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ブラックフライデー
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続きです。 https://president.jp/articles/-/97138 (1ページ目)なぜ異例の逆転無罪になったのか 2022年の事件についての大津地裁〜大阪高裁の判決ですが、こうしたニュース記事等で裁判について読む場合には、できるかぎり判決文を入手するようにしてください。法学部のある大学では判例データベースが利用できますし、すでにもっていそうな人に連絡してもらうのもよいでしょう。異例の逆転判決になったことは、法曹関係者は重く受け止めるべきだと思うんですよね。だって、冤罪で(この場合は)若者たちの人生がめちゃくちゃになるかもしれなかったわけですよ(あんまり我々が共感できる人々ではないかもしれないけど)? 私が日本のフェミニストに疑いをもつようになった一番大きな出来事は、いわゆる京教大事件についてフェミニストの先生たちの話を聞いたあとに、判決文を入手して読んだという経験でした
前のエントリで取り上げた島岡まな先生の記事について、特にそうした問題に真面目な関心のある学部生ぐらいの人に向けての注意書きです。ぜひこれを機会に勉強しましょう。 (1ページ目)日本の中絶手術は、子宮の胎児を掻き出す「掻把(そうは)」が一般的だ。だが、先進国では服薬で済ませる方法が主流になっている。 これは塚原久美先生という方が積極的に問題にしていることです。日本で(まだ比較的)多い掻爬法による(初期妊娠の)中絶は、WHOなどが推奨する吸引法に比較して危険なので、吸引法に置き換えられるべきだ、という話です。ただし、先生自身はお医者ではないので医学的見地としてどうなのか、私はあまり自信がありません。母性保護法指定医の先生たちの世代や地域差もあるらしいので、まあいずれは先進国と同じような傾向になるだろうと私は考えています。 日本の中絶 (ちくま新書 1677)筑摩書房 Amazonの商品レビュー
島岡まな先生は、ピル使用率が低いことをもってして、日本は女性の自己決定権が尊重されていないということを主張したがっていらっしゃるようです。 https://president.jp/articles/-/97081?page=6 日本でのピル服用率は2.9%で、カナダの28.5%やフランスの33.1%などに比べると、かなり低いことがわかります。 低用量ピルやアフターピルが手に入りにくい日本に対し、どちらもタダで若年層にそのまま与えてきたフランス。 日本には女性が自己決定権を持つ「セクシュアル・リプロダクティブ・ヘルス/ライツ(SRHR)」がないのです。 そうでしょうか? とりあえず、UNによれば、島岡先生があげている国のピル服用率とコンドーム使用率は次のようです。https://www.un.org/development/desa/pd/sites/www.un.org.developm
島岡まな先生という権威ある法学者の先生が、President Onlineのインタビューに答えた記事が話題になってましたが、私もいろいろ問題が多い記事だと思うのです。問題の数が多くて挙げきれないんですが、一個だけ。 島岡先生は日本ではピル利用率が低いことをもって避妊後進国であるような主張をなさっているように見えますが、本当でしょうか。いくつか検討します。 しかも日本国内の女性において、2023年の日本の人工妊娠中絶件数は12万6734件、前年度から4009件増加していることを厚生労働省が発表しています。特に、未成年を中心とした若年層において、その数がコロナ禍以降増加傾向にあることが統計上明らかです。 そうですか? 中絶の件数などの数字はここにあります。 https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/eisei_houkoku/23/dl/kekka5.pd
自分用(そして学生様用)メモ。ジェンダーギャップ指数(GGI)についてはいろいろ解説があるのですが、私のおすすめのものをあげておきます。 KY (2024) 「ジェンダーギャップ指数の読み解き方(2024年版)」 https://crossacross.org/ky/understanding-gender-gap-index-2024 ( ← とにかくこれだけは読んで ) 筒井淳也 (2023) 「ジェンダーギャップ指数をどう受け止めるか」 https://note.com/junya_tsutsui/n/ndb65e9f2e32f Radert (2022) 「ジェンダーギャップ指数を男女共同参画に関する国際的な指数から除外すべき5つの理由」 https://note.com/radert/n/nb2e94bea7282 青木理音 (2009) 「男女格差指数」 http://rio
伊藤昌亮先生の「「表現の自由戦士」たちの戦い、その背景とイデオロギー」というのもめくってみて、これは示唆的な論文でおもしろいと思いました。「ツイフェミ対オタク」の対立の背景には、右派的な権力による表現規制に対抗するリベラル派による反権力としての「表現の自由A」と、反差別が逆差別につながっていることからそれに対抗するための「表現の自由B」があって、最近の「表現の自由戦士」とかのは表現の自由Bの運動だ、とかそういう話。まあこれの成否は今回は置いときます。 興味深いのは、表現の自由戦士≒萌え絵オタク男性たちの背景には、「萌え絵のイデオロギー」がある、っていう指摘ですね。 ツイッタフェミニストvs表現の自由戦士の戦いは主に「萌え絵」をめぐる論争であるわけですが、そこで問題になっているのは「女性が「性的」に描かれているかとどうかという点」だと。フェミニスト側にとっては「萌え絵は女性を過度に性的に描い
↑ 政治思想だとこんな感じ。 もっと本格的な本はいろいろあるけど、とりあえず目にとまったもの5〜10冊読んでみるのがいいと思う。あと、「フェミニズムではこうなのだ」とか信じこまないように。あくまでその著者がそう考えてる、ってことだし、いろいろちょっと理解しにくいところや怪しげな主張も含まれていることがあるけど、どんな分野もそういうものです。
『現代思想』2025年5月号の「表現の自由」特集の田中東子先生の「謳歌の後に来るものは?:「自由すぎる表現」の爆発的増加とその始末」という論文を読んで、少しコメントしたいことがあったので書いておきます。 この論文はオンラインでのさまざまな悪質な表現を扱ったもので、特にヘイトスピーチと性表現/ポルノを並列的に扱っているところに特徴があります。SNSでの女性に対する「ヘイトスピーチ」や女性バッシングを念頭においたものですね。田中先生自身がさまざまないやがらせにあっているらしく、そうした立場からの切実さが感じられるものです。 ただし、ヘイトスピーチのようなものとポルノを似たようなものだと考えるのは、一部のフェミニズムの主張に時々見かけるものなのですが、それがどうなのかっていうのは微妙なところです。ただ、今回のコメントでは必要なとき以外はこの問題には触れません。またヘイトスピーチそのものの問題につ
朝日新聞のThinkキャンパスっていう記事で、スポーツや体力とジェンダーの記事があって話題になってました。→ 「男性のほうが体力がある」は本当か? スポーツを通じて学ぶジェンダー論 スポーツとジェンダーの話はいろいろおもしろいところがあって、前々から気にはなってるんですが、あんまり調べる機会がなくて、今後も無理そうですが、ちょっと気づいたことだけ。 この記事では、次のように言われています。 「スポーツは男性のほうが有利と、一般的には認識されています。しかし、そもそも男性の体の資質に合ったものが選択され、男性が有利になるように制度化されてきたものが近代スポーツなのです」 これはまあそうかもしれないですね。男子が自分たちで遊ぶためにルールや制度作ってきたから。でも「男子が有利になるように」というのはわかりにくい。おそらく男子が男子どうしで遊ぶために作られているので、男子のあいだで適当に競争にな
ちょっとベンジャミン・クリッツァーさんに悪口書かれている気がしたので、とりあえずお返事しておきます。私のことじゃなかったらすみません。 (BlueskyにXの悪口を書くの、あまりに定番すぎる仕草なので基本的にはやりたくないと思いつつ…) Xでのびのびしている某ミソジニスト大学教授、まともな人間がどんどん立ち去ったことでフォロイーはミソジニストしかおらず、質問箱でも(本人がミソジニストだから)ミソジニストしか意見やタレコミを投稿してこず、その質問箱に基づいて思考を進めるからバカまっしぐらになっており、蠱毒化により自分の観測範囲を「社会」や「世間」や「みんな」だと誤認しているせいでおそらくいくら自分の問題を指摘されても「みんなも相手のことおかしいと思っているから」と受け入れない状態になっており、ひたすら嫌悪を催す存在になっている 「のびのびしている」はまあそうかな。最近のびのびしようとしていま
んで、「アカデミア」の話なんですけどね。ちょっとだけ追記。 https://yonosuke.net/eguchi/archives/17772 でも書いたのですが、アカデミアが大学教員とその仲間たちの交流の場、という意味であると想定します。んでそのアカデミアがどういう場所であるか、っていう話なんですけどね。 まず上のエントリでも書いたように、現在の(常勤の)大学教員にはあんまりアカデミックな論文を書くインセンティブはないし、ましてや、社会的な問題とかを論じるアカデミックな「業績」にならないタイプの論説を書くインセンティブはほとんどないのです。一部のマスコミに積極的にかかわるタイプの先生たちはちがいますが、それは大学教員のほんの一部だと思います。 なぜそうなるのかというと、それは 大学教員が忙しい から、です。トップ/上位大学ではちがいますが、現在中堅以下の大学の授業負担はけっこうあって、
この本は、「まえがき」にあるように、「正義についてわたしたちが抱くモヤモヤ」にとりくむ本です。「わたしたち」は誰か。おそらく「すこしでも物事を正しくして社会を良くする」ことを願う人です。賛成です。社会は欠点が多いので、すこしでも改善しましょう! ただしこの本には批判するべきターゲットになる人々がいるようで、それは「女性たちを「感情的」と罵り彼女らの意見や主張に向かい合わず、自分たちのことを「理性的」だと思っているが実際には理不尽で独り善がりになっている男性たち」p.7です。これは実在の人物(学者やライター)がいるなら明示してほしいところですが、まあ事情によって明示はできないのでしょう。これはいろいろしょうがない。んじゃはじめましょう。 1-1では、いくつかの事例があげられます。「キャンセルカルチャー」の定義はしっかりしていていいですね。 この言葉は……著名人の過去の言動やSNSの投稿を掘り
前回、北村紗衣先生の連載をきっかけに『ダーティハリー』を見ておもしろかったので、『猿の惑星』も見てみました。 ええっと、まず最初に断わっておきたいのですが、私は猿はあんまり好きじゃなくて、というのも数年前に自宅の近辺で猿に襲われそうになったことがあるからです。住んでる借家が大きなお寺の広いほぼ敷地内にあって、そこは京都の東山連峰と林でつながってるんですね。それでそのころ猿が降りてきてたんです(最近はイノシシも来てるらしい)。んで、通勤路で一匹の猿と目があってしまって、やばいとは思ったけど目が離せなくなってしまったら、「ガーっ!」って脅かされたんですわ。とても怖かった。そういや嵐山のサル山でもサルに襲われそうになったことがあるし。猿怖いですね。とにかく猿には悪い印象があります。そういうわけで、『猿の惑星』のすてきな人たちについては、猿じゃなくてエイプと呼ぶことにします[1]チンパンジー、ゴリ
8月下旬に、北村紗衣先生の『ダーティハリー』(ダーティーハリーではない)のweb批評あるいは「感想」が話題になって、局所的に私にはおもしろい議論になっていました。私の最初の印象は「なんかたしかにポイントはずしてる感じの映画批評だなあ」だったみたいです(ツイッタに書いてた)。 でも私は映画は人生でほとんど見てこなかったし、「批評」っていうものがどうあるべきかもわからないし、そもそも『ダーティハリー』も見てないのでなにも言うべきことはなかったのですが、その後『ダーティハリー』を1回だけ見たので1その「ポイントはずしている感じ」がどこに由来していたのか考えてみたいです。 北村先生のこの連載は、「映画を見た後に「なんかよかった」「つまらなかった」という感想しか思い浮かばない人のために」、なにか言えるようになれるような見本を示す、ってものだと理解しています。なにか「よかった」「つまらない」以上のこと
京都女子大学現代社会学部が発行している基礎演習用のテキスト『京女で学ぶ現代社会』の1章です(一部省略しています)。PDFはResearchmapにあげています。 → https://researchmap.jp/eguchi_satoshi/misc/46018319 時おり、新聞やテレビニュースで大学研究者(教員)の「研究不正」が話題になります。大学などでの研究者が、研究データを捏造(ねつぞう)1したり改竄(かいざん)したりすると大きなニュースになりますが、より頻繁におこなわれているのは「盗用」(剽窃(ひょうせつ))です。盗用・剽窃(plagiarism プレイジャリズム)はアカデミックな世界では非常に重大な犯罪です2。大学学生の授業レポートや卒論でも場合によっては単位の不認定、取り消しなどにつながることがあります3 多くの大学新入生は、中高生のときに「著作権」についてすでに耳にしたこと
(このエントリ、編集ファイルのバージョン混乱してしまっておかしくなってるかもしれません) 最近、私のツイッターやブログでの発言についてまたある方(Aさん)[1] … Continue readingという方からいろいろ御批判を受けているらしいです。まあいろいろいい加減なことを言っているので御批判を受けてしまうのはしょうがないのですが、なかでちょっと印象的なことがありました。 Aさんは、私の(そして他の人々の)発言の一貫性のようなものに関心があるらしく(もちろん私の憶測です)、これは正当なことだと思います。ただちょっと私にはAさんが何を指摘しているのかわかりにくいことが多い。これは私の理解力が不足しているのが主な原因ですが、会話や討論みたいなのをする際の相性みたいなのもあるんですよね。またちょっと好意的でない解釈をされているように感じることも多い。だからAさんには「私の発言についてブログのコ
というわけで、『トランスジェンダー入門』には「なるほどな」と思わされることが多くて勉強になります。ちょっとだけコメントをいくつか書いておきたいと思います。 「身体の性」vs「心の性」という分け方はよろしくない、ということを論じている部分にこういう一節があります。 私たちは、相手の身体のなかから「性的な特徴」とされるものを漠然と選びだし、髪が長いから女性だろうとか、背が高いから男性だろうとか、声が高いから女性だろうとか、そういった仕方で「身体の性」を捉えているのです。だからこそ、そうして推測された 性別 が当人の 実態 とは異なることもあります。(p.30、強調は江口) 問題は、引用で強調した「性別」と「実態」が何を指すかです。ここらへんもトランスジェンダー論だけでなく、ジェンダー論で一般読者にはわかりにくいところだと思うんですよね。 私の内的な感覚では、たしかに私たちはいろんな特徴から人間
「トランスジェンダー」の「定義」についてSNSその他はずっとモメていて、私にはよくわからないところが多くてこれまで何も書いてなかったんですが、そろそろ勉強しないとならない感じで、前期しばらく文献めくったりしていました。考えをまとめるために下のような落書きしてたんですわ。 定義は言葉の意味をはっきりさせ、またその言葉の範囲を定めることです。なにかをうまく論じようとする場合には(それが自明でなければ)必ずおこなわねばなりません。だって、なんの話をしているかわからないままに議論を進めても、読者や聴衆にはなにが論じられているかはっきりわからないですからね。 前にこのブログで書いたように、そうした定義には下のようにいくつかの種類があります。この分類というか特徴づけは、主にその目的や機能のちがいによるものです。ただし、それらは排他的なものではありません。つまり、一つに属するものが、他のものには属さない
私、ツイッタでもこのブログでも、いろいろ人様の研究(論文・書籍)やブログ記事やSNS投稿に文句をつけることが多くて、ほんとうにもうしわけないと思っているのですが、でもそうしなきゃならないというのは本当につらいのです。おそらく多くの人が、江口はまともな業績もないのに、悪口ばっかり言ってると思っていて、私もそう思っていて恥ずかしいのですが、でもやっぱり書かないとならないことはあると思うのです。フェミニズムやジェンダー研究に関心があったので、そういう研究にコメントつけることが多くてアンチフェミニストだって思われてるかもしれないけど、そうではないのです。でもそうした研究のまわりには問題が多いと思う。これだけはわかってほしい。 この前もある先生が、『射精責任』の著者がモルモンであることを問題視していて、それに関して当の書籍を読んだりしてコメントしました。 なかでも苦しかったのが、『射精責任』の著者の
んで、「日本の避妊・中絶をめぐる歴史と現状」なんですが、ここがちょっと気になるところがあった。 堕胎罪と母体保護法の紹介はOK。母体保護法のもとになった優生保護法の話もしてほしかったけど、まあスペースの関係で難しかったかもしれないですね。 「そもそも望まない妊娠をしないためには、男性による無責任な射精を正面から議論の遡上にのせる必要があるのだという話はついぞ聞いたことがない」(p.198)は齋藤先生が若い先生(じゃなくて中堅)だからしょうがないかと思うのですが、日本の生命倫理学者のあいだではわりと有名な論文があって、日本の生命倫理学を牽引してきた森岡正博先生やその周辺の先生たちが熱心にやってた時期があるのです。まああんまり知られてなくてもしょうがない[1]あれ、これは注19にあった。本文にしましょうよ。ていうか「ついぞ聞いたことがない」って書きながらこういう注つけてるのなんですか。。(あと
キャッチーなタイトルのガブリエル・ブレアさんの『射精責任』ですが、内容的には「避妊しましょう、特にコンドームで避妊しましょう、妊娠を望んでいないのに避妊しないセックスは無責任です」という話で、まあごく普通の話で新しいアイディアは何も含んでいないと思います。性教育にはよいと思うので、学校やら会社やら喫茶店やら、そこらへんの人目に触れるところに置いといて読んでもらったらいいんじゃないでしょうか。 ちょっと検討してみたいのが社会学者の齋藤圭介さんによる解説で、これは著者紹介に加え、アメリカの中絶論争史と、日本の避妊・中絶の現状、そして本書の論点・争点の簡単な検討などが含まれていて、読みごたえがある立派なものです。立派だとは思うのですが、いつものように、気になる点をいくつか指摘しておきたい。 第2節[1]第2「章」になってるけどこれくらいの分量で「章」っておかしいと思うの「アメリカの中絶をめぐる歴
「レイプの動機は性欲ではなく支配欲」っていうのはちょっとやばくて、これ自体は新しい神話とでも呼んだ方がいいかもしれない。いろいろ悪影響があるので注意してください。 でもそこらへん以外の点では、マッケラー先生以来フェミニストの皆さんが指摘している「レイプ神話」の多くが実際に神話であるってのはいまだに大事なことで、神話は撲滅したいものです。ここらへん、フェミニストの支配理論以降、進化心理学なんかの影響も受けつつ、行動科学として発展しつづけている犯罪学とかの知見をちゃんと勉強しておきたいですね。 わたしのおすすめはこれです。 これはものすごく立派な本だと思いますね。 この本では「レイプは支配欲が原因」みたいなあきらかにだめそうな理論は注意深くしりぞけられてますが、やっぱり「レイプ神話はなくそう」みたいなことが提唱されてます(前書き、pp.44-46)。 「男性は女性に比べてはるかに強くまた抑えが
前のエントリではちょっとミル『自由論』の話して、出典の話で終ってしまったのですが、それではあんまり失礼かもしれないので、論文の内容にも少しコメントしておきたいと思います。 私が見るところでは、五野井論文は以下のような構成になっています。 不買運動などのボイコット運動は正当な民主主義運動ですし、それはツイッターでのハッシュタグ運動などに発展しています。(前回触れたミル解釈はここで出てくる) ボイコット運動の延長としてキャンセルカルチャー=コールアウトカルチャーを説明します。ハッシュタグアクティビズム、ノープラットフォーミングなどを紹介します。その問題点は恣意的になりやすいこと、いつ「キャンセル」が終るかわからないことなどです。 キャンセルされた有名事例を列挙します。トマス・ポッゲ、ピーター・シンガー、J.K.ローリング、リチャード・ドーキンス、チャールズ・マレー、スティーブン・ピンカー、V.
毎日新聞での「キャンセルカルチャー」擁護記事で五野井郁夫先生という方が話題になっていたので、その記事の元ネタらしき『世界』2023年6月号の五野井郁夫「キャンセルカルチャーはデモクラシーを窒息させるのか」という論文をめくってみました。『世界』とかのいわゆる論壇・総合雑誌に載ってる文章こそ「論文」だっていう感じがありますよね。重大な社会的問題を論じるのだ!って感じ。 さてこの文章いろいろ問題があると思いました。いちいち書けないのですが、奴隷商エドワード・コルストンやレオポルド二世の像なんかが「21世紀の公共空間には不要」で「芸術的価値や資料的価値をことさらに強調したいのであれば、人目につかない倉庫で保管すればよいだけの話」であり、「大っぴらに他者を傷つけたいとの願望は自身の脳内に収めて」おけ、といった文章には驚きましたが、それより次の文章ですね。 思想信条の自由とは、J・S・ミルが『自由論』
前のエントリ「ヘイトスピーチや悪口を分類しよう」の補足ですが、「ヘイトスピーチを分類しよう」ってんですが、んじゃそもそも「ヘイトスピーチ」の定義はどうなってるのか、と気になる人がいるかもしれません。それはとてもよいことです。Yong先生がそこらへんをどう扱っているかはとても参考になります。 このブログでは、前からいくつかのエントリで定義定義定義が大事です、みたいなことを主張しているわけですが、「ヘイトスピーチ」の定義自体がむずかしそうです。どうしたらいいのか。 Yong先生はまずこんなこと言います。 「ヘイトスピーチ」は、広い名称として、他人たちを、人種、国籍、宗教、ジェンダー、性的指向、その他なんらかのグループのメンバーであるという理由から他人を攻撃するスピーチだ。そしてそのグループに所属しているこことは道徳的には恣意的に区別する特徴である」 これは、だいたい辞書的な定義といってよいと思
言論の自由と悪口の関係については興味があって、昨日Yongという先生の「言論の自由はヘイトスピーチも含むか」っていう論文(Yong, C. (2011) “Does Freedom of Speech Include Hate Speech?,” Res publica , 17(4))読んでたんですが、ヘイトスピーチでありえるものを分類してて興味深かったです。 先生によれば、ヘイトスピーチと呼ばれるやつは最低四つぐらいのカテゴリに分けられて、「言論の自由」にもとづいた法的な対応なんかはそのカテゴリを意識して考えられるべきだそうです。 四つっていうのは (1) targeted vilification、(2) diffuse vilification、(3) organized political advocacy for exlusionary and/or eliminationis
社会学とかの文献を見ていると、「関係性」とか「親密性」っていう言葉をよく見かけるわけですが、これは曖昧な言葉なので注意しましょう。 日本語で「〜性」という語尾の言葉を見ると、「具体性」(具体的であること、具体的であるという性質)とか「可能性」(可能である性質)とかっていうごく抽象的な 性質 を指す言葉として使われているわけです。そのつもりで「関係性」とか「親密性」とかを見ると、「関係があるという性質」「親密であるという性質」を指していると勘違いしやすいのですが、社会学とかの文脈で使われる「関係性」や「親密性」は性質では なく 、具体的な 関係そのもの 、親密な関係 ≒ 内緒話をしたりセックスするような関係を指すことも多いようです。そういう場合は「関係性」「親密性」ではなく、「関係」「親密関係」のように表現した方がずっとわかりやすいはずです。 私見によれば、これそもそももともとは 誤訳に近い
https://yonosuke.net/eguchi/archives/15710 に続いて、また清水先生の講演の問題点に戻ってしまうんですが(しつこいけどいやがらせではない)。ちょっと「学問の自由」と「キャンセルカルチャー」の定義を見てみたい。 「 キャンセルカルチャー 」ですが、英語版のWikipediaだとこうなってますね。 https://en.wikipedia.org/wiki/Cancel_culture Cancel culture or call-out culture is a phrase contemporary to the late 2010s and early 2020s used to refer to a form of ostracism in which someone is thrust out of social or professional
言論の自由とかキャンセルカルチャーとかには職業がらどうしても関心をもたずにはいられないので、「フェミ科研と学問の自由」シンポジウムでの清水晶子先生の「学問の自由とキャンセルカルチャー」を見ました。この講演は私はいろいろ問題あると思います。 書き起こしはここにあります。 https://anond.hatelabo.jp/20220805225632 https://note.com/philo_radi/n/ne2da785c938c#67021145-cdee-46f0-adab-d18dcf74099f まず全体の構成を見ると、 「学問の自由」の理念を確認 いくつかの国内での学問への政治的圧力を確認 しかし「学問の自由が濫用される」ことがあることを指摘 「キャンセルカルチャー」が反ポリコレの流れのなかで生まれてきた言葉であることを確認 父ブッシュ大統領が言論の自由を擁護し、ポリコレの動
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