、現在の近鉄上本町駅周辺 #高津(こうづ)は #下照姫と #アメノワカヒコ 夫妻が宮を置き #葦原中國(古事記)のクニづくりに関わった「聖地」でありました 目次 風土記(ふどき)と風土記逸文(ふどきいつぶん) 摂津國風土記逸文・高津(こうづ) 下照姫と天磐船(あめのいわふね) 下照姫に関連するヒメコソ神社 「磐船山」のこん跡 本文 www.zero-position.com 風土記(ふどき)と風土記逸文(ふどきいつぶん) 「風土記」は奈良時代(元明天皇期)に全国各地から収集された地誌で、各地の風物や古い伝承の内容の一部が記紀(古事記、日本書紀)にも採用されました。 現存しているのは出雲國・播磨國・豊後國・肥前國・常陸國の五国で、 その他は「◯◯風土記によると・・・」のように後世の
今では謎となった #仁徳天皇 #難波高津宮 があった場所。先日 #近鉄上本町駅 周辺(大阪市天王寺区上本町駅)ではないかというお話を書きましたが今回は少し詳しく。#東高津宮 #仁徳天皇社(現存せず)#古代河内湖 #古代河内のウォーターフロント 目次 大阪市内二つの「高津」の地名 仁徳天皇が宮から眺めたのは発展著しい東の古代河内湖 本文 www.zero-position.com 大阪市内二つの「高津」の地名 近鉄百貨店8階から北の方角、上本町周辺(高津)を撮影。中央の幹線道路(ケンフラ看板)が上町筋 今回はなぜ私がそう考えるのか?を書いておきたいと思います。 難波高津宮から「かまどの煙」が立つ国を眺める仁徳天皇と皇后(高津宮、絵馬) その前にまず、現在、大阪で「高津」という地名は2か所あります。 西の高津宮(中央区高津)と東高津宮(天王寺区東高津町) 高津宮の「大阪市中央区高津」と東高津宮
「#龍田古道 を歩くパートⅡ」の最終回。#龍田山伝承地 から #三室山 山腹斜面の #龍田大社元宮跡碑までの #神降りの道(かみくだりのみち)を歩きました。#三輪山 #神籠もる御山(おやま) 目次 龍田古道・神降り(かみくだり)の道 龍田大社元宮(伝、石碑) 三室山(みむろやま)と三諸山(みもろやま) 本文 www.zero-position.com 龍田古道・神降り(かみくだり)の道 龍田山。神降りの道 龍田山(御座峰、ござがみね、伝承地)から龍田大社(伝・元宮)まで「神降りの道(かみくだりのみち)」を歩いてみました。 マップには龍田大社の創建時の元宮と現在地の両方を載せていますので、位置関係を理解する参考にしてください。 【龍田古道を歩くⅡ】金山彦神社−金山媛神社−龍田山−(神降りの道)−龍田大社元宮 龍田大社元宮(伝、石碑) グーグルマップでは道の表示が途切れており少々心配でしたが、
去年に続き龍田古道を歩いています。#金山彦神社 #金山媛神社を参拝した後、龍田の風神さんが降臨したという #龍田山(伝承地)まで歩きました。#御座峰(ござかみね)とも。毎年ここで神事が行われています 目次 テキスト 神降りの道から奈良盆地の眺め 龍田の風神さんはブドウを育てる? 本文 龍田山周辺の案内地図(開物が書き込み) テキスト 河内堅上駅から金山彦神社、金山媛神社に参拝しながら、府道53号線を登り続けて約1時間。 ようやく龍田山(伝承地、御座峰)が見えてきました。 龍田山伝承地(御座峰) 御座峰(ござがみね)案内板 古来より、当地を含むこの一帯を龍田山と呼び、大和と難波をつなぐ我が国最古の官道とも言われる龍田古道が通っていました。飛鳥や平城京から難波に向かう際に、龍田山をみて多くの万葉歌人が歌を残しています。奈良時代、平安時代には、桜・紅葉の名所として多くの歌にも詠われています。また
前回(金山彦神社)の続き。山あいの #金山媛神社。御由緒から、御祭神の #金山毘売神 は #金山毘古神 と男女一対で # 龍田山 山頂に祀られていたようです。#龍田古道 目次 龍田古道。龍田山までの道 金山媛神社(かなやまひめじんじゃ) 本文 前回/金山彦神社 www.zero-position.com 龍田古道。龍田山までの道 龍田古道。河内堅上駅から龍田山伝承地方面 金山彦神社から府道183号線をテクテクと20分ほど上がってゆきます。 大阪にもこんな景色があるのかと思うくらい山あいの堅上中学校・小学校を過ぎて、山腹の金山媛神社が見えてきました。 金山媛神社が鎮座する山腹 金山媛神社(かなやまひめじんじゃ) 府道脇の看板には「日本最古 金属守護神」と書いてありますね。 金山媛神社(かなやまひめじんじゃ) (34.5855762, 135.6635731)/大阪府柏原市雁多尾畑4828/河
1年ぶりの #龍田古道。今回は大和川から離れてJR大和路線の河内堅上駅から龍田山伝承地・龍田大社元宮のある高地方面にウォーキング。最初の目標 #金山彦神社 御由緒には龍田の #たたら製鉄 と #風神信仰 の関係が書かれていました。 目次 龍田古道(パートⅡ) 金山彦神社 本文 龍田古道(パートⅡ) 飛鳥京や平城京に都があった飛鳥〜奈良時代、難波宮は外交の副首都の位置づけで、龍田古道は二つの都を結ぶ交通の要衝でした。 ちょうど大阪(柏原市)と奈良県(生駒郡)の境は、このエリアで「龍田川」と言われるほど大和川の流れが激しく、陸路の龍田古道での往来が中心でした。 古い時代、大和と河内の国境の大和川の流れを「龍田川」と呼んだ www.zero-position.com 去年の春、地すべり資料館エリア(峠地区)を中心に大和川沿いの龍田古道を紹介しましたが、 今回は、起点となる河内堅上駅から、標高が高
難波の高津宮 に宮殿を置いたとされる古墳時代中期の #仁徳天皇(第16代)。#難波高津宮 は難波宮公園あたりにあったというのが定説ですが、私は現在の #近鉄上本町駅 周辺ではなかったかと考えて(妄想して)います。#東高津宮 #元高津 目次 所在地不明の難波高津宮 難波高津宮の推定地マップ 近鉄上本町駅あたり 本文 所在地不明の難波高津宮 西暦400年代、古墳時代中期の第16代仁徳天皇(大鷦鷯天皇、おおささぎのすめらみこと)は難波の高津宮(こうづのみや、たかつのみや)で善政を施したとされています。 www.zero-position.com 「高津、こうづ」という地名は現在の天王寺区から中央区にかけた東西の広い範囲の中に、地名や神社名として残っていますが、 難波高津宮がどこにあったかは、遺跡や発掘物はなく所在は不明です。 私の推定(妄想)も含めたマップ(大阪市天王寺区・中央区に限定)を作って
8月、お盆の頃の夜明け前。東の空には金星(明けの明星)と木星。これにお月様が加わって明け方の #天体ショー。月と星が描く紋様を眺めながらいつもの #古代妄想😀 目次 下照姫(したてるひめ)の涙?七夕考 輪になって踊ろ♪ 本文 下照姫(したてるひめ)の涙?七夕考 今年のお盆ウィークは溜まっていた仕事を終わらそうと早朝、チャリンコ(自転車)で仕事場まで。 駐輪場からふと東の空を見上げると。。。 8月14日。夜明け前の東の空 下の明るいのが金星。上が木星。 これほどきれいな上下は見たことがなくしばらく鑑賞。 乙女の涙にも見えます。 youtu.be ♬一番星に祈る。それが私の癖になり、夕暮れに見上げる空、心いっぱいあなた探す。哀しみにも喜びにも、思うあの笑顔、あなたの場所から私が見えたら、きっといつか、逢えると信じ生きてゆく 星空に亡き人を探す… 天探女(あめのさぐめ、河内國風土記「高津」、古
日本の古代信仰 #アラハバキ。#男女一対 #古神道 のカタチであると考えられますが、現在ではほぼ失われています。しかし丹念に探せば、埋もれた古い信仰のこん跡を見つけることができるかも知れません 目次 全国にひろがる?倭文(しとり)と蟹守(かにもり) 倭文(しとり、しどり)【ご由緒は加筆して一部再掲】 蟹守(かにもり)、加守(かもり)、掃守(かもり)など 地名に残る倭文と掃守(南あわじ市) 本文 全国にひろがる?倭文(しとり)と蟹守(かにもり) 【前回】 www.zero-position.com 葛木倭文坐天羽雷命神社(かつらき・しとりにいます・あめのはいかづちみことじんじゃ、奈良県葛城市加守、加守神社)の御由緒を読んでいると、古い時代に、アラの倭文(しとり)と、ハバキの蟹守(かにもり)の信仰がセットになって全国に広がっていたことがうかがえます。 倭文(しとり、しどり)【ご由緒は加筆して一
葛木倭文坐天羽雷命神社(加守神社)は、遠く離れた荒脛巾神社(あらはばきじんじゃ、宮城県)と祭式が共通していることから、私が #アラハバキ を考えるキッカケになりました。少しずつ進展しておりますのでご報告。 目次 倭文(しとり)と蟹守(かにもり) 06)アラハバキ解(1)宮城と奈良の二社比較 葛木倭文坐天羽雷命神社【倭文】【荒衣の「アラ」。転じて子安と子育】 加守(掃守)神社【蟹守】【蟹を祓う箒「ハバキ」。転じて安産と祓い】 本文 倭文(しとり)と蟹守(かにもり) 葛木倭文坐天羽雷命神社(かつらき・しとりにいます・あめのはいかづちみことじんじゃ、奈良県葛城市加守、加守神社)の続きです。 www.zero-position.com 遠く離れた宮城県多賀城市・荒脛巾神社(あらばばきじんじゃ)と祭式が共通していることから、 アラハバキは、縄文・弥生の過渡期の時代から共有されていた古神道の本質ともい
平安時代の #古今和歌集 の仮名序(紀貫之)に #和歌(やまとうた)は #下照姫 に始まると紹介されています。前回紹介した大和葛木の #棚機神社(たなばたじんじゃ) と後背の #岩橋山 の景色を眺めていて、ここがその地かも知れないと古代妄想 #古事記 #織姫(弟棚機、おとたなばた) 目次 古今集仮名序「和歌のはじまり」 下照姫、日本最初の和歌 原文 読み 意訳 天の岩橋(葛木の岩橋山) 本文 古今集仮名序「和歌のはじまり」 古今集仮名序は、古今和歌集*1の序文のことで、撰者の紀貫之(きのつらゆき)が書きました。 その「和歌(やまとうた)のはじまり」の章に、 『和歌は人の心を種として生まれた百万(よろず)の言葉(ことのは)・・・天土(あめつち)のひらけ始まる時より生まれました・・・今の世に伝わるのは、いにしえの昔の 下照姫 にはじまり・・・』 と書かれています。 下照姫、日本最初の和歌 下照
暑中お見舞い申し上げます。私は涼しい夏の早朝出勤中で #上町台地 のドラゴンの背 #熊野街道 を歩いて# ニャンコ たちに元気をもらっております。まだしばらく暑い日が続きますが、皆様も無理せず、どうぞご自愛ください。 目次 暑中お見舞い申し上げます。 熊野街道 猫街道。 本文 暑中お見舞い申し上げます。 前回ご紹介した葛木の棚機神社(たなばたじんじゃ)の帰り、 神社が鎮座する葛木の岩橋山の二山の方を振り返ると、 龍神さんが「吹き出し」付きで、空に浮かんでいました🐉 せっかくのお姿、暑中お見舞いに使わせていただきました😀 熊野街道 猫街道。 二月に引っ越してから、仕事場まで雨の日以外は毎朝片道四キロを歩いています。 大阪市内の熊野街道 が通勤コース。 ***** 四天王寺さんの南大門の熊野権現遥拝石。 四天王寺四石のひとつで、住吉大社に続く大阪市内、熊野街道の目印です。 四天王寺境内 熊
前回、二上山の麓の #葛木倭文坐天羽雷命神社 を紹介しましたが、その元宮とされているのが今回ご紹介する #棚機神社。オオタ地名は稲作弥生時代に鴨族が開発した「クニ」に付けられた名で、その名を特徴づける「二山」の景色を含めて確認したくて、早速、お参りしてきました。 目次 弥生のクニウミの原景 棚機神社 当ブログ【オオタ地名】の記事 本文 弥生のクニウミの原景 二上山の南、岩橋山の麓に目指す棚機神社 葛城市太田(国道165号線の近くに棚機神社) 「太田」地名らしく「二山の木股」の景色が見えましたね。 二山の渓谷に沿って水の流れがあり、平野部との出会いに扇状地を作る地景。 扇状地は広大な水田地帯となります。 現在はため池が、棚機神社周辺にたくさん見られます。 稲作弥生時代のクニの原景。ゆえに「太田、オオタ」 もちろん古代の葛木に住んだ「鴨族」がゼッタイ見逃さない地景ですね。 そして弥生のクニの扇
5年ぶりに #大和二上山 の麓 #葛木倭文坐天羽雷命神社(かつらぎ・しとりにいます・あまのはいかづちのみこと・じんじゃ)に参拝。私が #アラハバキ信仰 に興味を持つキッカケとなった古社。境内は夏の早朝の光を浴びて輝いていました 目次 葛木倭文坐天羽雷命神社 古社の朝の光 本文 葛木倭文坐天羽雷命神社 近鉄南大阪線から二上山方向に歩いて5分。加守の交差点から 34.5308692, 135.6887068/奈良県葛城市加守1045/近鉄南大阪線・二上神社口駅から徒歩で約10分(二上山への登山道の入り口にもなっています。登山者用の駐車場が近くにあります。) www.zero-position.com 「かつらぎ・しとりにいます・あまのはいかづちのみこと・じんじゃ」。 もう5年前の夏になるのですが、大和二上山の麓、二上神社・倭文神社・加守神社が合祀された古社に参拝。 ここと宮城県多賀城市の荒脛巾
下照姫の謎解き3回目。これまでのまとめをした上で、この古代妄想の起点となった #磐舟山の碑 の真東に #天照山 が位置することの意味を考察。碑から見ると、春分・秋分の日には #天照山 山頂から朝の太陽が昇ります。#葦原中國 #八十島 #古代河内湖 目次 下照姫の謎解き。これまでのまとめ 産婆の祖としての下照姫の役割 一直線に並ぶ天照山〜神津嶽〜磐舟山の碑(産湯稲荷) 本文 www.zero-position.com 下照姫の謎解き。これまでのまとめ 下照姫の謎に迫る古代史妄想の旅は、大阪上町台地の東崖にひっそりと建つ磐舟山の碑から始まりました。 www.zero-position.com 今は住宅地の中に埋もれるように建っていて目立ちませんが、 当ブログでは、古事記の【葦原中國】神話を解き明かす重要なこん跡として考察しました。 大阪上町台地の東崖に建てられた磐舟山の碑。崖下は古代河内湖のこ
明日は #七夕。#星祭り とも。梅雨も明けたので夜空の星が見れそうですね。立ち寄った神社やお寺の #七夕飾り。#阿部王子神社 #安倍晴明神社 #天性寺 目次 阿部王子神社、安倍晴明神社(大阪市阿倍野区) 天性寺(大阪市天王寺区) 本文 阿部王子神社、安倍晴明神社(大阪市阿倍野区) 奥さんの入院直前の前週末、三男が来たので東天下茶屋(てんがちゃや)のお気に入りのお店でお昼ご飯。 四天王寺から南に下り、住吉大社の手前となる阿倍野区一帯、熊野街道沿いには阿部王子神社と安倍晴明神社が鎮座します。 七夕(星まつり)が近い時期で、境内の水神社に七夕飾り。 こちらは高龗神(たかおかみ)、罔象女神(みずはめのかみ)、暗龗神(くらおかみ)、の龗神(おかみがみ)三柱を祀る面白い組み合わせ。 宗像三女神(奥津=田心姫、中津=多岐津姫、辺津=市杵島姫)に対応しているという個人的な捉え方は、このお社の女神さまをヒン
今年の梅雨はあっという間に終わりましたね。大阪の夏祭りの先駆け #愛染祭(6月30日から7月1日)の前に梅雨明けというのは初めて😮。祭りの日の初日に奥さんが入院。私は一ヶ月の独身生活が始まります。 目次 禍福は糾える縄の如し(かふくはあざなえるなわのごとし) あっという間に梅雨が終わり 家中メモだらけ! 本文 禍福は糾える縄の如し(かふくはあざなえるなわのごとし) 今年の初紫陽花(梅雨入り間近のころ) 「幸と不幸はより合わせて編んだ縄のよう」 幸せと不幸は隣り合わせという意味ですが、今年、特に五月からの「禍福」が目まぐるしく、心静かに過ごすことができません😅 6月に次男が入籍し、二人の人生をスタートさせたというメデタイ話に前後して、7月から奥さんの手術入院とリハビリが決定。 6月初旬、梅雨入り直前の晴れ間に撮影 次男夫婦が「挙式なし秋に食事会」と選択してくれたことが、奥さんの治療に影響
出雲 #下照姫 考察の続き。大和葛城(御所市)の長柄神社は #姫の宮 として下照姫を祭ります。近くの #名柄遺跡(弥生時代)には初期型の銅鐸と銅鏡がセットで埋納されていました。長柄神社から遥拝する水越峠に #天水分神 #国水分神 を祀る葛木水分神社。それらの「点」を繋いでみました 目次 クニとヒトの誕生と成長を見守る 銅鐸の姫巫女 www.zero-position.com 本文 クニとヒトの誕生と成長を見守る 下照姫(したてるひめ)の大和と河内での動きを考えてみたいと思います。 下照姫と天稚彦(あめのわかひこ)の夫婦は、義兄のアヂスキタカヒコネに伴って、最初に大和葛城(長柄神社あたり、ながら)に移住し、 やがて古代河内湖畔の味原(天王寺区、産湯稲荷神社あたり)に宮を構えたものと推定すると、出雲伝承と古事記(葦原中國)の記述の辻褄があってきます。 長柄神社から「葛城の大鳥」。春分秋分の夕日
出雲伝承は #下照姫(したてるひめ)は #大国主 と #八上姫 の娘で #木股姫(このまたひめ)とも云うと伝えます。安産と子育ての神徳をイメージさせるのにふさわしい「木の股」の名です。#天水分神(あめのみくまりのかみ)#御子守(みこもり)の神 目次 「木の股」の名を持つ産湯井戸の女神 水分(みくまり)と御子守 亀さんの出産 本文 「木の股」の名を持つ産湯井戸の女神 出雲伝承(系図)は、下照姫(したてるひめ)はオオクニヌシと八上姫(鳥取=因幡の人、いわゆる側室)の娘で、木股姫(このまたひめ)ともいい、天稚彦(あめのわかひこ、天若日子)と夫婦であったと伝えます。 産湯稲荷神社(大阪)の玉之井の御祭神の(血縁)関係 木股神として祀る御井神社(島根県出雲市)は下照姫の名を使いませんが、大阪の古代河内湖畔の崖上にあった産湯稲荷神社境内の玉之井(たまのい)は御井神、つまり下照姫を祀ります。 御井神社の
私事ですが、奥さんが来月からしばらく入院することになり、手術の無事と平癒をねがって石切さん(石切劔箭神社)に参拝。#石切剣箭神社(いしきりつるぎや)#水神社 #石切おでん 目次 石切さん。お百度詣り 水神社。亀さんもお参り 石切おでん 本文 石切さん。お百度詣り 人生始めてのお百度詣り。 石切劔箭神社。お百度詣りで賑わう御本殿前 お百度紐(おひゃくどひも)を持って、御本殿前のお百度石をぐるぐる巡ります。 一周するたびに、紐を折って数えるそうです。 お百度紐(石切さん) 整形外科系の手術で命に関わるものではないのですが、入院1ヶ月、リハビリ2ヶ月の長丁場。 無事に秋を迎えられるようお願いしてきました。 水神社。亀さんもお参り 水神社(石切さん) 石切さんの御本殿前に水神社。 御祭神:罔象女神(みつはのめのかみ)、天水分神(あめのみくまりのかみ) 水の女神様、二柱を祀ります。 水神社 案内板
大阪市内 #上町台地 の崖上、ひっそりとたたずむ #磐舟山の碑 に触発されて #古事記神話 #葦原中國 神話の考察・3回目。作者 #太安万侶 が神話に例えた史実はどのようなものだったのでしょうか? #古代河内湖 #味原 www.zero-position.com 古代河内湖(弥生時代)の兄・アジスキタカヒコネと妹・下照姫の位置関係 兄・アジスキタカヒコネの一族 北の淀川、南の大和川からの活発な土砂堆積が現在の大阪(河内)平野を造りました。 縄文時代の河内海は湾になり、弥生時代には開かれた汽水の湖から、閉じられた淡水の湖(後の草香江)に変化しました。 おそらくそのころ、今から二千二百年前(紀元前200年、弥生時代中〜後期)に、オオクニヌシの息子・アジスキタカヒコネが葛城に移住した後、彼かその二代目(塩治彦または多岐津彦、出雲伝承系図より)が古代河内湖の北岸、 今の阿遅速雄神社(あじはやお、御
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