はてなキーワード: ニュアンスとは
増田「お前は嫌ではないと言った」
一致してるのになぜか意見が変わったかのように過去の態度を責めてる
増田「少しでも痛みが出ないようにゼリーをつかうのはどうだ」「いくつかを試していくつかは良かった」
セックスは気持ち良いで一致してるのになぜか意見が変わったかのように過去の態度を責めてる
増田「あなたの事は好きだがセックスは嫌いだからしません」と言っていたらこんな事にはなっていないだろ。
多分だが、増田の中で「嫌じゃない」は好きになる前段階という捉え方をしたのではないか?
彼女の「嫌じゃない」は言葉の通り嫌じゃないだけで、気持ちよくなれば好きになるという考えは一切ない
今夜セックスをしても良いというサインを決めるのはどうか、とか気持ちよくなってもらうための努力とかが、ちょっと男性思考すぎかなって思う
「求められたらその気になる」なんて幻想なので、今夜急にしたくなることはほぼない
「気持ち良くなれば求めてくる」も幻想なので、気持ち良くしてもらうことに大したメリットはない
さらに「増田で気持ちよくなる」とか「私から求める」とかの追加要望はキャパオーバーなのだ
しかし増田のいう「お前はしゃーなしで膣を貸していたのかもしれない。本当に悪かった」ほどでなない
ニュアンスとしては増田の「一切の興味もないK-POPのコンサートに着いて行った」と同程度だろう
彼女がワガママと言い切るブクマカも、あらゆる娯楽の中で「セックスが最上位に君臨すべき」という価値観が強いと思われる
そして「気持ちよさ」によって相手も「最上位にしてくれる」と信じており、無駄な努力を続けてしまうのだ
私「おはようと言え(露語)」
私「十字架にかけられるのと、知り合いのマフィアに紹介されるのと、どちらがいい?(露語)」
私「われわれはグローバルにビジネスを展開しています。(露語)」
詐欺師「ハロー。(Change of ownership formを写真で送る)」
私「おまえの後ろにMI6がいることは知っている。だが、我々がそんなに単純だとは思わないでほしい。(露語)」
天網恢恢疎にして漏らさずって、
天の網は悪人を捕らえるはずだから悪人がのさばっているように見えるならそれにも意味があるんだよ、天の考えを人間如きが推し量るのは無意味だよって話らしいな。
ポストの内容は、韓国映画界の急激な浮き沈みを嘆くもので、「アジア初のアカデミー作品賞受賞(『パラサイト 半地下の家族』2020年)から数年で業界全体が危機状態に陥るなんて想像もつかない」というニュアンスです。実際、2025年現在、韓国映画産業は深刻な低迷期を迎えていて、劇場興行収入はパンデミック前の2019年の13.8億ドル(約1.91兆ウォン)から2024年は8.61億ドル(約1.19兆ウォン、38%減)まで落ち込み、2025年上期の観客数は前年比でさらに22%減少しています。<grok:render card_id="3c436b" card_type="citation_card" type="render_inline_citation">
<argument name="citation_id">14</argument>
</grok:render> これが「こうなった」理由を、複数の要因から説明します。主にCOVID-19後の影響、投資の停滞、ストリーミングの台頭などが絡み合っています。
### 1. **COVID-19の長期的な打撃とバックログの枯渇**
- パンデミックで2020年の興行収入が急落(3.69億ドル、73%減)し、劇場閉鎖や外出自粛で観客が激減。韓国人の年間映画館訪問数は世界トップの4回から2.54回に半減しました。<grok:render card_id="e919e6" card_type="citation_card" type="render_inline_citation">
<argument name="citation_id">14</argument>
- 当時は制作中の「貯蔵フィルム」(パンデミックで公開延期された作品)が2022-2024年に大量投入され、年間35本以上の韓国映画が公開されましたが、これが尽きかけています。2025年の大手投資・配給会社の予定本数は10-14本と激減(前年の35本から大幅減)。2026年には本格的な「コンテンツ枯渇」が予想され、劇場は過去最高の228本のリバイバル上映に頼っています。<grok:render card_id="ff91fe" card_type="citation_card" type="render_inline_citation">
<argument name="citation_id">13</argument>
- 結果、2024年の37本の商業映画のうち、投資回収できたのはわずか10本。1,000万枚以上の大ヒット作がなく、3,000万人観客を突破する作品もほぼゼロです。
- 興行不振で配給会社の収益が2019年の5.68億ドルから2023年の3.16億ドルに減少し、外部投資家が撤退。制作費の高騰(ストリーミング作品への人材流出で俳優・スタッフの給与が上昇)も拍車をかけ、ミッドバジェット映画の緑灯が減っています。<grok:render card_id="eee1c7" card_type="citation_card" type="render_inline_citation">
<argument name="citation_id">14</argument>
</grok:render><grok:render card_id="d95dbd" card_type="citation_card" type="render_inline_citation">
<argument name="citation_id">13</argument>
- 投資サイクル(企画から公開まで2-3年)が遅れているため、2021-2022年の投資凍結が今頃直撃。2025年の公開予定が少なく、業界全体の「悪循環」(低収益→投資減→低予算→質低下→さらに低収益)が加速しています。<grok:render card_id="48d7f8" card_type="citation_card" type="render_inline_citation">
<argument name="citation_id">13</argument>
### 3. **ストリーミングの台頭と視聴習慣の変化**
- NetflixやDisney+などのグローバルプラットフォーム、国内のTving・Wavveなどが人材を吸い上げ、映画からドラマ・シリーズ制作へシフト。監督や俳優の「ブレイン・ドレイン」が起き、映画界のクリエイティブ力が弱体化。<grok:render card_id="117b82" card_type="citation_card" type="render_inline_citation">
<argument name="citation_id">14</argument>
</grok:render><grok:render card_id="e840a6" card_type="citation_card" type="render_inline_citation">
<argument name="citation_id">9</argument>
- 観客も自宅視聴(Netflixのモーテル配信など)に移行。劇場文化の衰退を象徴するように、2025年のカンヌ映画祭で韓国映画が10年以上ぶりに不在となりました。<grok:render card_id="93124d" card_type="citation_card" type="render_inline_citation">
<argument name="citation_id">9</argument>
</grok:render> パク・チャヌク監督は「劇場の危機が映画全体の危機だ」と指摘し、ストリーミング競争と消費者緊縮がスランプの主因だと語っています。<grok:render card_id="c502d4" card_type="citation_card" type="render_inline_citation">
<argument name="citation_id">12</argument>
- 消費者側の「ベルト・タイトニング」(家計引き締め)で、娯楽費が削減。2025年上期の全国観客数は4,070万人(前年比37%減)と、2004年以来の年間1億人割れが目前です。<grok:render card_id="f81ce1" card_type="citation_card" type="render_inline_citation">
<argument name="citation_id">12</argument>
- 劇場チェーン(Lotte Cinemas、Megabox、CJ-CGV)の合併・閉館が進み、スクリーン数が減少し、業界全体の収益基盤が揺らぎます。<grok:render card_id="ceec83" card_type="citation_card" type="render_inline_citation">
<argument name="citation_id">14</argument>
『パラサイト』の快挙で韓国映画は世界的にブームを巻き起こしましたが、パンデミック後の回復が不十分で、構造的な問題が露呈した形です。業界は政府の救済基金(1,400億ウォン規模)やクーポン発行、AI活用、海外共同制作などの対策を求めていますが、回復には時間がかかりそうです。
滋賀県に住んでいる。
周りはほとんど車を持っている。
「姉の彼氏が社会人なのに車持ってなくて、親が少し懸念を示してる」といったニュアンスの話があって、とても驚いた。どうやら、車がただの利便性だけでなく、「一人前の大人として必要なアイテム」としても機能している文化圏があるらしいというカルチャーショックを受けた。
まず私は運転できないから、車があっても別の交通手段を使うし、夫の職場は自転車で10分くらいだから、準備や駐車時間、通勤ラッシュをを考えたら自転車のほうが早い。多分車を買っても自転車通勤すると思う。私の職場も徒歩圏内だ。そして、「子供が産まれたら車が欲しくなる」という意見もあるが、子供を産む気がないのでこれにも該当しない。
そうなると、購入費や維持費を考えたら、タクシーを使った方が明らかに安い。それに、多少高くついても「自分で運転しなくていい」「移動中の時間を自由に使える」というメリットを考えたら絶対タクシーのほうがいい。それに、ある程度長距離の移動なら新幹線とか鉄道を使いたい。その方が事故率が低くて安全だから。そう考えると車を持つのはコスパ悪いの極みなんだよね。
でも最近、夫がそろそろ車を買おうかなと言い始めたので、なんとかして阻止したい。あんな危険でコストがかかる乗り物いらないよ…。
しかもよくわからないのが、夫は車に興味がなくて、「中古の軽自動車とかでいい」って感じの人。なんなら車自体は私の方が好きだと思う。もし石油王とかになれたら、運転手付きのマセラティとか欲しい。だから逆に夫が、マセラティとはいわないまでも、クラウンとかを欲しがるならまだ趣味とか見栄として理解できるんだけど、中古の軽とかコンパクトカーなんて、見栄にもならないし、この通り生活には車いらないし、無駄な出費でしかないって思っちゃう。
ある海外作品について、どことは言わないユーザー参加型のwiki?的なモノ?で「日本語版にはないけど、英語版だとこうなってるんだぞ」という記事があった。
そして、少し前に恐らくそのwikiをソースとして「英語版だとこうらしいぞ!」とSNSでとても話題になった。
発信源と思われる記事は既に修正されてる。wikiはそういう小回りが利くのが強みだ。
けど、みんなせいぜいバズったときに見るくらいで、後から追いかける人なんてほぼいないでしょ?
特定の人や作品を論いたいわけではないから存在しないセリフを例に使うけど、"Hi, how are you doing?"(「こんにちは」とか「調子どう?」程度の挨拶)を「あらゆる人生の困難を負い、今私はここにいる。それを素通りか? 大した態度だよ。挨拶してくれたっていいだろうにな?」くらいに訳す傾向がある。物語の中ではそのくらいのニュアンスを込めて意訳することもできるかもしれないけど、ちょっとばかし盛りすぎかもしれない。
確かに少々盛りすぎにも感じるけど、でも、決してこの方が悪いわけでもない。
その方の編集より前にネットで似たような事を書いていたwebサイトもwikiもあったことを確認した。
果たしてその方が参照していたかは知らないけど、ネット全体を見渡した時、大きな流れの中で「英語版はこうらしいな」という噂に噂が重なって少しずつズレていったんだと思う(なぜ誰も元ソースに当たらなかったんだ…)
だから多少盛る癖があったとしてもその方個人がダメとは思わない。
情報が100ずれていたとして、その方の訳はせいぜい2ずらした程度かもしれない。それまでにどこかで98ずれてきていたわけだ。
それに、ユーザー参加型のwiki?はみんなで誤まってみんなで正して少しずつ正しい情報へ近づくことを期待する集合知のシステムだから、誰かが悪いと言うのは違う。
間違うことが悪になっちゃったら誰も参加しないだろうし。俺だってやだし。
それを言ったら記事が間違っていたと嘆く俺が正しい保証だってないし。元ソースには当たったけども。
wikiは正常に機能している。既に正しい内容に修正されている。
結果的に誤まった記事を書いた人も悪くない。それは結果論だし、そもそも良いの悪いのの話ではない。
でもそうなってくると間違った情報が広まってしまったことへの悲しさはどうしたらいいんだろうねって…。
A おめでとうございます 2013年の実質賃金を100としたら2025は90です
B 10年でそれくらいなら健全というか理想的な推移じゃないの、経済学的には。
Bさんの言っていることがよくわかりません。 経済学的には実質賃金を下げるのが健全で理想的なのですか? 経済学的に基づいて幅広い視点をください
ざっくり言うと、「経済学的に “実質賃金が下がるのが理想” なんて理論はない」です。
Bさんの発言は、多分かなり雑&一部だけ見た話で、「健全」「理想的」という言葉が強すぎます。
実質賃金:物価上昇を差し引いた、“給料でどれだけモノやサービスが買えるか” の力
という意味です。
単純に言えば、暮らしはそれだけ苦しくなっている、という方向の数字です。
これが「健全」「理想的」とは、普通のマクロ経済学では言いません。
ざっくりした前提:
とはいえ、一部の状況では、「実質賃金が下がること自体が必ずしも悪ではない」
という議論はあります。Bさんは、もしかするとこういう話をざっくりつまんで言っている可能性があります。
実質賃金が少し下がることを許容
経済学では、
「賃金が硬直的(下がらない)だと失業が増え、不況が長引く」という議論があります(ニューケインジアンとかの失業モデル)。
この観点だと
という言い方は一応できます。
多分Bさんはこういうイメージで「健全」と言ったのかもしれません。
ただしこれは
「下がることが理想」じゃなくて「下がらないともっとひどい事態になる時もある」
特にユーロ圏の南欧(ギリシャ・スペインなど)では、通貨切り下げができない代わりに
「内部切り下げ(インターナル・デバリュエーション)」=実質賃金を抑えることで競争力を取り戻す
これも、
それでも、失業率20〜25%みたいな超絶不況を抑えるために、
1年あたりざっくり 1% ぐらい購買力が削られているイメージ
モノの値段が上がるのに、給料がそれについていかない状態が続いている
普通に考えて
「実質賃金が増えない国」より
「実質賃金が増える国」の方が生活の満足度・将来不安の少なさは高くなりやすい
世界的には、多くの先進国で2010年代〜2020年代にかけて
実質賃金は 横ばい〜やや増加 が多い
日本は、実質賃金・労働生産性の伸びがかなり弱い国としてよく比較に出されます
なので、「10年で10%減」は、国際比較的にも「理想的」とは言いづらく、
まとめると:
なので、Bさんの発言は
「インフレや失業を考えると、実質賃金が必ず右肩上がりでなくてもいい」
という主張として受け取ると、ほぼ間違いと言っていいです。
✅ 経済学は「実質賃金を下げるのが理想」と言っているわけではない
✅ むしろ長期的には「生産性と実質賃金が一緒に伸びる」のが望ましい
たぶん「別に何も変わらないよ」と言う人が大半だろう。 でも「いや、けっこう決定的に何かがズレる」かもしれない。
授賞式のあと、記者会見で村上春樹は、たぶんいつもの調子で、少し照れながら、淡々とした英語でステートメントを出す。
猫とか、走ることとか、ジャズとか、そんな話題がちょっとだけ混ざる。
スウェーデン語、英語、中国語、アラビア語、スペイン語、いろんな言語で彼の言葉が翻訳される。
「村上春樹」という固有名と、「ノーベル賞」という単語が強く結びついたことで、アルゴリズムが「この人の言葉は、特別な重みを持つ」と判定してしまう。
その結果、彼のインタビュー記事だけ、ほんの少し「やわらかく」翻訳されるようになる。
本来なら “I just write what I can write.” と訳されるはずの文が、別の言語では「自分にできることを、ただ静かに続けてきただけなんです」と、余計なニュアンスを帯びてしまう。
でも、世界中の翻訳メモリの中で、「誠実な揺らぎ」とでも呼ぶべき偏りが、じわじわと蓄積し始める。
棚を整理していた店主が、ふと「ノーベル賞作家コーナー」を作ろうとして、手を止める。
新潮文庫の『風の歌を聴け』を手に取って、ドストエフスキーやカミュの横に置くか、それとも日本文学コーナーに残すか、悩む。
たいていの店主は、日本文学棚から一冊だけ抜き出し、「ノーベル賞」のプレートの下に、さりげなく並べる。
その瞬間、棚全体の「重心」が、ほんの数センチ動く。
カミュの『異邦人』の隣に『ノルウェイの森』が来る店もあるし、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』の脇に『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』が差し込まれる店もある。
知らない誰かが、そこで一冊を手に取る。
「ノーベル賞作家なら読んでみようかな」と思って買う人もいれば、「高校のとき挫折したけど、また読んでみるか」とレジに持っていく人もいる。
その「もう一度読んでみる」という行為が、実はけっこう世界を変える。
ひとつの物語を、異なる年齢で読み直すことは、人生の時間軸をちょっとだけ折り曲げるからだ。
遠くない未来、日本のどこかのワンルームで、小説を書いては消している人がいる。
それまでは、締切のたびに「どうせこういう文体はもう古い」と思って、原稿をフォルダごと消していた。
けれども、ニュースで「村上春樹 ノーベル賞受賞」という文字列を見た夜、指が止まる。
「時代遅れ」と心のどこかで断罪していた「一人称で、ちょっと距離のある語り口」や、「よく分からない井戸」や「耳の形の描写」を、もう一度だけ許してみようと思う。
その人は、削除済みフォルダから原稿をサルベージして、改稿し、応募する。
数年後、ひっそりとデビューする。その作品は大ベストセラーにはならないが、誰か一人の人生を確実に変える。
それを読んだ別の若い誰かが、「こういう小説を書いてもいいんだ」と思う。
この連鎖が続いた結果、20年後の日本文学史の片隅に「ポスト春樹的な何か」という、名前のつかない小さな潮流が記録される。
ノーベル賞受賞後、世界中の出版社は、村上春樹の作品をさらに多言語に翻訳して売り出す。
その新しいデータが、大規模言語モデルの学習コーパスに流れ込む。
従来のAIなら、「休息を取りましょう」「専門家に相談しましょう」といった、正しいけれど味気ない答えを返していた。
しかし、そのモデルは、学習した村上春樹的なリズムをうっすらと真似て、こう返す。
「ひと晩だけ、よく眠れる街に行ってみるといいかもしれません。
コインランドリーと古いジャズ喫茶があって、誰もあなたの名前を知らないような街です。
そこで洗濯機が回っているあいだ、お気に入りの音楽を一曲だけ聴いてみてください。
世界は、それだけでほんの少しだけ、違う顔を見せることがあります。」
それを読んだ人が、「なんか、分からないけど少しだけ楽になった」と感じる。
たった一人の気分が、5ミリだけ上向く。
バタフライエフェクト的には、それで十分すぎる。
村上春樹の受賞は、「売れている作家」「広く読まれている作家」が、必ずしも軽んじられるべきではない、という前例になる。
それまで「実験的すぎて一般には読まれない」ことが価値とされていた傾向が、ほんの少しだけ揺らぐ。
「世界中で読まれていること」と「文学性」が、必ずしも対立概念ではないのかもしれない、と誰かが言い出す。
その議論の延長線上で、今までは候補にも挙がらなかったタイプの作家が、リストに入る。
その人はインタビューで「十代のころに、村上春樹がノーベル賞を取ったニュースを見て、『あ、こういうのでもいいんだ』と思ったんです」と語る。
村上春樹の受賞は、別の誰かの受賞の「前提条件」に化ける。
バタフライの羽ばたきが、遠い未来の別の嵐の「初期値」になる。
仕事の帰りにコンビニに寄って、スポーツ紙の一面を見て、「マジか」と小さく笑う。
家に帰って、本棚の奥から、大学生の頃に読んだまま放置していた文庫本を取り出す。
ページをぱらぱらめくると、線を引いた覚えのない箇所に、うっすら鉛筆の跡がある。
「この一文に、あのとき引っかかっていたんだな」と、昔の自分に少し驚く。
今読んでみると、当時は気づかなかった別の箇所が刺さってくる。
たとえば、こんな感じの一節:
「世界というのは、だいたいいつも、わずかにバランスを崩しながら、それでも何とか立っているようなものなんです。」
(これは架空の文だけど、春樹っぽさは伝わると思う)
読み終わったあと、あなたはスマホを手に取って、誰に送るでもないメモを書き始める。
それを翌朝読み返して、「案外悪くないかもしれない」と思う。
消さずに残しておく。そのメモが、数年後、何か別の形――ブログか、小説か、子どもへの手紙か――に変わるかもしれない。
村上春樹がノーベル賞を取ったことで、あなたの中の「書いてもいいかもしれない何か」が、ほんの少しだけ動き出す。
世界規模から見れば誤差だけれど、あなたの時間軸にとっては、十分に大きな揺らぎだ。
7. 世界はそんなに変わらない、でも「読み方」は変わる
戦争が止まるわけでも、景気が劇的に良くなるわけでもない。
満員電車は相変わらず混んでいるし、会社の会議は相変わらず退屈だし、洗濯物は相変わらずたまる。
でも、「世界の読み方」は、少しだけ変わるかもしれない。
そんなふうに、日常の現実に、うっすらと「物語のレイヤー」が重なる。
「世界を物語として読む人」が、ほんの少しだけ増える出来事なのかもしれない。
そして、バタフライエフェクトというのは、
ならなんでわざわざ暇がないとか書きにきたの?
俺がお前のトラバを欲しているという文脈なら「欲しがってるものをあげないよーw」ってニュアンスの煽りとして理解できるんだが文脈がその真逆だからな。
それこそこの文脈のなかでわざわざそんなことを書く理由としては、優先するのはfgoだけど時間があったら俺の相手もできるのになあ…ってもどかしさ=悔しさが滲ませてるように見えてならない
dorawiiより
-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE----- Hash: SHA512 https://anond.hatelabo.jp/20251206041455# -----BEGIN PGP SIGNATURE----- iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaTP8lAAKCRBwMdsubs4+ SKvnAP9F27FarFWGq6cKKL2dcuUllJZxjkimyBiONe9AhOiD0wD9EXa+85X3Xd4T JPNP7CPCh2JdSQCo71nXYX9qD8GoJQo= =7Szg -----END PGP SIGNATURE-----
https://youtu.be/Nxp7HruM77c?si=nsf1mjslLlSegZCm
たとえば「萌え」も「伏線」も定義が曖昧なまま推論が組み立てられていく。
定義が曖昧というか、一面を切り取って辞書みたいに「萌え=〇〇」「推し=〇〇」みたいな。
こういう言葉って、使われる時代や文脈(『萌え』なんて何年使われてるんだ)も、使う人のリテラシーもバラバラだと思うんだが……。同じ言葉を使っていてもよくよく聞いたらニュアンスが違うなんてこともあるんじゃないのか?(そのこと自体は否定するつもりはない。むしろ健全だと思う。あくまで推論の出発点として地盤が緩いということ)。
なんでもかんでも「定義」が要るとは思わないが
「『萌え』は可愛いって思う感情だけなんですけど」「推しの場合は『見返り』があって」と言い切ってどんどん話が進むので、納得がいかない。
ドラマを『考察』して(この先の展開や作者の意図=『正解』を当てようとして)視聴している人が増えていて……という話も、ひとことに「増えている」とは?そういう人たちが目につくようになった、ならわかるけど。それでひとくちに「若者」「令和」とくくるのって、思い切りが良すぎないか?
この文章は、確かに煽り文句として強烈ですが、少し問題があると思います。いくつかの点を批評してみます。
⸻
• ターゲットが誰なのか、また その目的 が曖昧です。文章の中で「弱そうな奴らに言い続けよう」と書いていますが、具体的に誰を指しているのかが不明確。誰を貶めようとしているのか、またその意図が読み手に伝わりづらくなっています。
• 目的が「煽り」や「侮辱」にあるのだとしても、読み手にとってその意図がわかりにくいと、単に攻撃的で無意味な文章に見えてしまいます。
• 「骨無し」「弱男」「チキン」 は確かに侮辱的な言葉ですが、攻撃的で過度な表現は逆効果になることが多いです。特に「ヤンナム」という表現は韓国語を使っていることにより、 不必要な人種差別的なニュアンスを含んでしまう可能性があり、批判を招くことになります。
• また、「チーズ牛丼」「骨無しヤンナムチキンセット」という形で、あたかも特定の人々を一つのステレオタイプに押し込めている印象を与え、 過剰な偏見や差別的な印象を強調しています。こういった表現は読者を不快にさせるだけでなく、侮辱として受け取られることが多いです。
• この部分の反論「私は美味しそうな韓国料理の名前出しただけですよ?何を怒ってるんですか?繊細ですね?」は、いわゆる「スットボケ」というスタイルですが、ちょっと不自然です。相手が怒ったとして、その反論が 言い訳として成立しない と感じる読者も多いはず。
• もし本気で言い訳をするのであれば、もっと説得力のある理由を考えたほうが良いでしょう。「単なる料理の名前」と言っても、その文脈では明らかに侮辱が含まれているので、受け手はそれを無視できません。
• 「ブヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww」などの繰り返しの表現は、 冗長で不快 です。笑いの部分が過剰に書かれており、真剣さや一貫性が欠けて、文章が軽く感じられるため、説得力が薄くなります。
5️⃣ 総括的な印象
この煽り文句は、確かに攻撃的で挑発的ではありますが、その 目的やメッセージが明確でなく、他人を不快にさせる可能性が高い です。煽りや侮辱は確かに一時的に感情的な反応を引き出すかもしれませんが、 その後の人間関係やコミュニケーションに悪影響を与えることが多いです。
さらに、文化的・人種的な敏感さに欠ける部分があり、無自覚な差別や偏見を助長しかねません。このような言葉を使うことで、正当性を持たない攻撃に過ぎないと見なされることもあります。
⸻
💡 改善案
もしこの文を煽りの目的で書きたいのであれば、 相手を傷つけない ように工夫し、また 無駄に人種的・文化的に攻撃的な要素を排除することが大切です。例えば、もっとユーモアや皮肉を交えた形で、悪意を減らすことができれば、読者が共感しやすくなるかもしれません。
また、 言葉の選び方やニュアンスを慎重にすることで、意図を明確に伝え、反発を避けつつも効果的なメッセージを送ることができます。
じゃあなんでわざわざ暇がないとか書きにきたの?
俺がお前のトラバを欲しているという文脈なら「欲しがってるものをあげないよーw」ってニュアンスの煽りとして理解できるんだが文脈がその真逆だからな。
それこそこの文脈のなかでわざわざそんなことを書く理由としては、優先するのはfgoだけど時間があったら俺の相手もできるのになあ…ってもどかしさ=悔しさが滲ませてるように見えてならないんだけど当たってないの?
dorawiiより
-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE----- Hash: SHA512 https://anond.hatelabo.jp/20251205002723# -----BEGIN PGP SIGNATURE----- iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaTKf0wAKCRBwMdsubs4+ SPF8AP9aXHBN/GrPYlsNm2gZUepprF5dI/wxnFfdqdoN6O8LsAEAzDcn92ggo3T2 mVKxNIqT7WorUvxG1jd1zh8ba4CI7g0= =BeaH -----END PGP SIGNATURE-----
(悪の教典-序章-)蓮実のポイントは二面性。普通のキャラクターだと朝と夜で気持ちの変化もあるし、ニュアンスも変えていかなければいけないけど、蓮実はとにかく2つの顔をごく自然にこなしていくて、彼は人間だけが持っている共感能力という点だけが人として欠けている。
OCGは面白いと思うけど、正直言って他のTCGをみると本当に遊戯王は古臭くてダサいなって部分が多い
遊戯王と言えば、上部にモンスターの名前、属性、レベル、イラスト、効果とくるのはみんな知っているだろう
モンスターは基本茶色で、シンクロエクシーズなどは白・黒といった感じ
それ自体は慣れればいいんだが、ちょっとでもほかのTCGと並べてあると「あーーうん、遊戯王のデザインだな」と消極的な気持ちになるのは否めない
イラストの枠がかっちりきまっているからか、どうしても窮屈なデザインとUI
昔の「ほーむぺーじ」を見ているような感覚がある
あと、全体のバランスがとても悪いんだよな
効果テキストが一番注目されるはずなんだが、ここが全体の3分の1未満の容量しかない
そこに詰め込めるだけ詰め込んでいるからすごく読みづらい
何で一番大事な部分が一番読みづらいんだろうか
棒立ちのモンスターがぐるぐる背景の前にいる印象だと思う
まあそこまで酷いのは近年は少ないけど、ぶっちゃけあまり変わらないと思うよ
https://www.db.yugioh-card.com/yugiohdb/card_search.action?ope=1&sess=1&pid=1000009535000&rp=99999
悪く言えば「証明写真」
でも正直、遊戯王のあの古臭いカードデザインの中に押し込むと途端に「いつもの証明写真」になってしまう
もちろん魔法罠はそこまでのっぺりはしていないし、気合を入れているカテゴリーは背景も段違いだ
だけど半数はJ2の証明写真みたいに躍動感が足りず面白みが薄い
まあ遊戯王している人はごちゃついたイラストがたぶん好みじゃないってのは確か
フレーバーテキストってわかる?
カードのどこかにある、効果テキストとは違うモンスターたちの情報を書いたおまけみたいなもの
他にはこんなのがある
謎の呪いをかけられて竜魔族に似た竜の力を発現しているが、
自律型増幅器「PSYフレーム」を駆り、セキュリティ・フォースに強襲を仕掛ける。
その姿は、正に電光石火の如し。
こういうのはストーリーの補完的な意味もあり、実際にフレーバーの中でのみ語られるストーリーは存在する
世界観を語ってるとすれば、DT世界のクリフォートツールが面白いかなと感じ程度
ああいった世界観を表現するにはフレーバーテキストがうってつけだと思う
だけど、基本的に遊戯王って「このモンスターはこういうのです。強いです」的なニュアンスしかない
一言であらわすと手抜きだよな
フレーバーテキストってTCGではおなじみだし、別になくてもあってもよいものなんだ
だけど各社は伝統的にフレーバーを入れたがるし、各社がそこそこ工夫をしている
TCGによっては各パックの中で優秀なフレーバーを投票している動画を上げていたりする
それに比べると遊戯王のフレーバーテキストって、単純に数が少ない上にほとんどが糞ダサ手抜き文章ばっかりなんだよな
ほんの一握りの世界観を現したフレーバーをみんなでわっしょいしているのが現状
そういうと「遊戯王はフレーバーで勝負していない」っていう人いると思うけどさ、他のTCGで普通にやってることできていないんだからさ
これは本当に感覚的なものなんだが、遊戯王はあのせまいテキスト枠の中でできるだけ効果を詰め込むことに全力を費やしているためか、非常に遊びが少ない
別に遊戯王のテキストが分かりづらいとは思わないし、数年前から劇的に良くなっていると感じる
けど逆にいえば似たり寄ったりな説明文を延々と読んでいる感覚に陥る
最近のTCGは初見でも理解しやすいよう開発の段階からテキストの工夫がみられる
色分けして発動条件がはっきりしているのがもはや普通
けど遊戯王って各カテゴリーごとのフレーバー的なものが本当に感じられない
全部平文で黒い文字だけで表現されているからってのが一番だけど、それにしたって硬い文章に感じる
そのわりになぜか冗長なんだよな
総合ルールに裏付けられていないから自由律なはずなのに、なんか妙につかみづらい印象がある
遊戯王に慣れた人が他のTCGを見下す傾向があるのは、たぶんこういうテキストの読み込みが得意な古参が生き残ってるせいもあるんじゃないかな?
俺はこんな文章もスラスラいえるんだぜってなんかドヤってそう
ただし俺にとっては他のTCGと比較して極端に小さな文字で硬くて冗長な文章が並んでいるのはちょっと今の子供には厳しいんじゃないかなって思う
毎回そうなんだが、インフレを意図的に起こして禁止改訂で調整するというスタイルはもう疲れるんだよなあ
ぶっちゃけコナミが日銀トップになれば日本経済変わるんじゃね?とはいつも思う
そして毎回思うんだが、禁止改訂の理由ってまるでわからないんだよな
全てにおいてユーザーの動向に寄せているから反発がほとんど起きないのだが、じゃあMDとかで禁止されたカードがどういう経緯で禁止になったか、今後どうすべきかとか誰もわからない
俺はMTGもするからMTGの開発日記とか改訂のたびに発せられる言い訳ブログとか読むわけだ
他のTCGだって改訂に対してほんの少しの理由を添えたり、レギュレーション導入においてオキモチ表明していることだってある
でもさ、遊戯王ってそういうのないんだよな
なんていうか、遊戯王の開発側の声ってユーザーにはほとんどわからない
それがどうしたって思うだろうけど、俺としては「もうちょっとなんかないの」と毎回思うわけだ
遊戯王がショップに並んでいると時々そこだけ時間が止まって見えることがある
まあそれがいいともいえるけどね
でも本当にUIはWindowsXPどまりなの、ユーザー側が指摘して欲しいんだよな
新規こねーぞ
ミケランジェロの言葉として広まる「やる価値のあることなら、たとえ下手でもやる価値がある」という文句は、実際にはG.K.チェスタートンに帰されることが多い。
しかし、その出典を正確にたどろうとすると、すぐに違和感に突き当たる。多くの名言集やウェブサイトが『What's Wrong with the World』(1910)の一節として記しているものの、該当箇所を開いても、その文章は見当たらない。
特に“Part III, Chapter 17 ‘The Universal Stick’”が出典と断言する資料は少なくないが、原文を確認すると、そこには有名な台詞どころか、意味的に近い表現すら存在しない。
では、なぜこの誤出典が広まったのか。第一の要因は、二次資料の“連鎖的誤引用”である。
ある引用辞典か、あるいは早期のインターネット記事が、誤って「Universal Stick」を出典として載せたらしい。
これが名言サイトやブログに複製され、さらにはAIによる自動収集・補完によって信頼度の高い情報のように見えてしまった。典型的な“情報の雪だるま化”である。
『What's Wrong with the World』は、版によって章の区切りや通し番号が異なる。
ある版では“Chapter 17”がPart IIIの末尾に置かれている一方、Project Gutenberg版では同じ章が“XIV”としてPart IVに移動する。
このため「17」という数字だけが独り歩きし、誤った章名と結びつけられた。
第三に、名言の思想的背景が『Universal Stick』の論旨と似ていたことも混乱の一因である。
この章では専門化への批判や“万能性”が語られ、アマチュア精神への擁護というチェスタートン特有の思想が展開される。
名言の持つニュアンスとも重なり、「たしかこの章だったはずだ」と思い込みやすかったのである。
では、チェスタートンは本当にこの名言を言っていないのだろうか。
しかし、Part IV “Education” の章には「何かをする価値があるなら、それ自体のためにする価値がある」といった趣旨の文章があり、名言はこれをより印象的に再構成した“後世のパラフレーズ”であることが分かる。
チェスタートン研究家のDale Ahlquistも「正確な文は存在しないが、思想は確かにチェスタートン的である」と述べている。
つまり、この名言はチェスタートンの精神をよく表してはいるが、厳密な原文ではない。
誤引用の背景には、版の混乱、意味的類似、そして二次資料の連鎖という複数の要因が積み重なっていた。名言の真偽を辿る過程は、引用という行為そのものがいかに脆く、また魅力的であるかを物語っている。
正確さを求めて原典を開くという地味な作業が、思いがけず豊かな発見をもたらすこともある。
今回の調査はその好例であったと言えるだろう。