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新内閣発足
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名古屋金融市場について―本当に「名古屋金利」ゆえ銀行は儲からないか? 名古屋支店に来て半年が経過した。愛知・岐阜・三重三県と静岡県西部(遠江)を所管する我が名古屋支店から見て、東海地方の金融市場はどのような特色があるのか、経験を踏まえて考えてみたい。 名古屋金融市場への疑問 まず、名古屋に来て驚いたのは、どの全国銀行の名古屋支店長さんも、地元地方銀行や信用金庫の頭取、理事長さん方も、「この地域は貸出金利が低くて儲からない。昔からある程度そうだったが、近年特に競争が激しくなり、一層利鞘が取れなくなった。」と嘆いていらっしゃることだ。当地域は、トヨタ自動車に典型的に見られるように、もともと企業も個人も借金に慎重であった。今でも、某べンチャー企業の社長の「夢」が、株式公開ではなく無借金経営だと聞いて、さすがに小生も苦笑したことがある。「名古屋金利」と呼ばれる低金利の淵源は深いのである。それに加え
前の文章へ戻る 「古典派からのメッセージ」目次へ戻る 表紙へ戻る 忘れられた偉大な作曲家 ミヒャエル・ハイドン ミヒャエル・ハイドンは、「交響曲の父」ヨーゼフ・ハイドンの五歳年少の弟である。兄と同じくウィーンの聖シュテファン大聖堂の少年合唱団に入り、美声で知られた。その後一七六二年に、ザルツブルグ大司教の楽団のコンサートマスターになり、モーツァルトがザルツブルグを出奔した後は、後任として大聖堂オルガニストをも兼ねた。特に教会音楽では広くヨーロッパにその名を知られ、晩年はエステルハージ侯やトスカナ大公からその名声にふさわしい地位の提供を申し出られたが、あえてザルツブルグのマイナーなポストに留まり、当地で六九年の生涯を終えた。 彼はモーツァルト父子と親しい間柄にあった。オラトリオ「第一戒律の責務」はミヒャエル・ハイドン、アードルガッサー、それに一〇歳のモーツァルトの三人の合作で作った。ミヒャエ
令和3(2021)年1月22日(金)曇天 写真は近くの公園で見つけた紅梅です。近づくと若梅の香りに全身を包まれました。梅は春を待ちきれずに咲き誇っていました。小生はちょうど今、仕舞「箙(えびら)」を習っています。これは能「箙」のキリの部分を舞うものです。「箙」とは、武士が戦場で矢を入れて背に負う円筒形の道具です。源平合戦の緒戦となる生田の合戦で、源氏方の若武者、梶原源太景李(かげすえ)が梅花の枝を箙に挿して奮戦した華やかな模様を、ずっと後になって、修羅道に落ちている源太の霊が通りかかった旅僧に語り、供養を頼んでまた冥界に帰るというお話です。 仕舞はこの能のキリの部分を舞います。旅僧の前に現れた甲冑姿の源太の霊は、はじめは修羅道の有り様の浅ましさを嘆きますが、やがてかつての生田の合戦における自分の華々しい戦ぶりを思い出し、箙に梅花の枝を挿し、先駆けの功名を得ようと敵に向かい、様々な秘術を尽く
前の文章へ戻る 「古典派からのメッセージ」目次へ戻る 表紙へ戻る レヴィ=ストロースの感性 三層の感性 レヴィ=ストロースは構造主義の元祖だ、などとレッテルを貼っても、彼について何も語ったことにはならない。民族学者レヴィ=ストロースの偉大さは、ブッダにも通じる、柔らかでしなやかで鋭敏な感性にある。事実、現代フランス人である彼自身が、仏教を柔らかく受容し、ブッダに深く静かに自己同一化した経験を語っている。 「…この簡素でゆったりした広間、寝台枠の上に置かれている藁蒲団の脇に立つ二人の僧の鄭重さ、集会の場や祭祀の飾りを作る時に漲るあの感動的な勤勉さ、そうした全てが、私が聖所というものについて思い浮かべることのできた観念に、かつてなかったほど私を近づけてくれた。…この祭祀と私との間に、どんな誤解も入り込みはしなかった。この場合、偶像の前で頭を下げるとか、いわゆる超自然の秩序を崇敬するということが
一九八〇年代後半の日本経済がバブルであったとは当時誰も気づかなかった、と、よく言われるが、バブルを見越した経済学者はいた。故下村治氏である。一九八七年四月初版の「日本は悪くない―悪いのはアメリカだ―」というやや激越なタイトルの本の中で、下村氏は、当時の株価高騰についてズバリ、「このブームに安易に乗っていてはやけどをする。なぜなら、この動きは経済の実体を反映していない特殊な動きだからだ。株というものに対する一種の信仰が現在の株価を支えているにすぎない」と断言する。 今にして思えば、まさしくその通りだったのである。この本は、決して反米思想や嫌米趣味の本ではない。むしろ極めて冷静に、当時進みつつあったアメリカの債務国化という現象の原因と問題点、日本に与える影響などを分析したものである。この本が出てから約十三年経過しているが、その問題意識は決して陳腐化していないのみならず、今の世界経済を考える際、
芸術の効用とは何か Ⅰ 福田恒存全集第二巻所収の「芸術とは何か」において福田の言わんとするところは、抽象的な芸術の定義などではなく、「芸術が文明の中で本来果たすべき役割、効用は何か」ということである。福田によれば、それは、演戯(演じ戯れること)であり、感情の浄化である。アリストテレスを裏づけとするこの考えの背景には、福田の深々とした人間観がある。曰く、 「生は貪婪に欲望し貯蔵すると同時に、また欲しいままに消費することをも欲求してゐる。人間は永遠に生きようとしてゐるのかもしれないが、その同じ営みがひたすらおのれを無に帰せしめようと試みているやうでもあります。人生にあらゆる目的を仮設することもできるが、同時にそれらの目的をも含めて、人生は無目的であり、無用であり、まったくの無駄遣ひとも見られます。」(全集第二巻「芸術とは何か」より。以下同じ) 人間の生理は、ただ蓄積と成長を直線的に成し遂げるよ
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