プロ野球のドラフト会議が23日に行われ、12球団計116人(支配下73人、育成43人)が指名を受けた。狭き門を突破したのは、ほんのわずか。東大からプロ志望届を提出した元ロッテの渡辺俊介氏を父に持つ渡辺向輝投手(4年=海城)と酒井捷(すぐる)外野手(4年=仙台二)の名前は呼ばれなかった。同大は今日25日から東京6大学秋季リーグの法大戦に臨む。今カードを終えると、2人は共に野球に一区切りを付ける。
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冷静に自分とプロの距離感を抱いた。今季は6試合登板し、0勝3敗、防御率7・40。厳しいシーズンを送ってきた。渡辺は「プロを目指す立場として自分を客観的に見たとき、改めて厳しいなと思っていました」と率直な思いを述べた。
志望届を提出してから、唯一面談の場を設けてくれたのが日本ハムだった。
1時間じっくり。膝を突き合わせた。球団幹部からの質問で印象に残ったのは「どんな人生プランを描き、野球はどう位置付けているか」と「今の野球界をどう思うか」だった。前者は「最初はプレーヤーとして所属し、引退してからは組織を運営する立場に回りたい」と夢を語り、後者では神宮の舞台で日頃感じてきたことを言葉にした。
渡辺 みんなが同じように体を大きくして、ボールの質が良いとされる球を打たれにくいコースに同じように投げる。それを力強い人が打ち返すみたいな。もう完全に体が大きい人だけのスポーツみたいになっているなと感じました。型にはまった選手がどんどん上に出ていく中で、果たして自分のように逆行するようなプレースタイルで本当に戦えるのか。
悔しい指名漏れとなり、かねての宣言通り、野球は引退して内定をもらった一般企業に進む。「自分がアンダースローになって、たまたまうまくいった時期を味わえた。ずっと自分の価値を高めることに重きを置いてきましたが、これからは人を巻き込んで価値を生み出すことがしたい」。大学でのラスト登板が刻々と迫る。【平山連】
◆渡辺向輝(わたなべ・こうき)2004年(平16)2月25日生まれ、千葉・浦安市出身。小3から浦安ベイマリーンズで野球を始め、中学は海城(東京)軟式野球部、高校は同校硬式野球部。高3夏は城北に初戦敗退。東大では当初は上投げ、横投げを織り交ぜていたが、2年春にロッテで活躍した父俊介氏と同じく下手投げへ完全転向。167センチ、63キロ。右投げ右打ち。
初志貫徹を貫いた。ドラフトが終わるまで、酒井は進路をプロ1本に定めた。就活はせず、どんな結果になろうと受け入れると決めていた。「しっかり今日の結果を目に焼き付けて、受け止められるような1日にしよう」と臨んだが狭き門は最後まで開かなかった。
プロ野球の世界を本気で目指そうと思ったのは、高校時代のひょんなことがきっかけだった。東大合格後に地元紙の取材を受けた際、大学での目標について「6大学でプレーし、大卒でプロに行く」と宣言。とっさに出た言葉は、かねて抱いてきた本音でもあった。「幼い頃からプロ野球選手になりたいという思いはありましたが、高校時代に東大に合格してから再び強くなりました」。とにかく目立ちたい。それが原動力で、一番輝ける場所が神宮だった。
50メートル走6秒0の快足を生かし、2年秋にはリーグ最多の5本の二塁打を残し、打率3割1分6厘でベストナインに選ばれた。同12月に愛媛・松山市で行われた大学日本代表の候補合宿にも選ばれ、東大史上初の内野手としてプロ野球選手誕生に期待が高まった。
指名はなかったが、この先の糧になるような「大きな挫折経験ができた」と実感。白黒はっきりついたことで、新たな舞台に向かう気持ちが徐々に芽生えた。人生は、まだまだ長い。秋のリーグ戦が終わったら、就職留年も視野に入れて自分のやりたいことを探す。一番輝ける、目立てる舞台を求めて。【平山連】
◆酒井捷(さかい・すぐる)2003年(平15)10月14日、宮城・仙台生まれ。小学2年で寺岡ブラザーズで野球を始め、寺岡中-仙台二を経て東大に進学。東大進学後は俊足好打で2年春からレギュラーを奪取し、同秋にベストナイン選出。目標とする選手はイチロー、座右の銘は「断乎前進」。172センチ、80キロ。右投げ左打ち。