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新内閣発足
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ヘルムート・フェッター 浜渦 辰二(訳) 1、初期ハイデガーにおける「世界」と「存在」の関係への問い ハイデガーの最初の弟子の一人であるガダマーは一九八一年、ハイデガーにおける宗教的次元に関する論文のなかで次のように述べている。「フライブルクから学生達がやって来たすでに一九二〇/二一年当時、彼らはフッサールよりも多くハイデガーについて、しかも彼の極めて個性的で深遠かつ斬新な講義について報告していた。その頃ハイデガーは例えば『世界する〔=世界としてある〕(Es weltet)』といった用語を使っていた」(1) 。そのさいガダマーは、ハイデガーの講義『宗教現象学入門』を挙げている。しかし、この「世界する」という表現はすでに初期フライブルク時代の講義の一つ、一九一九年の戦時短縮学期に、戦争に参加していた学生のために特に行われた講義『哲学の理念と世界観の問題』のなかにも見出される。他方で、若きハイ
(注記: これは、静岡大学人文学部『人文論集』第45号の1[1994年7月30日発行]に掲載されたものです。) 1、空間の形式性(1) カントの空間論(および時間論)(2) は、周知のように、一方におけるニュートン(およびオイラー)的な「絶対空間」説と、他方におけるライプニッツ的な「空間=関係(事物の秩序)」説という、両者の対立の狭間を縫って、それぞれの持つ難点を回避し、両者を綜合するものとして考え出されたものであった(3) 。カントによれば、ライプニッツ説では、空間は、「経験から抽象された、その分離において混乱して表象された諸現象の関係」(A40=B56f.) (4) に過ぎないこととなり、そこからは、ア・プリオリな判断としての数学の可能性を認めることができなくなる(ibid.) 。他方、ニュートン・オイラー説によれば、ア・プリオリな綜合判断としての数学の可能性は説明されうるが(A40=
(注記: これは、『哲学年報』(九州大学文学部紀要)第49輯[1990年3月30日発行]に掲載されたものです。) はじめに 〈他者〉の問題(あるいは、フッサールがその問題の核心として考えていたもの)と「他人の心」の問題(あるいは、英米の哲学でしばしばそういう表題のもとに議論されているもの)とは、なんらかの平行関係があるとはいえ、どこかで微妙にズレているのではないか。―――これは、筆者がこの間、フッサールにおける他者と間主観性の問題を論じる(1) 一方で、英米の哲学の議論にもわずかながら眼を配って来た(2) 際、絶えず感じていたことである。フッサールは現象学的心理学と超越論的現象学の間には「或る奇妙な一貫した平行関係」があるとともに、或る「微妙な差異」があり、この「微妙な差異」こそ哲学にとって決定的だ、と語っていた(V.146ff.)(3) が、この両者の関係にも似て、〈他者〉の問題と「他人
(注記: これは、日本現象学会編『現象学年報』第10号[1995年1月30日発行]に掲載されたものです。ただし、活字になったものと一部異なる可能性がありますので、ご注意ください。) 現象学において、他者の問題は、汲み尽くせぬ泉のように、繰り返し様々な議論を誘発してきたテーマである。これまで現象学に大なり小なりコミットした哲学者のほとんどが、何らかの形でこの他者問題に首をつっこんでいるのは驚くばかりである。そういう事態をもたらしたのは何より、現象学の創始者であるフッサールが他者をまさに問題とみなし、早い時期から晩年に至るまでこれと取り組み続け、にもかかわらず、明確な解決を提出できたというわけではない、という事情であっただろう。フッサール現象学のなかにあるのは、他者問題への解答ではなく、それを求めて行われた様々な試行錯誤である。それ故にこそ、フッサール現象学から何かを学び取ろうとする者は、それ
(注記: これは、『哲学論文集』(九州大学哲学会編)第36輯[2000年9月25日発行]に掲載されたものです。) はじめに 哲学においては、古代ギリシア以来、或る意味では、対話にいつも重要な役割が与えられて来た。言うまでもなく、哲学(Philo-sophie)という語と同様、対話(Dia-log)という語もまた、古代ギリシア語に起源をもつ。ソクラテスの哲学の方法は、問答という対話であったし、プラトンの哲学の叙述形態は、その師の対話を再現することから始まる対話篇であった。一・二人称が中心となる対話形式に対して、アリストテレスの三人称を中心とした講義形式の叙述は、一見、対話とは縁遠いように見える。しかし、彼は人間を「ポリス的動物」と呼ぶかたわらで「ロゴスをもった動物」とも呼んでおり(1)、その行間を読もうとするとき、ロゴスを交わすことによってポリスを形成するという人間の姿が浮かび上がる。そこに
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精神病理学は「失敗した学問」なのか? ─渡辺哲夫『二十世紀精神病理学史序説』を読む─ 2002年4月17日 臨床と哲学の研究会にて 浜渦辰二 1.「失敗した学問」の元凶は〈歴史の不在〉にある? 昨年12月、渡辺哲夫『二十世紀精神病理学史序説』(西田書店、2001年)が出版された。「二十世紀精神病理学史」を語るこの本は、精神病理学を「失敗した学問」と呼ぶ章から始まる。16年前の著作『知覚の呪縛─病理学的考察』(西田書店、1986年)は、作家・田口ランディの「四十歳になって、本書『知覚の呪縛』と出会ったときの衝撃は、十五歳のときに〔セシュエー『分裂病の少女の手記』によって〕分裂病の存在を知ったときの衝撃の百倍もあった。メガトン級のショックを受けた」という賛辞によって今年2月に文庫本化(ちくま学芸文庫、2002年)されたが、「二十八年間にわたって精神病理学という研究領域に身を置き続けてきた」著者
(注記: これは、中部哲学会編『中部哲学会紀要』第29号[1997年3月25日発行]に掲載されたものです。) 1.フッサールの「新デカルト主義」 2.デカルト形而上学の閉鎖性 2-1.時間の排除 2-2.他者の排除 2-3.身体の排除 3.デカルト自然学の隠蔽性 4.「哲学の樹」は「大地」に根を張る 注 フッサールはデカルトから多くを学んだが、それはあくまで批判的に学んだのであって、デカルトから単に何かを借用したり継承したりするだけでよいとは考えていなかった。フッサールが唯一、過去の哲学者の名前を自らの著書に冠したのは『デカルト的省察』であるが、彼はそのなかで次のように述べている。「たとえデカルトの省察の動機をまさに徹底的に展開するために、かえってデカルト哲学の周知の学説内容をほとんどすべて放棄せざるをえなくなっているとしても、われわれは超越論的現象学を、一種の新デカルト主義(Neu-Ca
(注記: これは、静岡大学人文学部『人文論集』第44号の2[1994年1月31日発行]に掲載されたものです。ただし、活字になったものと一部異なる可能性がありますので、ご注意ください。) はじめに ではいったい空間とは何でしょうか。だれも私にたずねないとき、私は知っています。たずねられて説明しようと思うと、知らないのです。--- (1) 空間はさておき、時間について言えば、アリストテレスが『自然学』において展開した時間論とアウグスティヌスが『告白』において展開した時間論は、時間を論ずる際の根本的に対立する二つの考察方法として、しばしば対比的に考察されている。では、空間については、この両者においてどのように考えられているのだろうか。アリストテレスが『自然学』第四卷において時間を論ずるのに先立って、同じ第四卷の冒頭で(近代哲学流の言い方で言えば)空間論(2) を、しかも時間論とパラレルな仕方で(
Go to: English Version; German Version. こちらは、はまうず・ホームページです。 私こと、浜渦辰二(はまうず・しんじ)は2020年4月1日より、上智大学グリーフケア研究所・特任教授に着任しました。本サイトは、私が大阪大学在職中に作成したものです。 私は、大阪大学大学院文学研究科/文化形態論専攻/臨床哲学および文学部/倫理学専修の教員として、臨床哲学・倫理学を教え、また、大阪大学大学院医学系「医の倫理と公共政策学」の兼任教授として、科目等履修生プログラム「医学倫理・研究ガバナンスプログラム」で「医療倫理概論」の一部を担当してきましたが、2018年3月末日をもって、定年退職となりました。2018~2020年度は、名誉教授・招へい教授として大阪大学文学研究科に籍を置いています。 大阪大学在職中、教育ではさまざまな興味からいろいろなことに携わってきましたが、狭
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