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新内閣発足
visco110.hatenablog.com
ゲームが「頭にいい」らしいことは薄々気付いていた。しかしなぜ・どのように「頭にいい」のか、今までは語る語彙を持ち合わせていなかった。ある日いつものように気ままに読書していて偶然パズルのピースが嵌まり、幾分か語れる語彙を得たので書いてみることにする。 * きっかけは一冊の本だった。 「ウルティマオンライン」「ウルティマオンライン ザ・セカンドエイジ」の制作主任、「スターウォーズ・ギャラクシー」のクリエイティブ・ディレクターを務めた他、文学修士号を持ち、シンガーソングライターでもあるという異色の経歴を持つラフ・コスターの『「おもしろい」のゲームデザイン』という本を手に取ったところ、こんなことが書かれていた。コスターいわく、 脳の働き方を調べて私は自分なりの答えを見つけました。文献によると、脳は非常にどん欲にパターンを食い続けていく代物で、いわば柔らかくて丸々と太った灰色のパックマンみたいなもの
どうもこんばんは、安田鋲太郎です。 さて今回は男の三大欲求すなわち性欲、性欲、性欲のうちの一つ、性欲についてお話します。 僕は性欲はなにかと男女非対称なものだと思っているので、基本的には男側の視点からの話になりますが、スッキリした文章にするために「この部分は男性のみ」とか「ここは男女共通である」といった注釈はほとんど入れていないので、その点については適宜頭のなかで補完してください。 では書いていくー(・ω・)ノ🌸 * 射精するとプロラクチンという脳内物質が放出され、ドーパミンの働きを阻害するので、一時的に性欲だけでなく何に対しても冷静になり、したがってオスはすみやかに天敵が近付いていないか等をチェックすることが出来る。この仕組みが弱かった先祖は、セックス後に恍惚としているうちに熊や大蛇に食べられたり餓死してしまったのだろう。 この、いわゆる「賢者タイム」(しかしこの言葉はあまり好きではな
どうもこんにちは、安田鋲太郎です(・ω・)ノ ウェーイ さて僕はたいへん研究熱心な性格なので、仕事や家事や読書の合間を縫って、いや元来ならそれらに充てるべき時間の一部まで割いて、精力的にAVをフィールドワークしています。 それでつねづね思うんですが、AV女優って人前で脱ぐことを恥ずかしがってないように見えるんですね。 それは一体何故なのか。慣れなのか。本当は恥ずかしいけどそうではないように演技しているのか。あるいはもともと羞恥心の希薄な人がAV女優になるのか――というようなことをつらつら考えていたら、昔、パイセンに澁澤龍彦の『エロティシズム』を貸した時のことを思い出しました。 今ならなんということもない話だけどそこは昭和生まれの学生。『エロティシズム』に出てくる次の言葉にパイセンは強い衝撃を受けたのでした。 ところで注意すべきは、花とは植物の性器である、という事実だ。 (澁澤龍彦『エロティ
※注意! 筆者は医療の専門家ではなく、また当記事は文化史エッセイに属するものであり医学的内容に責任を負うものではありません。治療に関する判断は専門機関にご相談ください。 α.はじめに 自分の病気の成立に自分自身が能動的に関与しているということを本気で考える人がいたら、それによって病気の理論が変わるだけでなく、その人の世界との関係も一変するだろう。彼の倫理的、宗教的、政治的な態度も変化するに違いない。 (ヴァイツゼッカー『病いと人』) 偶然にも本稿では採り上げていないが、オリヴァー・サックス『妻を帽子とまちがえた男』といえば、脳科学・奇病エッセイの古典的名著であるという評価に異論を差し挟む者は少ない。しかし、いつだったかネットのレビューで、かの「名著」に対する苦言を目にしたことがある。 細かい文言は忘れてしまったが、それはおよそ次のようなものであった。 「これは現代のエレファント・マンにも喩
小学生の頃、うちは貧乏だった。 服は親戚からのお貰い、晩御飯はしばしばただイモを練って焼いたものだとか具のないうどん、家は「蹴ったら倒れそうな家」とからかわれるような家。 当時、ビックリマンシールが流行っていて、友達はみんなシールのコレクションを見せ合ったり、なかには専用バインダーを持ってる金持ちの息子もいたが、その頃の僕には定まった小遣いがなく、近所の子らと遊んでいても誰かが「よし駄菓子屋へ行こう」と言いだすと、家に帰って一人でチラシの裏に絵を描いたり(わが家は赤旗しかとっておらず、隣りに住んでる祖母がチラシを溜めてくれていた)、妹たちと遊んだ。 ある日、友達の家でビックリマンシールの交換会をするというので、僕も見るだけ見せてもらおうと友達の家に向かったところ、ふと側溝の乾いたところに何かが落ちていることに気付いた。 驚いたことにそれは数十枚のビックリマンシールだった。 ※画像はイメージ
生活や業務のための最小限の「連絡」は別とし、およそ人間関係と呼びうるものは、友人も、恋人も、すべてコミュニケーションに始まりコミュニケーションに終わることを考えると、その巧拙が人生の浮沈に与える影響には甚大なものがあると言える。会話上手になりたい、というのは多くの人が願うところだろう。 けれども「どうすればコミュニケーションが上手くなるか」という問いは猥雑なものとして、表だっては語られない傾向がある。その理由は、おそらく話が上手いということに(とくに日本人は?)「お調子者」だとか「口先で儲ける奴」といったネガティヴな印象を抱くからであろう。沈黙は金、寡黙なことは奥ゆかしい、父親は背中で語る、というわけだ。だが休符が音楽の一部であるように沈黙も発話の一種であり、時宜を見て黙ることが感銘を与えたり、あるいは気まずくなったりすることを考えれば、沈黙の使い方もコミュ力に他ならない。 またコミュ力と
リチャード・ゴードン『世界病気博物誌』*1によると、ロバート・リストンは史上唯一、一度の手術で三人を死亡させた医師だという。その記述は次のようなものだ。 リストンのもっとも有名な症例 腿を二分半以内で切断した(患者は化膿壊疽のため、後日病棟にて死亡した。ジョセフ・リスターの防腐法発見以前はこのようなことは日常茶飯事であった)。彼はさらに手がすべって若い助手の指も同時に切断した(助手は化膿壊疽のため、後日病棟にて死亡した。ジョセフ・リスターの防腐法発見以前にはこのようなことも普通であった)。リストンはさらにはずみがついて、手術を見学中の有名な医師の上衣の裾にさっと切りつけた。見学中のその医師は、ナイフが急所(陰部)に突き刺さったので恐怖のあまりショック死してしまった。 これが史上唯一の死亡率三〇〇パーセントの手術である。 ロバート・リストンの手術。これを二分半で切断するのだから、いかにも助手
大学講師でありながらMMAのリングに上がったという異色の経歴を持つジョナサン・ゴットシャルは、著書『人はなぜ格闘に魅せられるのか』のなかで、およそ二百年前の決闘と、現代の刑務所のあいだには「名誉」をめぐる同質の文化がある、と論じている。 我々は「名誉を傷つけられた」――公衆の面前で侮辱されたとか、あらぬ醜聞をでっち上げられた――ことが決闘=殺し合いにまで発展し、またそのことが社会的にもある程度の理解を得ていたということを、俄かには理解し難い。現代人としてはついそこに愚かしさを見てしまうのも無理からぬことだ。しかし、 ハミルトンの時代には、名誉は男の社会的な富の総体だった。名誉は些細なことなどではなかった――人生の最大のものを買うための貴重な硬貨だったのだ。そしてもしもこの硬貨の価値が毀損されれば、その男の展望――そして家全体の展望――もまた毀損される。 (ジョナサン・ゴットシャル『人はなぜ
「ネット論壇」にある程度コミットしていた時期があった。リプバトルもさかんにしたし、キャスで議論っぽいこともした。多少名が知られたのかどうかわからないが、全然知らない人に「ツイキャス論客」として紹介されたこともある(リンク参照)。 ronri2.web.fc2.com しかし一年近く前の、青識亜論主催のキャス討論会に登壇したあたりをピークに、次第にネット論壇から距離を置くようになった(まああれはあれで面白かったけれど)。 それは、ネット論客としての適性のなさを自覚したことが大きい。 第一に、二次元キャラのおっぱいがどうした、このポスターはありやなしや、このCMはけしからんかけしかるか、ツイフェミが、表現の自由戦士が、インセルが、というような話に心の底からは関心を抱けない。また安倍政権がどうの、野党がどうの、ネトウヨが、リベラルがというような話も同様(これはいつも、「政治に関心はあるが政局に関
二十代のころ、僕はひじょうに友達が少なく、またそのことをずっと気にしていた。友達の数を指折り数える。親指は高校時代からの親友だ。よかった、まったく友達がいないわけじゃない。 しかし、人差し指、中指と折ってゆくうちに怪しくなってくる。中指か薬指のあたりで思い浮かぶ顔は「はたして彼は友達だろうか、ただの知り合いではないか?」と戸惑ってしまうのである。そして「そもそも友達の定義とは?」と考える(これについては後述します)。 高校時代からの親友は、社交上手で、とても友達が多いタイプだった。それに僕と違って恋愛相手が途切れたためしがない。この親友と街を歩いていると「おっ元気?」とかいって、偶然に彼の友人らしき人と出くわすということが何度もあった。地元ではない。大都会名古屋の中心部で、である。 昼は働いているからまだいいのだが、夜になると話し相手がいないことがつらかった。大半の日は難しい本(と敢えて言
人々が、オープンすぎるSNSから撤退している。 この傾向はかなり以前(おそらくはゼロ年代後半)から断続的に観測されてきたもので、わかっている人にはなにを今さらな話だが、SNSの大海で気の合う、価値観が共有できる人を見つけ、そうした人たちをブログや動画配信サイトなどのセミオープンな場へ、さらにはDMやLINEグループ、オンラインサロンといったクローズドオンライン、またはサークルや団体、私塾(!)といった再帰的オフライン*1のコミュニティへと導く(導かれる)というのは必然的な流れで、多くの人が実感するところだろう。*2 そしてその傾向が進めば進むほどSNSはコミュニケーションのためのものではなく、マッチングのためのものに変化してゆく。もはやオープンすぎるSNSが警戒心なく他人と付き合ったり、自由に意見や心情を述べたりできる場所だと思っている人は絶滅危惧種だろう(まあ形式上は自由ではあるけれど)
その筋ではよく知られている話ではあるが、政治学者のロバート・アクセルロッドによる「囚人のジレンマ」を使ったアルゴリズムの大会がかつて開催されていた(「囚人のジレンマ」についてわからない人はググって下さい)。その第一回は1980年に開かれ、14のアルゴリズムが総当たり戦を行った。 優勝したのはアナトール・ラパポートの作ったアルゴリズムで、それは「しっぺ返し戦略」(tit for tat)と呼ばれるものであった。このアルゴリズムは、最初のターンでは「協調」を選び、二ターン目以降は先のターンの相手の選択を反復するというだけのきわめて単純なものである。 この単純なアルゴリズムが、なぜ他の参加者の、より複雑なアルゴリズムを出し抜き、優勝することが出来たのだろうか? 興味深いのは、一対一の戦いにおいては「しっぺ返し」アルゴリズムに勝つ他のアルゴリズムもそれなりにいたということだ。だが「しっぺ返し」アル
選挙時のツイッターほど憂鬱なものはない。質の低い与党支持者と質の低い野党支持者がポリシーもなにもないきわめて下品かつ煽情的なプロパガンダツイートを濫発するからだ。最もお手軽で脳味噌からっぽのネット運動家にも出来るのは、プロパガンダ用の画像に「絶対に〇〇党に入れてはいけません!」といった簡単なコメントを添え、仲間同士で拡散したり、政党や政治家・マスメディアの公式アカウントへ大量にリプライすることだ。信憑性や深度のある議論など必要ない。なにしろ投票日はほんの数日後なのだから、まともな人間はそんなツイートを一つ一つ検討している暇などない。とにかく膨大なイメージで理性を麻痺させ、思い通りの候補者の名前を書かせてしまえばそれでいい。われらの民主主義万歳! ……で、そうした現象の一環として、いつかの選挙期間中に安倍晋三のポスターに何者かが落書きしたというツイートが流れてきて、見るとリプライ欄が少々白熱
友達が欲しい、出会いはあるけれど友達にまで発展しない、友達になったとしても続かない、孤独だ、というのは普遍的な悩みだと思います。そこで、どうすれば少しでも友達が出来やすくなるのか、より強固で持続的な友情を育めるのか、ということを今回は書きたいと思います。 じゃあこれを書いてるお前はそんなに友達いるのかよ、といえば「多くはないけれどいないことはない」といった程度です。まあ僕自身は大したことはないとして、これは長年にわたってうまく行っている人、うまく行っていない人を観察し、考察した結果だと思ってください。 * さて基本的に、友達関係は付き合うことのメリットがコストを上回る場合に発生・継続します。 こういうと冷たく聞こえると思います。「それじゃあ長年培ってきた友情や信頼、くされ縁的なものはどうなるのか」と。もちろん決してそこを無視しているわけではない。なぜならそれは歴然としたメリット、しかも最大
逃げてもいいんだよ、弱音を吐いてもいいんだよ(でもその責任はとらないよ) カッコ内は幻聴ですが、「逃げてもいいんだよ」「弱音を吐いてもいいんだよ」みたいなことは毎日のように耳にする。けれども、ちょっと紋切型っぽくもある。そこで検討を加えてみることにする。 もちろん、ブラック企業だとか学校でいじめられているとか配偶者がDVだとか、サクッとエスケープしたほうがいいケースは世の中にたくさんある。だがそれも、あくまで逃げることによって失うもの(所属やそれに伴う便益等)よりも得るもの(心身の安全、新たな生活の可能性)のほうが大きいから逃げるのであって、合理的に行動しただけであり、べつに逃げることが正義というわけでも我慢して居続けることが悪というわけでもない。 思うに、昔は社会の流動性が低く、いったんそうした所属(会社、学校、夫婦)から離脱した人が以前並みやそれ以上の水準に復帰するチャンスは少なかった
某月某日 呉智英『知の収穫』に収録されている「読書日録」のなかに、石光真清『城下の人』について述べた次のようなくだりがあった。 「この本には、著者の年齢を始めいくつかの不自然な点が散見する。だが、このことは証言につきものの錯誤や主観性の表れであり、かえって興味深い」 これで思い出したのが、ジジェクがレイプ被害者の証言について『暴力 六つの斜めからの省察』で次のように書いていたことだ。 暴行された女性の報告(あるいは、なんであれトラウマをめぐる語り)を誠実なものにするのは、事実を知るうえでの頼りなさ、報告にみられる混乱、矛盾である。もし犠牲者が自分の痛ましい屈辱的な経験について、証拠を矛盾なくつなぎ合わせ、明晰に報告できたとしたら、われわれはこうした特質自体によって、語られた真実そのものを疑わざるをえなくなるだろう。 (中略) その不完全さは、報告された内容が報告の様態を「汚染した」ことを示
【リセマラ】 リセットマラソンの略語。スマホゲームにおいてインストールとアンインストールを繰り返す行為のこと。 ほとんどのスマホゲームは、最初のチュートリアルを終了すると何回かレアガチャを回すことができる。そこで高レアリティの強キャラを当てるまでアプリのアンインストール・インストールを繰り返すことで、目当てのものを所持した状態でゲームをはじめることができる。*1 「人間関係のリセマラ」というのは一応僕が考えた言葉だ。ググってみたけれど他に云っている人は見当たらない。 とはいえ「人間関係のリセマラ」ないし「人間関係のリセマラ社会」という言葉が意味するものについては、すでに多くの人が実感しているだろうし、ネーミングこそオリジナルだけれど中身は宮台真司『日本の難点』(2009)に大きく依拠している。宮台は次のように述べている。 移動や交通や通信の自由が制約されていた昔は、人間関係自体が希少でした
いま、ひとつの休日の終わりにこれを書いている。新しい休日を迎える自分に充てて。今度こそしっくりくる一日を過ごして欲しいからだ。 けれど、具体的にどうしろということは云えない。もしうまい方法がわかっていれば、今日だって素敵な休日になったはずだ。 でも残念ながらそうはならなかった。どこでボタンを掛け違えたのかわからないが最悪だった。特別まずい事が起きたわけではない。むしろ微妙な精神的チューニングが合わずに無為に一日を過ごしてしまったというのに近い。午後から飲んで日が暮れる頃に寝て、先ほど目が醒めて頭痛と内臓のもたれに喘いだ。頭をよぎるのはとくに何の成果もなく一日が終わる後悔、職場の不愉快なやりとり、健康への不安、こんな感じで一生が終わってゆくのかという惨めさ。 どうしたらよかったのだろう。もっと「ぴしっとやる」(早めに起き、新聞や雑誌を集中して読み、まともな食事を採り……etc)べきだったとい
すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂) 作者: 二村ヒトシ,青木光恵 出版社/メーカー: イースト・プレス 発売日: 2012/12/02 メディア: 文庫 購入: 7人 クリック: 125回 この商品を含むブログ (36件) を見る 0.はじめに 1.二村ヒトシはフロイト派である(1)反動形成 2.二村ヒトシはフロイト派である(2)否認 3.ジジェクの恋愛観との類似 3-1 定式は存在しない 3-2 自分を見せない者は愛されない 3-3 恋愛そのものを目標にしてはならない 4.で、この本を読めばモテるの? 0.はじめに 二村ヒトシ『すべてはモテるためである』。この本に書かれている恋愛についての指摘の多くに僕は既視感があった。というのも、馴染みのあるフロイトやジジェクが書いていることとかなり重なっていたからだ。当人が意識している・いないに関わらず二村ヒトシはフロイト派であるということは
欲望会議 「超」ポリコレ宣言 作者: 千葉雅也,二村ヒトシ,柴田英里 出版社/メーカー: KADOKAWA 発売日: 2018/12/21 メディア: 単行本 この商品を含むブログを見る こんにちは、安田鋲太郎です。 『欲望会議』、話題になってますね。僕も読みました。ツイッターのタイムラインでも賛否両論、さまざまな意見が交わされています。 さてこの『欲望会議』、識者の方々が色々言及しているなかで、一体自分に何が言えるのだろうかと考えてみたのですが、あくまで商品としてのレビューに徹するのであれば、多少は職業的知見を活かし、購入を検討している人に幾つか参考になることが云えるのではないかと思いました。 そんなわけで今回は、商品として見た『欲望会議』について書きます。 * まず『欲望会議』は、哲学者の千葉雅也、AV監督の二村ヒトシ、現代美術家の柴田英里による鼎談本です。三者とも世間に名が知られてお
これは、あまり書きたい話題ではないし、喧々囂々と騒がれたくもない。じゃあなんで書くのかといえば、誰かが云っておかなければならないという義務感のようなものだ。したがって、なるべく手短に書いてネットの片隅に放置しておくことにする。たまに辿り着いて読んだ人に益するものがあればそれでよいと思う。 ネットで「ポストや表札の下などに注意! マーキングがあったらすぐ消してください!」というような話題がときどき出回る。知っている方も多いのではないかと思う。住人が何時から何時までは留守になるとか、女性の一人暮らしであるといった意味を示す記号が、ポストや表札、インターホン等に書きこまれ、放置しておくと場合によっては泥棒に狙われるという内容のものだ。 検索すればたくさん出てくるが、幾つか典型的なものを貼っておく。 matome.naver.jp minkagi.blog cat-hack.com これを見たとき
ちんこ盗み猫。見た瞬間に反射的にそう呼んでしまった、このちんこを咥えた猫の絵は、1555年ドイツで制作された作者不詳の版画(※1)である。 もちろんこんなものを前々から知っていたわけではなく、別件で西欧中世の泥棒について調べていた時(したがってmedieval thief とかそれに類する単語で色々検索していたさいに)偶然目についたものである。これが風刺画であることはあきらかだが(※2)、その意味するところは一見しただけではわからなかった。そこで本来の調べ物をしばらく脇に置いて、この版画の意味を調べてみることにした。 さて、とりあえず全体を見てみよう。 (オランダ国立美術館、作者不詳、1555) まず、右側にちんこを咥えた巨大な猫がいる。この猫はいまにも門から走り去ろうとしながらも、ふと後ろを振り返っている。猫の後ろには修道女がいて、猫に魚を差し出して気を引こうとしている。彼女はなぜ猫を呼
ホイジンガの描く、晩期中世の貴族たち。現実に打ち破れ、いそいそと夢やまぼろしのような宮廷に引きこもって、絵空事に明け暮れる、その逃避のさまを愛惜するのは当然の感情のように思える。 しかしこのシンパシーは信用に足るものなのだろうか。そうはいっても、あちらは王侯貴族であり、こちらはしがない平民ではないか。時代は各段に豊かになり、彼らの知らぬ利便快適な生活を、はるか遠くを見渡せる目や、いとも簡単に遠方へ旅することの出来る足を手にした我々とはいえ。 Jan van Eyck「Court Society in Front of a Burgundian Castle」(1425) * 技術史家であるリン・ホワイトによれば、貴族階級は基本的に、騎馬戦法とともに勃興したものであるという。そうであれば、騎馬戦法が当時の新しいテクノロジーである石弓や弩によって通用しなくなった時、同時に貴族階級も没落してゆく
酒について書かれた本には二種類あるという。 一つはしらふで読むための本。もう一つは、まさに一杯飲みながら、傍らに置いて気ままに開くための本だ。 このブログ記事は、飲みながら読むために書かれている。これを書いている僕も、今まさにベルギービールで仕事帰りの渇いた喉を潤しながら書いて……いるかどうかは、まあご想像にお任せしよう。 * オットー・ボルストは『中世ヨーロッパ生活誌』のなかでこう書いている。 人々は騒音も大好きなのであり、民衆はヴァイオリンをひいたり、ひざをたたいたりもした。一びんのワインでも近くにあれば、大にぎわいになる。一五〇九年にマインツで出された『敬虔な生活のための聖なる警告』に書かれた次のようなことも、けっしてオーバーとは言えないであろう。「二、三人集まったら歌を歌うべし。仕事のときは家でも外でも、祈りのときも、喜びのときも、悲しみのときも、葬式のときも、宴会のときも、みな歌
侮辱、中傷、罵詈雑言は怖ろしい。それはもちろん、言われた側も恐ろしいのだが、言った側にとっても充分に恐ろしい行為である。相手の報復感情を刺激すること、また第三者の目を引くことによって、攻撃した側が攻撃される側にまわる可能性は常にある。だがそれだけではない。時には殺されることさえありうるからだ。 人が他者に殺意を抱く理由のうち、最も多いのが侮辱されたことであるという調査がある。 進化心理学者デヴィッド・バスが五千人に聞き取りを行ったところ、調査対象のうち今までに一度でも誰かを殺す想像をしたことがあると答えた人は、男性の91%、女性の84%にのぼったという(『殺してやる 止められない本能』平成十九年、柏書房)。 バスはこの結果に大いに驚いたそうだが、このこと自体はさほど驚くに値しないように思える。だが問題はその理由だ。他人に殺意を抱いたことのあると答えた大半の人々が、身を守るためといった切実な
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