はてなキーワード: ハッピーとは
時々海外在住の方が Why I left Japan のような動画をあげているが,その大半が「日本での苦境や日本のカルチャーに合わなかったけど,移住して今はハッピーみたいな!」ストーリーを共有している(そして自分はそれをなぜか見てしまう).
長期で滞在できるビザ(ましてや永住権や市民権)を取得できる人はかなり恵まれている・運がいい部類だと個人的には思う.
そもそもその国に役に立つ人間でない限り,普通はビザがでない.例えば滞在国に仕事がある人だが,そこに行き着くまでのスキル・学歴・コネなどを得られる人はエリートの部類だと思う.
仕事がなくても運よく現地の人と結婚してパートナービザまで行く場合もあるが,これもかなり運の要素は大きいと思う(幸せになれるという点でも).
毎年クリスマスや正月のような宗教色の強い時期になると思い出すので備忘録として書いておこうと思う。
とても長くなるので読んでも読まなくても構わない。
粗はいくらでもあるが、当時小学生のお子ちゃまが頭を振り絞って考えたことだったので生暖かく見ていただければ幸いだ。
当時通っていた小学校はお受験が盛んで、クラスの半分以上が中学受験するような学校だった。中には体育や道徳など勉強に関係ない授業が多い日は学校を休み塾へ通うように親に指導される子供がいるような学校である。
そんな雰囲気の学校だったため増田も塾に通わされていたが、増田の親は仕事が忙しく放任主義だったため、どちらかというと自由に延長できる学童のような使い方をしていた。親が帰るまで子供1人は心配だから大人がいる塾で勉強して暇を潰しなさい、という発想かと思う。
朝から晩まで勉強で楽しくないし、学校の教師は子供達に学校で勉強させようと胡麻擂りに必死だし、塾ではライバルたちと比較される。お子様なりにフラストレーションが溜まっていた。
小賢しく、自尊心が高く、承認欲求が強く、何よりも勉強以外で暇を潰したかった増田はそこで考えた。
当時の増田の立ち位置は「1軍グループにいるけどちょっと浮いてる変なやつ」だった。友人Aと友人Bの親友というだけで残酷な子供達のカーストの中で辛うじてバラモンの仲間に入れてもらっていた。友人Aと友人Bの存在がなければきっとダリットだったと思う。
とにかく、増田には2人の親友がいた。勉強もスポーツもできて誰からも一目置かれる友人A、とにかく話がうまく誰とでも仲良くなれる才能がある友人B。
入学した時にたまたま席が横並びになったというだけの出会いだったが、それからこの2人はこちらが申し訳なるくらい良くしてくれ、そのおかげで陰キャで性格がドブカスだった増田も「みんな仲良し♪」の仲間に入れてもらうことができたのである。
表向き友人Aも友人Bもみんなの前では「気のいいやつ」だったが、実は2人とも性格にはかなり難があった。いや、だからこそ増田と仲良くなれたのかもしれないが。
友人Aはなんでもできるからこそ傲慢で、支配欲がある。少し早い厨二病であり、大きな声では言えないがナチに憧れていた。大きな声で言わないところが実に打算的であり、増田はそこが気に入っていた。
友人Bはとにかく人からの評判を気にしていて、いつも自分の悪口を言われていないか怯えていた。それと同時に人の内緒にしておきたい部分を暴くのが大好きで、いつか何かあった時に脅せるように、仲良くなって秘密を握ることで快感を感じる癖があった。
増田はといえば親友2人を自慢に思うとともに、増田の言うことを疑いもしない人気者2人を操る優越感に浸るクズだった。
そんな悪友2人に、こんな面白いことを共有しないわけにはいかないと増田は思った。
「いいね、やろう」と友人Aは言った。
増田は「こいつら話が早すぎるな」と思った。
そうして、宗教を作ることになった。
増田はキリスト教圏で育ったので神の存在に関しては割と思うところがあった。
思想と宗教の違いは難しいが、神の存在を論じられるほど増田の信仰は深くなかった。ただ、人間の熱狂は宗教になりうる、と子供心に感じていた。
小学生だった増田の狭い狭い世界の中で、唐突に宗教を作ろうと思ったわけではない。「これはいける」と思った出来事があった。
どの小学校でも道徳の授業があったと思う。お受験組の気を引こうと躍起になっていた当時の担任は、その道徳の授業で「いいこと投票」というものをしていた。
その名の通り単純で、「いいことをした人を匿名で投票して、得票数が高かった人を表彰する」という仕組みである。
これは単純だが、小学生の承認欲求をかなりくすぐった。なにしろ、いいことをするだけで教壇の上で褒められ、その上シール(子供にとってのシール!史上の喜び)を授与されるのである。名札の裏にいいこと投票のシールを貼るのがステータスになるのにそう時間はかからなかった。
増田はヒネた子供ではあったが、それでも投票されたら悪い気はしないし、いいこと投票が頭をよぎって人助けをすることもあった。
それと同時に、「これは使えるな」と思った。
増田が育ったキリスト教の教えでは、善行は死後の世界のために積むものとされていた(諸説ある)。だが、小学生にとって死後の世界など遠い存在である。「善行を積めば人々から尊敬されるという承認欲求」の方が何より魅力的なのではと思った。
3人の意見はまとまった。
その週末、3人で図書館に行った。親は大喜びでお駄賃までくれたが、目的は宗教について調べることであった。当時インターネットはかなり普及してきていたが、学校のコンピューター室で宗教のことを検索するのはかなり気が引けた。そこで図書館へ行くことにした。
一日中調べて回って、以下のことを決めた。
小学生なりに考え、実行に移せる最大限を考えた。
結成時に十数人を集めて行った友人Aの演説は素晴らしいものだった。増田が授業中書いた原稿と同じ文言とは思えないほど力に満ち溢れ、説得力があり、心に訴えかけるものがあった。その場にいた全員が信者になると誓い、お札を下駄箱に貼り付けた。
友人Bの勧誘も実に巧みだった。誰に話せば一番噂が広まりやすいかを友人Bは知り尽くしていた。すぐに手元にあったお札はなくなり、増刷をすることになった。学年のほとんどが入信し、シールは飛ぶようになくなった。匿名投票のための空き下駄箱は常に紙が入っている状態で、ランドセルの蓋にシールを貼るのが大流行した。
3人はそれで満足し、たかを括っていた。小学生の拡散力を舐めていたのである。
夏が来て塾の夏期講習が始まってから、他校の生徒に声をかけられることが多くなった。もちろん入信の申し出で、最初は喜んで案内をしていた。
だが、20人を超えたところで不安になり始めた。なにしろ、塾でしか会わない人間である。匿名投票の匿名性は失われ、よく知らない人間の善悪を判断しなければならない。
3人は作戦会議をし、組織化をしなければならない、と結論を出した。信者たちを支部に分け、各支部ごとに信者たちをよく知る支部長を置くことにしたのである。
それと同時に、今まで全て3人で行っていた運営にテコ入れをすることにした。
まず、専門のデザイナーを雇った。非受験組の絵が得意な信者にシールとお札のデザインを一新させた。毎月シールの図柄を変え、飽きの防止とインフレの防止を図った。
また、情報屋も雇った。告解で得た情報でさらに価値のある情報を交換するためである。これは画期的で、「この秘密を話すので誰々の好きな人を教えてください」とかが大変多くなった。
支部長の下に秘密で内部監査官も置いた。これは支部長の不正や信者との癒着を告発させるためである。
組織化したことにより、3人の地位は確固たるものになった。カリスマ的教祖の友人A、人に響く教えを説く友人B、善悪を裁き組織をまとめる増田。
夏休み中もムーブメントは衰えを知らず、信者は増え続けた。3人は有頂天になっていた。
そして学校が始まり、始業式の後、3人は応接室に呼び出されたのである。
〇〇〇〇教は教師陣の間にも知れ渡っていた。
一つの学校ではなく塾や習い事によりその地区の他校にも伝播した〇〇〇〇教の信者は把握できるだけで数百人を超えていた。
夏休み中、先生方は連携をとり、学校再開とともに終わらせようと話し合いがされていたらしい。
説教は3時間に及んだ。これは、先生方の話が長かったこともあるが、こまっしゃくれたクソガキだった我ら3人がいちいち反論を仕掛けたからである。
そもそも、我々は何も悪いことをしていなかった。ただ「いい人になろう」「いい行いをしよう」「いい人たちを尊敬しよう」と言って回っただけである。「ご利益がある」とお札を売りつけたり、告解で得た弱みを握って脅したりもしていない。ただ、善行を行わせて噂を流通させただけなのだ。
教師陣もそれがわかっていたのであまり強くは追及してこなかったのだが、我々があまりに舐め腐った態度をしていたのでだんだんヒートアップし、複数の教師が入れ替わり立ち替わり講釈を垂れ、最終的に「解散宣言をしなさい」と一方的に要求を押し付けてお開きになった。
応接室を出て、下駄箱に向かい、校門をくぐった瞬間、3人は爆笑しながらハイタッチをした。
「馬鹿め、もうそんな段階にないのだ!」と知っていたからだった。
子供と接しているのに大人である先生の皆皆様方は全くわかっていらっしゃらない。子供は禁止されたらもっともっとやりたくなるんだよ!
受験用に詰め込まれた知識であるキリシタンの気持ちがその時はよくわかった。抑圧された宗教は熱を増すのである。
隠語で呼ばれ、ミサと称した会合が秘密裏に行われ、塾に通うために学校を休んでいた層もせっせと体育館裏に足を運び秘密を囁くようになった。
教師陣は躍起になっていたが当時流行り始めた学校裏掲示板やmixiの日記などで〇〇〇〇教は着実に広まり、信者は増え、もはや我々3人の手に及ばないものになっていた。
知らないデザインのシールが増え、知らない告解が増え、知らない宗派ができていた。
秋が来て、塾で勉強している間に冬になった。
冬季講習の最終日、いつもの公園のジャングルジムの上に集まり、80円の缶ジュースで乾杯をした。
「そろそろやめよっか」と増田は言った。
「卒業、さみしいなぁ」と友人Bは言った。
正直、もうその段階ではないことはわかっていた。これはただの勝手な「一抜〜けた!」である。
教祖も司祭も裁判官も全てを誰かに押し付けて、こそこそと逃走するのだ。信者からすれば大きな裏切りであり、大罪だろう。
でもぶっちゃけ、飽きちゃったのだ。自分たちを置いて勝手に物事は進んでいくし、勝手に教祖を名乗るものも出てくるし、勝手に布教されているし、勝手に人が人を裁き始めるし。
だって子供だし、受験もあるし、そもそも進学したら続けられないし。
色んな言い訳をして、色んな人と話して、時にやり合って、押し付け合って、そうしている間に受験で学校に行かなくなって、ようやく卒業のために帰ってきたらどうやら全てが終わっていた。
あれだけ熱狂的だった信者たちは激減しており、卒業とともに誰かに譲られるためランドセルの蓋はシールなんてなかったように綺麗になり、空き下駄箱は使用禁止になっていた。
教室の後ろの「いいこと投票」の模造紙は取り払われ、「卒業おめでとう!」の垂れ幕に変わっていた。
友人Aは卒業と共に他県へ引っ越した。6年生になった時から決まっていて、増田たちと最後に何かしたい、と言っていたので「何か」は間違いなくできたと思う。
友人Bは志望校に落ちたので増田とは違う中学に進学した。あれだけ熱心に活動に勤しんでいたというのに引っかかったのは幸運だと自ら笑っていた。
増田は中学で若干いじめられそうになっていたが、入学した時に席が前後になった友人に助けられなんとかグループの輪に入れてもらい事なきを得た。教訓としては、コミュニティに入って一番初めにできた友人はなんとしてでも大事にした方がいいということだ。
それぞれ無事進学して、就職して、結婚して、最近はオンライン飲み会なるものを開催している。
この間、家族で親元へとUターン引っ越しをした友人Bが酔っ払いながら教えてくれた。
「最近、子供がランドセルの裏に変なシールをくっつけて帰ってきてさぁ」
友人Aはしばらく黙った後爆笑したが、増田は少し泣きそうになった。
この歳になると涙腺が緩くなって困る。
キリシタン、まだいるのかぁ。
A おめでとうございます 2013年の実質賃金を100としたら2025は90です
B 10年でそれくらいなら健全というか理想的な推移じゃないの、経済学的には。
Bさんの言っていることがよくわかりません。 経済学的には実質賃金を下げるのが健全で理想的なのですか? 経済学的に基づいて幅広い視点をください
ざっくり言うと、「経済学的に “実質賃金が下がるのが理想” なんて理論はない」です。
Bさんの発言は、多分かなり雑&一部だけ見た話で、「健全」「理想的」という言葉が強すぎます。
実質賃金:物価上昇を差し引いた、“給料でどれだけモノやサービスが買えるか” の力
という意味です。
単純に言えば、暮らしはそれだけ苦しくなっている、という方向の数字です。
これが「健全」「理想的」とは、普通のマクロ経済学では言いません。
ざっくりした前提:
とはいえ、一部の状況では、「実質賃金が下がること自体が必ずしも悪ではない」
という議論はあります。Bさんは、もしかするとこういう話をざっくりつまんで言っている可能性があります。
実質賃金が少し下がることを許容
経済学では、
「賃金が硬直的(下がらない)だと失業が増え、不況が長引く」という議論があります(ニューケインジアンとかの失業モデル)。
この観点だと
という言い方は一応できます。
多分Bさんはこういうイメージで「健全」と言ったのかもしれません。
ただしこれは
「下がることが理想」じゃなくて「下がらないともっとひどい事態になる時もある」
特にユーロ圏の南欧(ギリシャ・スペインなど)では、通貨切り下げができない代わりに
「内部切り下げ(インターナル・デバリュエーション)」=実質賃金を抑えることで競争力を取り戻す
これも、
それでも、失業率20〜25%みたいな超絶不況を抑えるために、
1年あたりざっくり 1% ぐらい購買力が削られているイメージ
モノの値段が上がるのに、給料がそれについていかない状態が続いている
普通に考えて
「実質賃金が増えない国」より
「実質賃金が増える国」の方が生活の満足度・将来不安の少なさは高くなりやすい
世界的には、多くの先進国で2010年代〜2020年代にかけて
実質賃金は 横ばい〜やや増加 が多い
日本は、実質賃金・労働生産性の伸びがかなり弱い国としてよく比較に出されます
なので、「10年で10%減」は、国際比較的にも「理想的」とは言いづらく、
まとめると:
なので、Bさんの発言は
「インフレや失業を考えると、実質賃金が必ず右肩上がりでなくてもいい」
という主張として受け取ると、ほぼ間違いと言っていいです。
✅ 経済学は「実質賃金を下げるのが理想」と言っているわけではない
✅ むしろ長期的には「生産性と実質賃金が一緒に伸びる」のが望ましい
だって、笑える小説とか本があったとして、それって、目の前に俺を笑わせてる話者がいるわけでしょ?😟
テレビでお笑いを観てたり、笑えるアニメを観てて、俺って孤独だなあ…、って思うことは普通なくない?
なんか、我に返るタイミングがあるとか、
ヤバイ、俺、このまま孤独死じゃん…、みたいに思ったりするからで、
これまでの全ライブみたいなリストがあったんで、それを観たり聴いたりしながら家事やったりしてたんだけど、
あの曲って、孤独感というより、なんか不思議な国に迷い込んで、元の世界に帰ってこないけど、なんか不幸じゃないみたいな、
昔、花とゆめだったか、少女漫画で、親とか同級生に虐待されてるような子供がいて、
猫になりたい、猫になりたい、猫みたいに自由になりたい、って願ってたら、
ラストで本当に猫になって、夜の街に飛び出していっちゃうんだけど、
ああいう感じがあるんだよね、寂しいけど、悲しいけど、なんかハッピーにも思える
社会に居場所がなかった子供が、猫になってしまう、あの漫画とかよく思い出すんだよねえ…😟
自分も似たようなところがあるから、それが孤独感では?というと、そうなのかもしれないけど、
自分もドロップアウトしたことで、逆に幸せになってるところがあるのかも?と思うことがあるし、
もちろん、全然幸福じゃないんだけど、世の中よくできてるというか、
ホッテントリに、有名人なるほど寿命が縮まる、幸せでなくなる、みたいな話があった気がするけど、
なんか、トータルで考えると、みんな意外と同じになったりするんじゃないか、みたいなところもあったり…😟
まあ、読書が孤独って、教室の隅で読書してる人を見るとか、他人が見ると孤独なわけじゃん
俺が教室の隅とか、美術室で絵を描いてるのを、他人が見れば孤独なんだろうけど、
産む人と育てる人を分ければみんなハッピー
ペテロの葬列だっけ?😟
主人公の妻の不倫相手が、ボクはずっと打算で生きてきた、みたいに言ってなかったっけ?
打算?妥協?
で、ドラマの方を観たので、主人公は小泉孝太郎なんだけど、あのドラマだけははまり役すぎて、
はまり役すぎるが故に、観ててときどき笑うシーンでなくても笑ってしまって…😟
で、妻も不倫相手も、自分に正直になって、ひでー女だなwなんだけど、
主人公も大企業会長の娘の夫という制約から解放されて、自分に正直になって探偵になる
ペテロの葬列のドラマは、自分は大企業会長役の平幹二朗が好きすぎて…😟
自分は不倫に走るとか、探偵になりたいとかはないけど、子供の頃の夢はある
そして、ずっと夢は叶わないと思っていた
でも、ふと思ったんだけど、死んだらもっと叶わないじゃん、絶対叶わなくなる
自分もどっちかというとそっちなんだけど、地獄がないと考えると、モラルがなくなるのが良くない、という宗派もある
オフィスビルのトイレ清掃で一生を終えるとしても、それが天職というものである
しかし、本当に天職なのか、自分の判断は正しかったのか、それは死んで初めて神さまがジャッジするものである
それまで人間は、自分の判断が正しいのか分からないまま、この世界でもがき続けるしかない
ペテロの葬列の主人公は、大企業の会長の娘の夫であり、その会社の安定した正規社員であり、社内報を作る温い部署で働いていたが、
詐欺事件を追っているうちに、自分はかごの中の鳥であり、自転車に乗って草原に飛び出す夢を見がちで、
私は無職だが、仕事があったこともある、人生まったくうまくいかなかったが、これも天職なのであろう
しかし、神さまを信じてはいるものの、私は何度か全身麻酔を経験している
考えただけで、非常に恐ろしい
何もない、意識もない、いきなりすべてが消えるというか、すべてが消えたという自覚がない
奈落の底に落ちるのなら、落ちる過程というのを体験するわけで、それはまだマシである
自覚がないのだ
一瞬で世界が消えるのだ
天国がいい場所にしろ、死んでしまったら、子供の頃の夢は叶わなくなる…😟
ずっと、夢なんて馬鹿げている、何を甘っちょろいこと考えてるんだ、現実を見ろ、打算で考えろ、妥協しろ、私もそうやって生きてきた
でも、ペテロの葬列のように、もう、その制約から解き放たれてもいいのではないだろうか?😟
打算や妥協に逃げないで、ずっと夢を叶えようと努力して生きれば良かった、と今更思っても手遅れであるが、
死んだら、本当に叶わない、
死者が復活できるのは、イエスキリストのみ、つまり神さまのみが復活できるのである
私は神ではない…😟
銃夢のジャシュガンの台詞にあったように、人間とは限られた存在であり、
石破さんの言う通り、増産したから価格が下がる、って農家の人たちまで否定的ですが、
海外に打って出て行けば、日本のコメは絶対認められるはずですよ
なにかと愛国心を見せびらかす日本国旗をアカウントに掲げている人たちが、
今日買ってきたキーコーヒーのガムシロップも中国やアメリカの人工甘味料ですし、
そういうところで、結局は持ちつ持たれつ、いきなり思い出したかのように、
安全保障が、とか言ったって、いきなり中国やアメリカに頼らない国になるわけがない…😟
なんだかんだ国産の安全性を日本国民がみんな理解してるはずです
ここで日本の農産物の安全性、おいしさを海外にもっと打って出るべきですし、
なんか進次郎の後釜が、この状況で減反だの、保守的、内向きなこと言ってますけど、
ロボットやAI、半導体なんかより、農産物で海外に出るべきぐらいに思ってます…😟
Cloudflare が海賊版運営サイトについて停止するようにと訴訟が起きてるんだってな。
詳しいことはわざわざ調べて無いが海賊版とインターネットについてちょっと思うことがあったんで垂れ流してスッキリしようと思う。
ISP と契約してインターネットを使えるようになるし、サイトを作りたい人間は自分のサーバーでも借りたサーバーでもホームページを構えることができる。
それで海賊版サイトを作った人が現れても ISP は滅多に訴えられない。 すぐに責任を取るべき人に責任を取らせられるからで、今回では身元を隠したままサイトを運営している人に対してどうやって責任を取らせるのか。
そんなところで Cloudflare が訴えられたんじゃないかなと記事をちらっと読んで感じたのが今さっき、『もう話題にするのおせーよ(笑)』ってのはナシで。
それで結局何を感じて何をこれから書こうとしているのかと言えば、作品の価値の感じ方を変えるべきなんじゃないかというある種の諦念を吐き散らして行こうと思っている。
インターネットがない頃、普及してない頃にもコピー機というのは存在していて、漫画も写真も複製出来て精度は悪いだろうがやろうと思えば出来たことで、当然それを流布すれば然るべき所に送られるだろう。
現実に目に見えるものだから今まで対策が出来たのではないか、対策が出来てなかろうと対処は出来ていたのではないか。
そういうのは当たり前に誰もが思ってる事かもしれないが、インターネット上で似たことをする輩のせいで不利益を被っているのが現状だと理解している。
今回では、母数が増えまくった事によってどうにも対処が出来なくなってしまったので Cloudflare へ矛先が向いたのだろう。
ああいう類のサイトが Cloudfront を利用していたら Amazon が訴訟されていただろうと思う。
こういうのはモグラ叩きのように事が発生次第対処しなければならないが、CDN などの基盤側がいちいちサイトの内容を確認する責任はないと思われていたのがこれまでの価値観だったと思う。
ただ、そのためのリソースを割くのは創作を行う側も、ただ web ページの負担を軽減させるサービスも大変だろう。
さて本題で、こういった問題について考え方を改める事で対抗出来ないかと妄想しているのが今回の文章だ。
作品そのものではなく、作品を所有することを制作者から認められている事について有難がる事で、海賊版の価値を無いものに出来ないかと思い浮かぶ。
『あの人が好きだからあの人の作品が好き』『この作品が好きだから作り手も尊敬する』というのは普遍的な感情で、ポジティブなベクトルなら素敵な心持ちにもなる。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎しを避けるなら、作品そのものを提供する側から見たい作品を見せてもらっている事について有難がると良いだろう。
物質への感情の矛先を正当な仲介者へ向ける事で間接的に作品へ感情を向けつつ、不当な流布の価値を限りなく下げられる。
そうすればその価値観の枠組みの中でなら正当な仲介者以外が流布する作品は無意味となり、立派な対抗になり得るだろう。
これを強制させる枠組みを考えるなら、その権利を買えるようにすることにあると思う。 ただ、消費者も権利を買っているという認識をしなければ無意味だ。
そういったものをシステム化するなら NFT のような所有権を分散ネットワークに記録できるものが流用出来ると考えている。
ヤンキーもヤンキー以外も、ある意味教師も、寄ってたかって殴る蹴るしてきましたけど、
なんだかんだ、彼らは俺より今でも人生ハッピーっぽいですよ?😟
彼らは彼らのハッピーな学校生活があるだろうし、俺は美術室だけあればいい、
勉強は塾の教師の方が、言いたくないが、人間性もまともでしたよ、ええ…😟
でも、みんな来たくもない学校とか教室に毎日強制的に集められてしまう
勉強したい人も、したくない人も、運動したい人も、したくない人も、
なんかもっと、こう、みんながハッピーになることをしたい気がする…😟
楽器が弾けない人も参加できるワークショップとか、あまちゃんの人がやってるじゃないですか
あれ、いいよね
指揮法というか、指揮者って人間という楽器を演奏する演奏者なんだよね
コンピュータとか自然界と同じで、オーケストラは階層構造になってる、攻殻機動隊にも出てくるホロンだよね、アーサーケストラーの…😟
まあ、同じ事やるのもなんだし、あれは指揮者を体験するのがメインなんで、
なんか別のこと、葉加瀬太郎さんがテレビでやってたみたいに、女性アナウンサーに開放弦だけ弾かせるとか、
ああいうのでもいいよね、開放弦って一番パワーがある、その楽器のチューニングの音で、ギターのローコードもそう、
一番パワーがあるから、開放弦を重視してキーを決めたりしてる、んじゃないかなー、と勝手に思ってるけど…😟
でも、今の自分には3Dプリンタやる余裕もないし、それ以前に生きてるのがかなり奇跡なので、
面白いイベントができないかなあ、と誇大妄想するだけなんだけど、
最近とあることを理由に、社会と人への恐れみたいなのが深刻化してしまった。他者に説明できるほどそのことを自分の中でまだ受け入れられていないから伏せておく。
だけど、人間である以上人や社会との関わりは大なり小なり必要だと思うから、匿名で関われるここでリハビリをしてみようと思う。
私は今月頭に体調を崩し、そこから2週間ほどほぼ寝たきりみたいな生活をしていた。
その生活によって50㌔程あった体重が42㌔まで落ちてしまったのだ。
最近やっと寝たきりから解放されたが上記のこともあり、体力がかなり衰えてしまった。まあ元々バリバリ健康人間でもなかったが。
それもあり最近は体力回復の為に特別していなかった「散歩」を意識して生活に取り入れ始めている。
今日もご飯を食べるべく目的地をファミレスにして行ったのだけれど、体力の衰えはかなり激しく、以前なら徒歩で10分ほどで行けたファミレスに今日は20分以上かかった。
少し歩くだけで息が切れてしまう日が続くなんて人生で始めてだから正直悲しくはある。
でも、元々歩くのは好きで2、3時間平気で歩けていたから少しずつ元の自分に戻りたい。
日替わりランチセットを食べたかったから、17時までに着かないと行けなかったのだけれど、家を出たのが16:30で着いたのが大体50分過ぎ。ギリギリセーフ。
ハンバーグを食べたかったのに、今日は鶏肉の日だったことがわかり少し残念な気持ち。というか鶏肉は好きじゃない。
だけど、せっかくだから頼んでみたらなんか思ってたより美味しそう。照り焼きソースにマヨネーズがかかってて匂いが食欲をそそった。それにランチプレートだったから、一つのお皿に白米、サラダ、ブロッコリーベーコン、ポテサラまで着いていて頑張って歩いた甲斐があった。それにドリンクバーも付いていたから+αでハッピー。
今は全ての動作がゆっくりになってしまう。だから食べるのもゆっくり。ナマケモノといい勝負ができてしまうかもしれない。というか負けそう。
以前の私は食べるのが早い方で正直味わって食べるということをしていなかったけど、今の私はナマケモノ。
だからこそ思えたけど、味わって食べるってそれだけで幸せなんだなって感じた。食事は時間をかけてもいいのかもね。
窓際の席だったから空がよく見えて日が暮れていくのをいつもより感じた。スマホとか見るより空や外で起きている時間の流れを見ていた方が幸せなのかもしれない。
そんなことを考えつつも退店して感じたのはここからまた歩くのかという些細な絶望。しかも歩いてる途中でお腹が痛くなってしまい、些細な絶望は小さな絶望へとレベルアップを遂げてしまった。ドリンクバーでカフェラテ飲んだのが間違いでした。
そんな感じの今日でした。私が戻れるまであとどれくらいかかるかわからないけど、次の散歩も楽しみたいな。
もしも読んでくれた人がいたらありがとう。誰に向けたわけでもないものだから、読み物としては程度が低いけど、こんな人もいるんだなっていう小さな繋がりかもしれませんね。
あのな、優秀さとか関係ないんだわ
元々いうほど興味なかったけど
特に受託開発していたとき、問題の多くは設計とかやり方の問題だったと思う
どういう問題が生じ、どういう課題があって、どういうアプローチがあって、誰がどうやって行くか、結果どうハッピーになるか
そういうのを一定考えたとき、出てきたものは思ったよりも「複雑でどうしようもない自体」だった
ある程度解決できるところはもうこの10年で解決されてしまい、残る問題はどうしようもないものばかりだった
それを解決しようと、色んな人が寄って集って難しいことをやり始めたあたりで興味を失い始めた
この人たちはソリューションに夢中になりすぎている
残っている問題は、ちゃんと解くには面倒だが、放置してもそこまで致命的でもない、ただ仕事が若干しづらいくらいだ
実のところもっと考えるべきことはソフトウェアの外に沢山あるんだけど
どうしてもソリューションをやりたい人たちが一定数いて、その人達はその残っている問題を過大評価する
それも含めて興味を失ってしまった
もっと例えば、大きな目標を作って、それに伴ってやり方がガラッと変わり、その方法論について語ったほうが生産性が高いと思っている
そのとき、今話題になってるような問題は前提が崩れてくるんじゃないかと思っている
例えばAIの導入はソレに当たるが、他にも変えるべき前提はあるのかもしれない
20年前に同監督の「時をかける少女」を見た時のことを思い出して書く
当時学生だった自分はオタで色んなアニメやラノベなんかを見てた
たまに陰キャですカースト最下位ですみたいに自称する主人公もいたが
そんな主人公達にも開始時点で最低限保証みたいに仲のいい可愛いヒロインはいた
当時カースト下位気味だった自分はそれ最下位じゃないだろwwとツッコミつつまあ楽しく読んでいた
そんな時に「時をかける少女」を見た
いつも通り可愛い主人公女の子とイケメンがまあ色々イチャコラしていた
ふーんまあそうだよなとか思ってたら作中で突然イジメシーンが始まった
クラスの隅っこで陰キャっぽい男がクラスの連中にイジメられていた
主人公たちはそれを見ながら全くそれに触れずに流して相変わらずイチャイチャしていた
えっ今あの男イジメられてたけどスルーするのこの話?と思ったけど
まああれは伏線で後でなんかあるんだろう…と思いつつ見続けた
「陰キャ男が逆ギレして投げた椅子が主人公に飛んできた」的なイベントに繋がっただけで
全く救われることもイジメが解決する事もなく本当に放置されてそのまま終わった
そんな悲劇を美少女に癒されてなんかラブラブハッピーで終わった
教室の片隅でイジメられてるカースト最下位は別に悲劇でもないのか…
まあ…そうだろうな…
今までアニメの陰キャはだいたい救われてたけど、いつも通り「実はカッコいい」「あの男の隣にも可愛い美少女が」
なんて展開があれば、まあ救われるか…
でもそれって嘘だしリアリティないよな…
いやそもそも自分ってどの世界においても結局他人じゃないのか?
イケメン主人公も可愛いヒロインとのラブコメも全部ただの他人事なんじゃないのか?
言語化すると、こんな感じの事が、見終わった後に頭の中でなんかじわじわと広がっていったのを覚えている
椅子が飛んでくるだけのイベントなんか別に他の方法でも作れただろうに
美少女やイケメンが出てくる爽やか青春ラブコメが売りのアニメ映画で