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新内閣発足
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『レコード・コレクターズ』2003年4月号掲載(URC特集) URC:ムーヴメントとしてのフォークを実践した インディペンデント・レーベル 篠原 章 第二次世界大戦後の日本では、ほとんどのポップ・カルチャーが、アメリカなど欧米からの「輸入品」として紹介されてきた。ひとたび紹介されたポップ・カルチャーは、最新のモードとしてもてはやされ、素朴かつ無分別に模倣される。もちろん模倣に終わるものもあったが、日本固有の要素と対立や融合を繰り返しながら、独自のカルチャーとして確立された事例も珍しくなかった。フォークも例外ではない。試行錯誤の後、本家・アメリカとは異なる個性的な軌跡を描いたと考えていいだろう。 移入文化としてのフォークは、まず60年代初めにアメリカから日本に持ち込まれた。田舎臭かったフォークを都市のポップ・カルチャーに革新したピーター・ポール&マリーやブラザーズ・フォーなどに触発されて、日
篠原章『J−ROCKベスト123』(講談社文庫・1996年6月)所収 日本ロック通史(第一部 1956〜1978) *文庫収録のものと内容は若干異なります。また、文庫用書き下ろし原稿のため、数字等は縦書きフォーマットのままとなっています。読みにくいとは思いますがご理解のほどお願いします。 もくじ(第一部) 1.「進駐軍ポップ」からロカビリーへ 1956-59年 2.翻訳ティーン・ポップの興隆 1960-63年 3.エレキ・インスト・ロックの波 1964-65年 4.ビートルズの落とし子・GS 1966-68年 5.日本ロックの誕生 1968-72年 6.ロックの多様化とニュー・ミュージック 1973-78年 第二部(1978-1990年代)へ 1.「進駐軍ポップ」からロカビリーへ 1956-59年 第二次世界大戦後における日本のポップ・ミ
日本ロック雑誌クロニクル 【インターネット版】 (1)中村とうようと『ニューミュージック・マガジン』 篠原 章 ※ネット版は『クィック・ジャパン』(第30号・2000年4月・太田出版)収録のものと若干異なります。 「ロック」という言葉がまだ手垢にまみれていない、フレッシュな響きをもっていた70年代、「中村とうよう」といえば“泣く子も黙る”と形容されるような、強面の音楽評論家としてロック・ファンのあいだで知らぬ者はなかった。音楽評論家というより元祖・ロック批評家、いや“日本のロック・ジャーナリズムの祖”といっても言い過ぎではない。外来サブカルチャーとしてのロックを日本に定着させ、「日本のロック」を育てた雑誌『ニューミュージック・マガジン』(現在の『ミュージック・マガジン』)の創始者・初代編集長として今も日本の音楽ジャーナリズムの頂点に立つ。 日本のロックの成長とともに年を重ねてきたぼくにとっ
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