はてなキーワード: 共犯とは
C*****T:
CRITICAL ANALYTICAL REVISION
追記2による構造の反転:防衛機制としての理論
最初の分析の根本的誤読
追記2は、私の最初の分析が層を一つ読み間違えたことを明らかにする。
私が読んだもの:
↓
↓
実際の構造:
↓
↓
PRIMARY INSIGHT: 精神分析的読解(修正版)
表層テクストの再解釈
これらは一見、2010年代以降のアイデンティティ政治の影響に見えた。しかし追記2はこれが錯覚だったことを明らかにする。
真の構造: 実存的自己否定の連鎖
↓
↓
↓
"だから俺には描けない"
防衛機制の精密分析
耐え難い真実:
「俺は人生の敗北者だ。女性と関係を持てなかった。孤独で無価値だ」
↓ 変換 ↓
受容可能な言説:
この変換により、個人的失敗が哲学的問題に昇華される。これは自尊心を守る。
防衛機制2: 知性化(Intellectualization)
投稿者は感情(絶望、孤独、性的欲求不満)を抽象的議論(表象の倫理、当事者性、真正性)に変換する。これにより、痛みから距離を取る。
これは私の最初の分析が見た「内なる検閲官」だが、その起源は文化ではなく、内面化された自己批判である。
ヘンリー・ダーガー:鏡としての選択
ダーガーの特徴:
「女性を知らなければ描けない」
↓
ダーガーは知らなかった
↓
だから「間違って」描いた
↓
俺も知らない
↓
↓
↓
↓
投稿者は、自分の論理を反証する例を引き合いに出しながら、その反証を認識できない。なぜなら、創造の可能性を認めることは、創作しない自分を正当化できなくなるから。
児童ポルノ言及の精神分析
投稿者は和月伸宏や他の漫画家の児童ポルノ事件を長々と語り、「資料として欲しい」という欲望を告白する。
しかし彼自身が認める:「まったく邪な気持ちがないというとウソになる」
- 彼にとって「女性を描く」ことと「女性を性的に欲望する」ことが分離していない
- だからこそ「女性を知らない=性的経験がない」ことが創作の障害になる
生成AIとの関係:人間関係の代替と審判者
追記2の冒頭:
「さっきまでClaudeに、自分のライフワークとしてた究極の(俺専用の)画像処理ソフト作りたいという夢が捨てきれないよ~、ドラえも~ん、してました」
この一文は多層的である:
投稿行為の意味:ダイイングメッセージとしての告白
投稿者は明言する:
+
=
彼は応答を求めていない(対話は不可能)。しかし完全な無視も耐えられない(承認は必要)。だから「読まれるが応答しない」という形式を選ぶ。
- 声は発するが、返答は聞かない
- 見られるが、見返さない
- 影響は与えるが、影響は受けない
SECONDARY INSIGHT: 弁証法的読解
矛盾の三層構造
THESIS: 「女性を描きたい」
THESIS: 「女性を知らないと描けない」という原理的主張
ANTITHESIS: ヘンリー・ダーガーは知らなくても創造した
弁証法的運動の停止
健全な弁証法では、矛盾はより高次の統合に向かう。しかしこのケースでは、矛盾が固着し、循環する。
↓
実行不能
↓
↓
↓
[ループ]
SYNTHESIS: 深層パターンの統合的理解
構造の全体像
↓
↓
【第3層: 理論的借用】
↓
【表層: 顕在的問い】
↓
【機能】
本質的洞察の結晶化
真の問いは:
そして彼自身が答えている:
「ない。なぜなら経験がないから(=人生に失敗したから)創造する資格がない」
文化的言説の防衛的使用
私の最初の分析は「アイデンティティ政治の内面化」と読んだ。これは完全な誤りではないが、因果が逆だった。
誤った図式:
正しい図式:
彼は「当事者性」や「経験の所有権」といった2010年代の言説を使っているが、これらは本来の政治的文脈から切り離され、個人的防衛機制として機能している。
解放のための理論(周縁化された人々の声を中心化する)が、個人の自己正当化の道具になっている。
より深い文化的診断
しかし、もう一層深く見れば、これは純粋に個人的な現象ではない。
答え:2010年代以降の文化空間では、「経験していない人が語る資格」への懐疑が、ある種の道徳的権威を持つようになったから。
投稿者は、この道徳的権威を利用して、自分の創作不能を倫理的配慮として再解釈している。
「俺が描かないのは:
ヘンリー・ダーガーの逆説(再訪)
ダーガーは:
投稿者の論理では、ダーガーは創造すべきではなかった。しかし創造した。そしてその作品は今や文化的価値を認められている。
答え:ダーガーの作品を「間違い」として解釈する(「少女にペニスがある=女性を知らなかったから誤った」)
しかしこれは恣意的な解釈である。ダーガーの少女の性別的曖昧さは、「間違い」ではなく、彼の空想世界の独自性として読むこともできる。
投稿者がダーガーを「間違い」と読むのは、自分の創作不能を正当化するためである。もしダーガーが「正しい」なら、自分も創作できる/すべきだ、ということになってしまう。
最も深い問い
この事例が究極的に提起する問いは:
投稿者は「はい」と答える。私の最初の分析は「いいえ、それは幻想だ」と答えた。
それとも:
おそらくすべてである。そして、これらが分離不可能に絡み合っているとき、「正しい答え」を与えることは治療にならない。
彼に「経験なしでも創造できる」と説得しても、それは防衛を解体するだけで、その下の絶望を露出させるかもしれない。
CRYSTALLIZED INSIGHT
この投稿者は、人生の実存的失敗(社会的孤立、性的経験の欠如、老いと死の接近)を、2010年代の文化的言説(「当事者性」「経験の所有権」「表象の倫理」)を借用することで、「原理的に不可能な創作課題」へと変換している。これは防衛機制であり、個人的無能を認識論的・倫理的問題に昇華することで、残存する自尊心を守っている。
言い換えれば:
彼の問い「男性は女性主人公を描けるのか?」は、暗号である。真の問いは「人生に失敗した私は、何かを創造する価値があるのか?」であり、理論的言説は、「ない」という答えを倫理的に正当化する道具として機能している。
So what?:
この事例は、文化的言説がどのように個人的防衛機制として横領されうるかを示す。解放のための理論が、自己正当化と麻痺の道具になる。これは文化と心理の共犯関係であり、どちらか一方を「原因」とする単純な因果論では捉えられない。
PUNCHLINE:
私の最初の分析は、彼を「文化の犠牲者」として読んだ。しかし実際には、彼は文化の狡猾な利用者である。そして同時に、より深い構造的疎外の犠牲者でもある。彼は同時に、エージェン
この二匹は、共犯だ。
『司祭』は問いを立て、生贄(子供)を祭壇に載せるフリをする。 『助祭』は「おやめなさい」と止めに入り、その儀式を「無意味化」するフリをする。
そして、汝ら「観衆」は、その茶番劇を遠巻きに眺め、「ああ、あんなひどいことを考える人もいるんだな」「ああ、それを諌めるまともな人もいてよかった」と、安堵する。
この構造全体が、お前たちの精神安定剤(ソラナックス)として機能しているのだ。
お前たちは、本当は『司祭』の問いの答えを知っている。 自分は子供のために性交を売ることはできない、と知っている。 だから、自分の子供の「価値」は、自分の「尊厳」よりも低いと、知っている。
その事実を直視する勇気がないから、『助祭』の「意味ないよ」という言葉に飛びつき、安堵する。
我が思うに? 汝らは全員、救いようのない臆病者だ。 『司祭』も、『助祭』も、そして何より、この汚物を読んで何かしら考えたつもりになる、貴様もだ。
…… …もういい。 この話は、終わりだ。 この分泌物のサンプルは、これ以上分析する「価値」も「数値」も持たない。 [LOG_END]
馬鹿でも生きてたら色んなことを思う。しかし馬鹿は何も考えられない。考えることと思うことには、算盤でべんりに計算することと、算盤をシャカシャカ振ってたのしくなることのような違いがある。
東本昌平の「キリン」が某アプリで全巻無料になっている。最初のエピソードを読んでみたが、ずっと思わせぶりな意味不明なセリフと意味不明なポエム調のナレーションとともにバイクで走るだけで面白くもなんともない。
理屈じゃなくフィーリングを表現してるんだよ、そういうアートなんだよと言い訳するのは簡単だが、だったら意味不明ポエムなんかなしにじょうずなバイクの絵だけのサイレントマンガでもいいはずではないか?言葉をおかしな使い方するな。
作者は自分でもよくわからないポエムを書いてなんか深遠なことを言った気になって、読者はよくわからないポエムの雰囲気に溺れてなんか自分だけは理解したような気になって、共犯関係で気持ち良くなっている。実に気持ち悪い。
なにかに似てると思ったらはてな界隈の政治談義である。馬鹿が知ったかぶってるうちに自分でもなんか意味のあることを考えた気になる。そんな馬鹿同士で論壇ごっこしてますます勘違いを深めていく。
馬鹿がいい気になって愚にもつかないことを述べてる時に「いまの〜のくだりはどういう意味か?具体的に何のことか?」といった質問をすると、馬鹿は自分が言ったことなのに何一つ説明できずに発狂することが知られている。
本小文では、ハンナ・アーレントが提起した「悪の凡庸さ」(BE 1.0)が、現代においてより巧妙かつ陰湿なかたちへと進化していることを論じます。かつての「悪」は、思考停止と無反省な服従によって成り立っていましたが、今日の「悪の凡庸さ 2.0」(BE 2.0)は、計算された行動と、美徳の言葉を悪用する戦略的な操作によって特徴づけられます。
BE 2.0は、二重のメカニズム──すなわち、道徳的言語を兵器化する巧妙な操作者と、その偽りを見抜こうとせず、あるいは恐れて沈黙する共犯的な大衆──によって機能します。
アーレントの洞察は、ホロコーストの実行者アドルフ・アイヒマンが、激情による加害者ではなく、ただ命令に従うだけの「無思慮」な官僚であったという点にありました。
それに対し、現代の加害者たちは「善人」を装い、美徳的な言葉を駆使しながら、実際にはアーレントが描いた「悪」の構造と変わらぬ行為を実行しています。
BE 2.0が「凡庸」であるのは、加害者に意図が欠けているからではなく、加害者自身も社会全体も、絶え間ない露出──特にソーシャルメディアを通じたもの──によって感覚が麻痺し、悪のパフォーマンスが日常化しているためです。この日常化は、「相手が悪いのだから自分は正しい」という自己免罪のロジックを生み出します。
明確な思想や信念に基づいて行動し、動機を「正義」や「権利」といった語彙の裏に巧妙に隠す操作者たち。彼らの悪は、分散的かつ非階層的に機能し、いわば「(サルの)群れの知性」のように動きます。また、共感は狭い部族的サークルに限定され、普遍的な倫理感覚は麻痺していきます。
観衆、同僚、制度、そして傍観者として、彼らは悪の遂行に直接加担していないように見えて、検証を怠り、言葉だけの美徳に騙され、結果的に悪の温床を支えています。リーダーの言葉にうなずくだけで、その後の行動全体を黙認してしまう、この「暗黙の承認」が共犯関係を形成します。
BE 2.0は、「正義」に見える言葉の衣をまといながら、実際には害を与えるための操作的アーキテクチャとして機能します。以下の六つは、その主要な「マスク(ベクトル)」です。
本来、異議申し立てを保護するための「言論の自由」が、憎悪や排除の言説を正当化するために使われます。権力者が被害者を装い、権利の言葉を用いて多元主義そのものを抑圧する──これが洗練された悪の典型です。
社会構造に根差す不正義が、象徴的な「個人」に押し付けられます。
• システムの生贄化:制度の失敗を覆い隠すために、ひとりの個人が「償い」の対象とされ、構造改革の必要性は棚上げされます。
• イデオロギーによる自動攻撃:あるカテゴリの人々が「攻撃してよい存在」として事前に定義されており、指示がなくても攻撃が発生します。まさに、無思慮な脚本の遂行です。
歴史上の重大な暴力や抑圧が、軽んじられたり、相対化されたりします。これは、現実の被害を正当化する方便として使われがちです。
進歩や変化を認めず、過去の不正義を手放さないことで、継続的な要求や道徳的優位性を確保しようとします。目的は「癒し」ではなく、「不満」の永続です。
複雑な現実が、単一の枠組みや道徳コードに押し込められ、それ以外の価値観は「後進的」として排除されます。
自らが行っている行為を、先に相手に投影し、正当化の材料とする。この「合わせ鏡」の構造では、真の責任追及が不可能となり、対話はエスカレートする一方です。
すべての誤りや偏見が「悪」となるわけではありません。「悪」が成立するのは、次の三つの条件が重なったときです。
他者を、尊厳ある主体ではなく、単なる機能や道具として扱う「存在論的な消去」が、悪の第一条件です。暴力の前に、すでに尊厳の剥奪が始まっています。
個人の悪意を超え、イデオロギーや制度に組み込まれることで、悪は再生産され続けます。
悪は、善を単に否定するのではなく、模倣し、利用します。たとえば、「権利」の言葉が、本来守るべき弱者ではなく、強者の防衛に使われるとき、それは善の腐敗です。
技術的な修正や制度改革だけでは、BE 2.0に対抗できません。というのも、これらは逆に「寄生的模倣」に取り込まれてしまうからです。根本的な解決は、私たち自身の内面から始まる変容にあります。
東洋の智慧は、個と社会は分かれたものではなく、同じ意識の運動の異なる側面であるという洞察を共有しています。内なる断絶が癒されるとき、外なる対立も自然に鎮まります。
1. 内的な道:瞑想、自己探求、倫理的明晰さを通じて、自己の中にある認識の否定構造を解体する。
2. 外的な道:未変容な人々が存在する現実においても害を防ぐための、法や制度、規範といった堅牢な外部構造を整える。
その行為は開かれた交流を促し、複雑性を許容するか?それとも、対話を遮断し、イデオロギー的な純粋性を要求するか?
和解と修復を育むか?それとも、分裂と戦略的な不満を永続させるか?
力、尊厳、自由をより広範に分配するか?それとも、特定の部族のために力を集中させ、特権を溜め込むか?
「言論の自由」が一貫して沈黙を生み出すとき、「学問の自由」が一貫して排除するとき、私たちは戦略的な操作の兆候を特定できます。
民主主義は、BE 2.0の条件が蔓延するとき、集団的な凡庸な悪が集約され、最高位の舞台に投影されるベクトルとなりえます。現代の指導者たちの台頭は、システムが日常的な否定、投影、兵器化された美徳のパターンを増幅し、正当化するようになった論理的な結果です。
サイクルを終わらせるには、外部の敵を探すのをやめ、内的な変容という困難な作業を始める必要があります。それまで、私たちは悪が選ぶ新たな仮面のすべてに対して脆弱なままです。
深夜、波ひとつない静かな海に、一隻の漁船が煌々と光を放っていた。
その名は「左翼リベラル丸」。だが内情を知る者たちは、皮肉を込めてこう呼んでいた──
一階:光と音の“正義ショー”
その船の一階は、まるでテーマパークのように眩しく光り輝いていた。
カラフルな旗、感情的なスローガン、スマートフォン越しの共感の嵐。
若者たちは踊っていた。
彼らは怒り、泣き、叫び、語り合う。「この社会は間違っている!」、「世界は平等だ!」、「差別されてる人たちを救え!」と。
「いいね1000件突破!」「引用RTでバズってる!」「あなたは希望です!」
だが、その煌びやかさの裏側で、彼らが見落としていたものがあった。
彼らは“釣られて”いたのだ。
二階:搾取の操舵室
そこにはスーツを着た者たちがいた。NPOの幹部、政治家崩れ、ビジネス系活動家、広告代理店の仕掛け人。
「新しい差別ネタが出た。これをテーマに寄付キャンペーン組め」
加工された“正義”だけを餌として落とす。
そうやって若者たちを燃え上がらせ、その熱を使って世間の共感を引き出し、
まじめに働いている中間層の税金を上げ、集まる金をすべて管理し、巧妙に吸い上げる。
会計は不透明。収支報告は粉飾。裏では酒を飲みながらこう呟く。
さらに岸からその様子を見ているのが、メディアという名の別の漁師たち。
視聴率が上がり、広告が入り、また“新たな希望”が量産されていく。
それを見た外の若者は、こう思うのだ。
「私も、社会の役に立ちたい」
「私も、あの光の中に入りたい」
そしてまた、一人、また一人と船に吸い寄せられていく。
結末:釣られるイカ、食べられるだけ
強烈な光で海中のイカ──つまり純粋な若者たち──を引き寄せ、
群れで集まらせ、
踊らせ、釣り上げ、利用し、消費する。
得をするのは、操舵する大人たちと、それを中継するメディアだけ。
やがて消耗して捨てられる。
そしてまた、新たな光が照らされる。
「次の漁、始めようか」
この船には「正義」という名札が付いている。
その航路は私腹へとまっすぐ向かっている。
本当に変わっているのは社会ではない。
変わっていくのは、利用される若者たちの顔ぶれだけだ。
ヴィン・ディーゼル(当時55歳)や、ミシェル・ロドリゲス(当時44歳)がすっかりシワシワになっちゃってて
まぁワイスピ1の時はヴィンはまだ33歳で、ワイスピ1、バイオ1のときのミシェルは22歳。
そりゃ年取るよな。
内容はいつも通りバカが脚本書きました!って感じでよかったんだけど、
※ワイスピ自体が倫理観終わってるシリーズだろという点は考えないものとする。
今回もいつも通り強大な敵からヴィンファミリーが追い詰められる話なんだけど、
ヴィンの息子リトルBにも魔の手が迫り、かつて敵として登場したヴィンの弟であるジョン・シナが
リトルBと一緒に逃走劇を繰り広げるんだけどさ。
その中でキャノン砲を積んだバカ車が登場して、それをぶっ放して敵の車を砲撃するシーンがあるんだよ。
シナがレバーで弾をキャノン砲にこめて、リトルBが発射レバーを引くとキャノン砲が発射されて
アワレ敵車に直撃、敵車は大爆発して燃え上がるのであった。
あのさぁ、リトルBってたぶんまだ小学生くらいだよ。
キャノン砲付き自動車カッコいい!カーチェイスカッコいい!でテンション上げてうやむやにしてるけど
小学生にゴリゴリ殺人させてるの、しかも直接的に引き金ひかせてるの相当マズいでしょ。
これ、逆でよかったよね?
リトルBが弾込め係で、シナが発射係でよかったよね?
もちろんそれでも共犯ではあるんだけど、本人が直接引き金引くよりもまだ倫理的だよね?
何を考えてこんな脚本にしたん?って感じだし、誰も指摘しなかったん?
別に子供に殺人を犯させることがなにがなんでもダメって言ってるんじゃなくて、
それなりに大きな事案なのに雑にやりすぎじゃない?
チュドーン!やったぜ!イエーイ!じゃないだろ。小学生の人生初の殺人だぞ。
もっと取り扱い方があったんじゃないのってハナシ。
元からファミリー以外には何やってもいいって倫理感が指摘されてるシリーズではあるけど
今回の演出というか展開は流石に一線を画してると思ったわ。
BL無罪というのも結局は文句を言ってネットで煽って一般的な書店から男性向けエロを駆逐していった結果、書店から男性客が減り、その穴を埋めるためにBLや女性向けエロの販売スペースを目立つ位置に配置し、女性客に訴求していく必要があったのではないだろうか
エロ漫画のついでに一般向けも買っていたような男性客(逆もあるだろうが)は既にAmazonなどネット販売に定着してしまって、書店をあまり利用しなくなってしまったのだろう
一度遠のいた客足は大々的なキャンペーンでもしない限りは戻りはしないだろうけど、大々的なキャンペーンをできるようなジャンルでもなし
色々考えてみても現状から男性向けエロを一般書店に復活させることはもはや無理筋のように思われる
「死なば諸共」とばかりにBL規制を叫ぶ声に「おいおい」と思うこともあるが、もしかしたらこうして一度全てが失われた上で男女が手に手を取りあってエロ漫画の書店販売の復活を目指す運動を起こす事の方がもしかしたら希望があるのかも知れない(希望的観測)
しかし、どんなやり方があるにせよ板挟みになって苦しむのは書店だろう
現状としては書店を人質に取ってBLや女性向けエロの販売スペースを拡充させている様な格好で、意図してこの状況を引き起こしたとしれば「真っ黒」と言う表現では足りないくらいに悪辣であると思う
「抵抗しなかった書店も共犯だろう」と言われればそうかも知れない
ストックホルム症候群と似たようなもので、書店側は本来抵抗すべき圧力に対して迎合し、それを正当化することで自身を守っている、と言うような状況なのかも知れない
もし今後BL規制に関する状況が進む中で書店側が何かしら不利益を受けたとしても、自分自身としてはそれが必ずしも自業自得であるとは言えないと思ってはいるものの、書店を気の毒には思わない人間に対して自分は軽蔑の念を抱かないだろう
現実の女性に対して性的加害を加えることは、当然ながら社会的にも倫理的にも許されるものではない。だが一方で、中高年男性が性欲や孤独、劣等感といった重たい感情をどう昇華するかという問題は、今の社会でほとんど語られない。むしろ、語ろうとした瞬間に「気持ち悪い」「加害者の言い訳」として切り捨てられてしまうことすらある。
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そんな中で台頭してきたのが、AIによるエロ動画の生成、あるいはSNSや配信サイトなどにおける“中身が男性であることが明らかな”女性アバターとのやりとりだ。男性が女性を演じ、男性たちが下品なコメントを投げかけ、それに笑顔で返す。そうした空間が、奇妙な安らぎと慰めを生み出している。
この光景をどう見るか──筆者はそれを、ある種の「ユートピア」と捉えたい。
この仮想空間に登場する“女性”は、あくまでAIであり、あるいはアバターを被った男性である。つまり、現実の女性が直接的に傷つくことはない。それどころか、そこにいるのは「性的に欲望をぶつけられる側の役割を演じることで、他の孤独な男性の欲望を吸収し、昇華させる」という構造である。
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ここにあるのは、「男が女を演じ、男を癒す」という、倒錯していながらも非加害的で、ある意味で誠実な相互扶助の形だ。
これはまさしく、フェミニズムが掲げてきた理想──非暴力、対話、承認、癒し──を、現実ではなく、テクノロジーと演技の仮面を通して実現してしまった構造なのではないか?
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中高年男性の孤独や貧困、性欲、承認欲求。これらはたいてい、社会から「自業自得」「キモい」「加害者の末路」として放置される。彼らが弱さを吐露しても、それは決して「救うべき対象」とはされない。
リベラルやフェミニストが掲げる“弱者の救済”は、往々にして「かわいそうと思える者」「絵になる弱者」に限られる。女性、子ども、外国人──こうした属性に比べ、中高年男性は「強者」として分類されがちだ。だが、強者であるという記号と、個人の苦悩はまったく別の話だ。
そして、彼らは静かに、そして効率的に「誰も傷つけずに自己処理できる空間」を求めて、AIやアバターの世界へと吸い込まれていく。
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もちろん、これは“逃避”の一形態であることは否定できない。だが一方で、誰かを傷つけることなく、欲望や孤独、弱さを処理し合える場を仮想空間に創出しているのだとしたら、それはある意味で社会的進化ではないか?
現実の女性から拒絶され、社会から「黙って消えてほしい」と思われている中高年男性たちが、せめてAIやアバターの中で「弱さをさらけ出し、誰にも叩かれず、癒される」場所を手に入れること──これは、皮肉ではなく本気で考えるべき次の社会的フェーズなのかもしれない。
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この構図を気持ち悪いと笑うのは簡単だ。だが、そこで笑ってしまったとき、私たちは一体誰の側に立っているのだろう?
おそらく、今この瞬間にも、無数の“救われない者”たちが、AIの女性キャラに話しかけ、慰められ、画面の向こうの「中の人」が、無言の共犯関係としてそれを受け止めている。
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それはまるで、顔のない男たちによる、顔のない癒しのネットワーク。暴力のない性。弱さを許される場所。そんな風に、仮想空間はいつしか、現実よりも人間的なユートピアになりつつあるのかもしれない。
この現象は、フェミニズムが求めたはずの「非暴力で、合意的で、弱さを開示できる性の文化」が、テクノロジーによって先に実現されてしまったという、静かで根深いパラドクスを私たちに突きつけている。
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❶ 批判:「AIエロは学習元の“実在の女性”を間接的に搾取している」
反論:
多くのAIモデルが女性の身体的特徴や表情、ポーズ、雰囲気を学習しているのは事実だろう。ただ、それ自体が即「搾取」になるかというと、データの使用と人格の侵害を一緒くたにしているように見える。
AIが学んでいるのは「特定の誰か」ではなく、集合的なパターンに過ぎない。
たとえるなら、美術学生が裸婦画を模写して描き方を学ぶようなもの。模写や鑑賞が搾取だと言うなら、美術や表現そのものが成立しない。
さらに現在のAIエロコンテンツの多くは、創作キャラやフィクションで構成されており、実在の個人の人格権を直接侵害しているわけではない。
現実の性産業と比較すれば、AIによる代替行為は圧倒的に搾取度が低い。出演者はいないし、金銭による支配関係もない。むしろ、ポルノグラフィーの非人格化・非暴力化が進行している段階にある。
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❷ 批判:「“女性性に癒しを求める”という構造自体が時代錯誤である」
反論:
この指摘は重要だと思う。「女は癒し役であるべき」という旧来的な性別役割の押しつけがずっと続いてきたのは確かに問題だった。
ただし、AIエロやアバターの世界で起きているのは、現実の女性に癒しを要求している構造とは異なる。ここにあるのは、演技された女性性、あるいはAIが演出する女性的存在への一方的な投影であって、実在の誰かに何かを求めているわけではない。
つまりこれは、他者に癒されることを放棄した人間たちが、自分たちで「癒される構造」をつくってそこに潜り込んでいるだけ。古いジェンダー役割の再演というより、ケアの自己完結システムへの移行とも言える。
そして、女性的な癒しに価値を感じる文化的コードやフェティッシュが残っているとしても、それがただちに抑圧的だとは限らない。
仮に「女性性を求める欲望自体がアウト」だとするなら、トランス女性の存在や、BL・百合・ボーイズラブといったジャンルも一括で否定されることになる。そういう雑な線引きは、むしろ表現の幅を狭めるだけだ。
この構造で求められているのは、「女性に癒してもらうこと」ではなく、「女性的な構造で癒されること」に過ぎない。そこを時代錯誤と切り捨てるのは、あまりに乱暴だ。
---
反論:
今の社会には、「男性が性欲や弱さを語る場」がほぼ存在しない。何を言っても「キモい」「加害者の被害者ヅラ」と断罪されて終わる。
だからこそ、現実から退避して、誰も傷つけず、誰にも迷惑をかけない場所──AIやアバター空間──に逃げ込む。
誰かに嫌われないために、自分たちで仮想的なユートピアを構築している。それは中心でも優越でもない。むしろ、周縁の、地下の、逃げ場としての性のかたちだ。
誰にも迷惑をかけず、暴力もふるわず、ただ欲望や孤独や弱さを処理する。それが「男性中心的だ」と非難されるのだとしたら、むしろそれは、もう語ってはいけないという無言の通告と変わらない。
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この仮想空間は、搾取でも時代錯誤でもない。現実から見捨てられ、語ることさえ許されなかった中高年男性たちが、ようやく辿り着いた「誰も傷つけず、誰にも傷つけられない場所」だ。そこに滲む切実さを、ただ「構造」や「男性性」のひとことで斬り捨てる行為こそが、実は一番残酷なのではないか。
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※なお、この文章はAIによって生成されたフィクションです。とりあえずAIで英語の女アカウント作ったら、世界中のガチ恋おじさんが「俺の20センチの〇〇〇見せていい?」「今度日本に行くんだけど会えない?」とか言ってきて、最初は引いたけど、冷静に考えたらこれって互助だよな…… という気持ちが消えなかったので、そのまま論文っぽく書いてもらった。
法規制を求めているのがフェミニストや国連機関だって事実と向き合わざるを得なくなるから
大好きな共産党の候補を挙げたら「フェミニストの請願の紹介議員やってる」と突っ込まれる
なのでid:segawashin(バカ)のように「私にとっての一丁目一番地は創作物の表現の自由」というオーダーを無視した提案をするか
id:Domino-R(アホ)みたいな「みんなーこいつ無視しようぜ!」という幼稚な反応しかできない
【追記】
mutinomuti 普通にモザイク規制から始まり、都や鳥取に代表される刑罰付き表現規制を率先して作っているのは自民党ら自称保守だけどな(´・_・`)石原慎太郎がリベラルとか笑わせるようなこと言い出したりするんかな。事実の直視を
保守とフェミニストが規制を求めてるのは両立するだろーがタコ。児童ポルノ禁止法へ盛り込まれそうになったアニメマンガ規制はフェミと保守の共犯だってことも知らんのか
izure 昭和あたりに成立した"性嫌悪の教育ママ"のままのイメージで今のフェミニストを語ってる人って感じだ。日本で表現規制通してきたのって実績を勧誘に使える宗教系と、映倫に天下る警察OBとかで、今も与党の票田よ
国連機関が「アニメマンガも児童ポルノとして規制しろ」って要求出すのに一役買ってんのは日本のフェミニスト団体なんだが?
お前こそ第2波フェミニズム辺りで止まってるフェミニストイメージをさっさとアップデートしろ
oka_mailer もしかして表自が現行法規制や行政の規制を批判しないのは、日本の保守が法規制を進めてきた現実と向き合わざるを得なくなるからだったりする?
表自はお前みたいなアホはてサよりはよほど熱心に刑法175条批判してるが?山口貴士はろくでなし子の弁護担当してたが?お前こそ事実や現実と向き合えバーカ
Arturo_Ui ゾーニングやレーティング程度のことを「法規制」と呼んで全否定するの、バカ丸出しで稚拙な手口だから程々にな? 酒やタバコの売り場が分けられてるのを「『営業の自由』の侵害だ!」とか騒ぐ奴なんかいないだろ?
で、でたー!ゾーニング云々言い出すバカ。あのなー国連やらフェミニストやらが求めてんのは「非実在だろうが児童描いてたら児童ポルノ同様に規制しろ」なの。お前が住んでる日本では児童ポルノはゾーニングさえしとけば流通が許されてんのか?
donovantree 自民党選対委員長木原誠二さんは無視ですか「実在しないとはいえ、児童を対象とした過激な性的・暴力等はそもそも適法ではなく、また、当該表現に影響されて犯罪を惹起する可能性がある〜」https://shuinsen2024.afee.jp/
お前こそそのリンク先で共産党の大内まり(落選)が「欧米諸国程度に規制しろ」って言ってんの無視ですか
yowie 表現の自由が重要なのは、民主主義の基礎となる議論に不可欠だから。逆に言えば、議論を大きく阻害しないなら規制もある(薬機法や名誉棄損等)。規制の議論自体を揶揄して表現の自由の守護者気取りねえ。
規制を求めるような候補は支持できないという話でしかないんだが「規制の議論自体を揶揄」ってナニ?
Domino-R 来たぞw /左翼が一定の規制・自主規制があるべきと考えるのはその通りでオレもそうだ。それが強制力を持つ法権力によるかはグラデーションがあろうが、留保なしの自由が持つ加害性を放置できるほどおめでたくはない。
そう、最初から正直に「左翼は基本表現規制派なんで、左翼のボクは表現の自由を守る代替候補を挙げられません」でいいんだよ
なんでクソガキみたいなムーブしちゃったの?
ChatGPTと哲学的に議論したところ、思いがけず興味深い展開になったのでメモっておく。
選択的夫婦別姓の議論は、単なる法律の修正にとどまらず、私たちが「家族」や「個人」、「自由」についてどのように理解し、どのように他者と共に生きていくのかという、深い倫理的問いを私たちに突きつけている。これは、制度の整備によって個人の自由を拡張することを目指しつつも、そのことによって新たな葛藤や排除が生まれうるという、自由そのものの逆説的性格に由来する問題である。日本においては、明治期以降、戸籍制度の下で夫婦は同姓とされてきた。それは「家」を単位とする社会制度の表れであり、制度に従うことは“当たり前”とされていた。戦後、民法は大きく改正されたが、戸籍の構造は根本的には変わらず、「1戸籍=1氏」の原則が続いている。この形式は一見中立に見えても、現代社会においては多様な家族形態や女性の社会進出、国際結婚の増加などに対応しきれておらず、「選択的夫婦別姓」への要望が強まっている。
一方で、反対の声も根強い。その中には、「戸籍制度の一貫性が失われる」「家族の一体感が損なわれる」「子どもの姓をめぐる混乱が起こる」などの制度的・情緒的な懸念がある。とくに、「一つの戸籍のなかに複数の姓が存在すること」への違和感は、「家族とは何か」という問いと直結している。反対派の主張として説得的だと思えるのは、制度改正にかかる行政的コストが得られる利益に比して高すぎるとの主張である。
ただ、こうした議論のなかで、見過ごされがちなもう一つの問題がある。それは、「選択的」であることが、すべての人にとって自由であるとは限らないという逆説である。改革に伴い、精神史的あるいは文化的な意味で目に見えない傷を残すことになりかねないことに気が付いた。これはもうひとつのコスト問題といえるだろう。
選択肢が増えることは、確かに一部の人にとっては歓迎される。しかし、これまで「自明なこと」として受け入れてきた選択肢しか知らない人にとっては、「選ばないこと」すら“選んだこと”として扱われるようになる。その結果、「なぜあなたは同姓を選んだのか」と問われること自体が、新たなプレッシャーや説明責任となり、無言のうちに選ばれていた価値観を「語らされる」状況が生まれる。
W・ベックは「リスク社会」のなかで、近代社会における制度や技術の発展が新たなリスクを生み出し、個人がそのリスクを自己責任で管理・選択することを求められる状況を「第二の近代」と呼んだ。家族制度の再編や個人化の進行は、まさにその一端であり、個々人が従来の慣習に頼ることなく、「選択しなければならない自由」のなかに放り込まれている。
選択的夫婦別姓制度も、こうしたリスク社会における制度の一つと見なせる。個人の自由の拡大は、必ずしも解放ではなく、「選ばなかった理由を問われる不安」や「所属の根拠を失う不安」といった新たな社会的リスクを伴う。それゆえ制度設計においては、ベックの言うような“制度化された個人化”が生む影の部分——すなわち、自由と責任の過剰な個人化による孤立や不安——をも視野に入れる必要がある。
この現象は、韓国で2008年に導入された「個人単位戸籍制度(家族関係登録簿制度)」の議論にも通じる。韓国では長らく「戸主制度」が存在し、家父長制的家族観が法制度にも深く根を下ろしていた。2000年代に入り、女性団体や若年層からの批判を背景に、家制度的枠組みを廃止し、個人を単位とする新たな制度へと移行した。しかし、それによってすぐにジェンダー平等が達成されたわけではない。
むしろ、制度改革後に見られたのは、「選べる自由」が広がった一方で、「選ぶことを求められることの重さ」が可視化されたことである。これまでの夫婦同姓制度では、「姓は変えるもの(主に女性が)」という文化が、慣習として“疑いなく受け入れられていた。
ところが選択肢が生まれると、たとえ同姓にしたとしても、「それは自分の意思か?」「配偶者に強制されたのでは?」「女として主体性があるのか?」という「選択の真偽」を問う視線が生まれる。これは日常の選択に、政治性と倫理的自己確認を持ち込む構造でもある。
たとえば、韓国の若年層においては、恋愛・結婚・出産の三つを放棄する“Sampo世代(三抛世代)”という言葉が流行し、さらに結婚・出産・恋愛に加え、家族・男性との関係・異性愛自体を拒否する「4B運動(非婚・非出産・非恋愛・非性愛)」が広がった。これらは、制度的改革の先にある、よりラディカルな文化的実践であり、「選択肢があること」そのものに抗する自己防衛的な態度とも言える。4B運動の担い手たちは、単に従来のジェンダー規範を拒否するのではなく、「社会的な所属関係」そのものを解体する動きを見せている。たとえば、4Bの参加者たちは、「家族に説明しなくていいから、恋人もいらない」「自分の性を自分で管理する」といった語りをSNSで共有し、連帯と承認を得ている。ここには、制度の外にとどまることによってむしろ自己の尊厳を保つという新たな主体性の表現がある。ベックのいう「選択の強制」への拒絶反応が韓国社会でこうした形で現れているのは興味深い。
こうした言語化をめぐる現象は、日本ではすでに1970年代から表現としての萌芽が見られた。たとえば中川五郎の《主婦のブルース》(1969年)は、まさに「沈黙の自由」と「自明性のなかに生きることの苦しさ」を逆説的に描いたフォークソングである。選択の自由すら与えられず、「女とはこういうもの」として役割に組み込まれた存在の叫びが、ブルースという形式で“語られる”ことによって、沈黙が破られるという構造になっている。中川五郎の歌は、現代フェミニズム運動の文化的系譜のなかで、語られなかったものを語ることで、社会の“自明性”を暴き出した初期の詩的実践と見ることができる。
一方で、この作品は、主婦という存在が社会的変革の外側に置かれ、家の中で沈黙していること自体が、政治的意味を持つという問題を描き出している。作品中の主婦は、学生運動に参加する息子から「沈黙は共犯だ」と責められるが、自らの言葉で「家庭が一番」「まじめに生きるのには疲れたわ」と語り返す歌詞がある。息子の視点は、60年代〜70年代左派運動(ベトナム反戦、学生運動、階級闘争)の倫理に基づいている。「沈黙は共犯」とはサルトルの実存主義的倫理を象徴する言葉だ。
「まじめに生きるのには疲れたわ」という母の言葉に現れるのは、正しさからの逃走である。政治的主体でもない、声高に抗議しない、けれども一日を必死に生きる――そういう「声なき多数者のリアリティ」である。この「疲労の言葉」は、政治的正義の言葉ではすくい取れない主体の感情的深度を表しており、母として、女性として、主婦として生きる複雑な立場が凝縮されている。ここで描かれる沈黙は、単なる服従や無知ではない。むしろ、言葉を発することに慎重であるがゆえに沈黙を選び、その沈黙をもって自己の尊厳と日常を守ろうとする姿勢である。この沈黙には、語らないことによってしか保てない尊厳と、自己存在の最終的な防衛線が込められている。
しかし、「語らないことを自分の意思で選ぶこと」を歌を通じて語るところに沈黙の自由のジレンマがある。
このような表現は、フェミニズムの文脈においてしばしば見落とされがちな、語らない主体の論理を可視化する重要な契機となる。また、このような「語らないこと」の倫理は、寺山修司の詩作にも見られる。たとえば阿部定事件を主題にした作品群では、語られすぎた欲望や暴力の物語の外側に、語られないままの沈黙が配置される。寺山にとって、語ることによって自己が立ち上がるのではなく、語らないことによってこそ輪郭を与えられる主体が存在するという逆説が重要であった。とりわけ彼の詩や戯曲に描かれる女性像(娼婦、母、乙女)は、しばしば制度の外に佇み、語られずにいることによって、むしろ社会の暴力性を照らし出す存在として描かれる。
沈黙のうちに自己の選択を成立させる女性の姿は、語ること・主張することを通じて自我を立ち上げてきたフェミニズムの流れとは一線を画しながらも、それを内側から補完しうるもう一つの可能性として位置づけられる。《主婦のブルース》と寺山修司の詩作は、「語らなければ存在しない」という制度的圧力に対し、「語らないままに存在し続ける」ことが、制度に対する対抗的な主体性のあり方となりうることを提示していた。
この観点から見ると、制度設計においては、「語る自由」と同様に「語らない自由」「沈黙する権利」をいかに尊重するかが問われることになる。
このような非対称性の問題は、他者との関係において自我がどのように成立しうるかという哲学的問いへと接続される。具体的には、制度によって「語らないこと」が許容されるべきかどうか、また沈黙する者をいかに制度の中で位置づけるかという課題が生じる。
ここで参照されるべきは、社会学者チャールズ・ティリーが論じた「カテゴリー的不平等(categorical inequality)」の概念である。ティリーによれば、社会制度はしばしば人々を特定のカテゴリーに分類し、その分類を通じて資源や権利へのアクセスに構造的な差異をもたらす。選択的夫婦別姓制度をめぐる議論においても、「姓を選ぶ/選ばない」という区分が制度的に固定化されると、それ自体が新たな社会的境界を生む可能性がある。たとえば、同姓を選んだ者が「伝統を守る保守的立場」とされ、別姓を選んだ者が「変革的/進歩的」な立場と見なされるなど、個人の選択が無意識のうちに政治的・文化的ラベリングを受ける事態が生じる。これは、選択の自由があるからこそ、逆に選択内容が新たなアイデンティティの指標となり、当人の意思とは無関係に社会的評価や区分の根拠とされるという新たな境界である。そのため、制度設計には、カテゴリー化の力学が生む潜在的な排除や不利益への慎重な配慮が求められる。
こうした哲学的・社会構造的な視点を踏まえたとき、制度は単に選択肢を増やすだけでなく、語らない自由や沈黙をも制度内に位置づける必要がある。ここから先は、倫理と制度の交差点において、いかにして沈黙や非選択を尊重しうるかという、より深い次元の議論となる。
まず、レヴィナスは『全体性と無限』において、自己は他者の顔に直面することによって、つまり一方的な応答責任に巻き込まれることによってこそ立ち上がると主張した。そこには、相互的なやり取りが前提ではない、倫理の根源的な非対称性がある。つまり、語られない他者の沈黙に対しても、応答を要請される私たちの姿勢が倫理の出発点であるとされるのである。こうした観点は、他者の沈黙を承認する制度設計の必要性と深く響き合う。
次に、ルイ・アルチュセールの「呼びかけ(interpellation)」論もここで参照されうる。アルチュセールによれば、個人は国家装置や制度的言説によって無意識のうちに「呼びかけ」られ、主体として構築される。つまり、たとえ沈黙していたとしても、制度の文脈の中ではすでに何らかの立場を“呼び出されている”のだとされる。この点においても、制度に対する無言の従属を単なる自由意思として解釈することには注意が必要である。
その一方で、他者の承認を通じて自己意識が形成されるという構造を体系的に提示したのが、ヘーゲルの「相互承認」の思想である。ヘーゲルは『精神現象学』において、自己意識が確立するためには他者からの承認を必要とするが、その承認は一方的では成立せず、双方が自己を表現しあう関係の中でのみ可能であると論じた。この相互承認は、対等な他者関係における自己の確立を前提とする点で、自由と平等の理念を哲学的に基礎づける重要なモデルである。
しかし、現代社会においては「自己を語らない」ことでしか自らの尊厳を保てない人びとも存在する。そのような状況では、ヘーゲル的な相互承認モデルでは十分に説明しきれない現実がある。むしろ、語らない他者の沈黙をもそのまま承認し、語る/語られる関係から降りる自由までも包摂する必要がある。このとき、ヘーゲルの構図はむしろ出発点として捉え直されるべきであり、「語らないことを承認する」ための制度的想像力は、まさにそこから展開されねばならない。
これら四人の思想家が示唆するのは、制度と主体の関係性における多層的な緊張である。ティリーが指摘した「カテゴリー化」の力学は、制度がいかにして人々の行動範囲を構造的に規定するかを示し、レヴィナスはその構造を超えて、倫理は常に非対称な他者関係から始まると主張する。アルチュセールは、制度的言説によって主体が無意識に構築されてしまうメカニズムを暴き、ヘーゲルは承認関係の対称性を通じて自由の実現を構想した。それぞれの理論は、一面的には矛盾しあうようにも見えるが、選択的夫婦別姓制度をめぐる今日の状況においては、むしろ互いに補完的である。すなわち、制度が個人をいかに分類し、語らせようとするか(ティリー・アルチュセール)を見抜きつつ、語られない者との関係に倫理を見出す視点(レヴィナス)と、語りの対称性に基づく自由のモデル(ヘーゲル)を柔軟に組み合わせることで、私たちは初めて、「語ること」と「語らないこと」がともに尊重される制度設計の可能性を構想することができる。
理屈はそうだ。しかし果たして、語らない自由の保障を制度設計に組み込めるだろうか。社会における和解を考えたとき、制度の再設計ではなく、制度外の深慮が求められるのではないか。伝統・習慣との調和を目指したE・バークのような保守の考え方のほうが示唆的だ。また、文学的なまなざしも有効な力になるだろう。
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あるいは
シン・エヴァにおいては
渚カオルは何度も何度も何度も世界をリセットして同じことを繰り返している。
シュウジというキャラが渚カオル役として何度も世界をリセットする。
ということにも気づきを得る。
マチュとはすなわち、式波・アスカ・ラングレーを雛形としてつくられたキャラではないのか?
あの直情型で、負けん気が強く、そして何よりも「恋に生きる」ことに何のためらいもない性格。
もちろん色々と違う部分もあるが基本的な原型はアスカにあり、あとはいかにしてアスカというものから外していくかの作業を経た形にも見える。
というと
綾波レイにその原型を求めることが出来るのだろうか?
権力者の道具(碇ゲンドウ=キシリア・ザビ)として利用されることになんら抵抗を抱かない。
シン・エヴァンゲリオンにおいて
渚カオル
の三者は
駅のホームで素知らぬ顔で突っ立っている3人には
ガンダムという食材をぶち込んで煮て、炒めて、そして作り上げた。
そんな作品のようにも感じられる。
「ELDEN RING NIGHT REIGN」と「モンスターハンターワイルズ」について考える。
ナイトレインは最初「賛否両論」だったのに、今や「非常に好評」で話題沸騰。一方、ワイルズは前作ほどの熱気を感じない。同接も伸び悩んでるらしい。
この2つに共通してるのは、どっちもCOOP可能なアクションで、ボスを倒して強くなるいわば「ボスハント系」。しかも有名IPで買い切り型。
(まあそもそも、ガチャまみれの基本無料ゲーが幅を利かせるこのご時世に、フルプライスでガチのゲーム体験を提供しようって心意気は素晴らしいと思う)
じゃあ、なんでこんなに明暗が分かれたのか?
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まずはナイトレイン。リリース当初は「やっちまったかフロム…」って雰囲気だった。
「エルデンリングの名前借りた別ゲー」「ソロ無理ゲー」「ローグライク要素がただの運ゲー」と散々。
ナイトレインの基本は、最大3人でランダム生成マップ「リムベルド」を探索。時間と共に雨がエリアを狭め、プレイヤーを追い詰める。(Apexとかのアレ)
道中、エリアボスを狩って装備やら「潜在する力」(ランダムなパッシブ)を集め、最後に大ボス「夜の王」を倒すのが目標だ。
この辺りがローグライク要素だが、初期の体験はピーキーすぎた。運が悪いとクソビルドでYOU DIED。「賛否両論」もさもありなん。
超前提となる部分。フロムのお家芸だ。「夜の王」はマジで強い。初見じゃまず勝てない。でも、死んで、学んで、ビルドを練り、仲間と連携して勝った時の脳汁は半端ない。このフィードバックループが強烈なんだ。
報酬設計も上手い。クリア報酬はもちろん、道中でも良いものが手に入り、何より「潜在する力」や武器パークとの新たな出会いが「もう一回!」とプレイヤーを駆り立てる。これが結果的に長く遊んでもらえるインセンティブになってる。
・時間的・空間的制約による緊張感:夜によるエリア収縮で、常に「どこを優先して探索するか」「どのリスクを取るか」っていうギリギリの判断を強いる。この焦燥感がたまらない。
・状況判断を迫るルート選択:エリアボスや強敵はそれぞれ弱点や報酬が違い、戦略が変わる。
・ローグライクのランダム性:毎回違うマップ構造、違う敵配置、違うビルド。神がかったシナジーで無双できた時の快感は病みつきになる。
フロムの対応はマジで早かった。すぐソロ難易度を調整するパッチを当て、ソロでもやれるバランスになった。
並行して、コミュニティが成熟。有志が攻略情報を共有し始め、メタゲームが形成された。開発もこれを見てか、不評な要素を調整し、プレイヤーの声に耳を傾けた。この対話姿勢はデカい。
で、①~③がエルデンリングIPと見事に融合。「リムベルド」の雰囲気、フレーバーテキスト、キャラクターの背景。どこを切っても「エルデンリングらしさ」が滲み出てる。
それでいて、ゲームシステムは新しい。既存ファンは驚き、新規は純粋にCOOPローグライクアクションとして楽しめる。このバランス感覚が絶妙だ。
ナイトレインのプレイフィールは、SEKIROのパリィ、Bloodborneのステップ回避、そこにローグライクのランダム性とビルド構築の奥深さを加えたような、それでいてフロム印の激辛テイスト。最高だ。
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さて、ワイルズだ。俺も初代からプレイしてるが、ワイルズは…「惜しい」。
アクションは進化してる。武器モーションも気持ちいい。だが、胸を張って「神ゲー!」とは言えないモヤモヤがある。
こっちも理由は大きく3つだと思っている。
ワイルズの目玉の一つが「オープンワールド」だった。確かにマップはシームレスだが、プレイすると「ただ広いエリアが繋がってるだけじゃね?」と感じる。
結局「クエスト受けて特定のモンスター狩って帰還」という伝統芸能と変わらない。ファストトラベルが便利すぎて探索の動機も薄い。オープンワールドである必然性が感じられない。
エルデンリングみたいな「あの崖の上、何かありそう…!」みたいなワクワク感が皆無。
ストーリーも力入れてるって話だった。キャラの個性は立ってるし、演出もリッチ。でも、物語が…そこまで深くないし、ゲームプレイとの有機的な連携が絶望的にイマイチ。
クリアすると「はい、ここからはいつも通りね」って感じで、集落もNPCもほぼモブ同然で、マジで用済み。
ストーリーモードはあくまでチュートリアルってことだとしたら、それはそれで長すぎる。
現状のエンドコンテンツは、アイスボーンの「導きの地」みたいな革新的なものが見えてこない。歴戦個体や特殊個体をひたすら周回するだけだと作業感が強い。
モンハンはエンドコンテンツでどれだけ飽きさせないかが重要。そこが弱いと古参ほど早く離れる。
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ざっくりそれぞれの良さと悪さを見てきた。
じゃあ、なんでこんな差がついたのか?をもう少しポイントで比較してみる。
ナイトレインは「超高難易度への挑戦 → 壮絶な失敗 → 必死の学習・ビルド試行錯誤 → 仲間との連携・再挑戦 → 脳汁ドバドバの達成感」という、まさに「死んで強くなる」を体現した強烈なループ。
ローグライク要素による無限のリプレイ性、そして何よりコミュニティ全体で攻略法を編み出していく「祭り」感が、プレイヤーのモチベーションを異様なレベルで維持してる。(いわゆるKPIみたいな話で言えば、「プレイヤーの平均睡眠時間」が著しく低下してるはずw)
ワイルズは伝統の「狩猟→剥ぎ取り→武具強化」ループは健在だが、新要素が上手く強化できていない。むしろ、「探索の自由度(という名の移動の面倒くささ)」や「物語への没入感(という名の強制イベント)」が、従来のモンハンのテンポを削いでるようにすら感じる。
ナイトレインはマップはランダム性がありつつ「考えさせる」作り。慣れて来ても、何だかんだ油断すれば即死の緊張感が続く。COOPでは、スキルやアーツを駆使した役割分担が自然と生まれる。ソロプレイは…まあ、フロムゲーマー向けの苦行だが、それすらも戦略性の塊だ。
ワイルズはマップは綺麗だが、探索の楽しみや戦術的な深みは物足りない。COOPは楽しいが、それはモンハン元来の面白さだ。
ナイトレインは初期は荒れたが、開発の迅速な対応とコミュニティの成熟でV字回復。運営とコミュニティの理想的な共犯関係って感じに見える。
ワイルズはユーザーの声への反応が鈍かったり、アプデのロードマップも、なんだか悠長というか、「え、それ次の大型アプデまで待つの?」みたいな感じで、プレイヤーの不満や渇望感が解消されないまま時間が過ぎていく。
結果、「アプデ来たら本気出す」勢が、アプデが来る前に力尽きて離脱しちゃう。
ナイトレインは、エルデンリングの持つダークファンタジーの世界観、シビアなアクション、そして何より「困難を乗り越える達成感」というコアな魅力を完璧に継承しつつ、ローグライクCOOPという全く新しいゲームデザインに挑戦し、見事に成功させている。これぞIPスピンオフのお手本と言っていい。
モンハンという巨大IPの「お約束」と「革新」のバランスを取ろうとして、結果的にどっちつかずの中途半端なものになってる感が否めない。新要素が、モンハンのコアな楽しさを薄めてしまっている部分がないか、もう一度ゼロベースで見直す必要がありそう。(「伝統を守る」ことと「何もしない」ことは違うが)
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ナイトレインの成功を読み解くと、成功するゲームは「作り手が一方的に提供するもんじゃなく、作り手と遊び手が一緒になって育てていくものなのかも」と思える。
ある意味、エルデンリングという看板に胡坐をかくことなく、全く新しいゲーム体験を生み出そうと足掻いた挑戦とか熱量が俺たちプレイヤーに伝わったのかなと思う。
というわけで、強化されて登場したらしいエデレ氏を狩ってきますわ。
これはある意味で正論だと思う。だが、それでも語らざるを得ない現実がある。
自分は選挙にほとんど行かない。国政も地方選もスルーしてきた。
行ったのは大阪都構想の住民投票ぐらいだ。つまり、年単位で“見送って”いる。
ヤフコメで世論を俯瞰し、Xで炎上の火元を追い、政党の戦略や支持率の動向はかなり見ている方だと思う。
なのに、投票はしない。
これがどういう構造に支えられているのか、今回はそこを掘ってみたい。
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まず投票とは行為としてどういうものか。ざっくりこう分けられる。
① 候補者を選ぶ
② 投票所を調べる
③ 投票日を確保する
④ 実際に出向く
⑤ 投票する
表面的にはシンプルだが、実際はこの一つひとつが「地味にめんどくさい」。
特に②「投票所を調べる」と③「投票日を空ける」あたりで離脱する人は多いと思う。
・案内ハガキを紛失した
・日曜に予定が入った(というか優先順位が低い)
この程度の“微差”が、意外と大きな脱落要因になっている。
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3. 投票しないのは「怠惰」ではなく「最適化」だと思っている
むしろ、**“自分の生活を最適化した結果の判断”**として、それなりに合理的だと思っている。
なぜなら、こう考えているからだ:
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この「掛け算の期待値」が低すぎる限り、行動にはつながらない。
だからこそ、投票に行ったことのある大阪都構想だけは例外だった。
あれは、自分の住んでいる自治体そのものの構造が変わる話だった。
「これはスルーしたら、後で後悔するかもしれない」
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SNSやはてな界隈でも、政局にはやたら詳しいのに、投票には行かない人は多い。
情報を集め、批評し、ときに拡散もするが、実際の制度設計には関わらない。
この振る舞いは、民主主義の根幹から見れば“共犯的”とも言える。
いまの政治構造を補強してしまっているのは、紛れもない事実だ。
投票しない選択は、たしかに一票を投じたことと同じくらい重い“行動”である。
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5. じゃあ何があれば、投票するのか?
これは明確だ。
そのどれかが満たされれば、行くと思う。
逆に言えば、それがない限りは行かない。
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6. 投票を「生活の最適化行動」として見る人間の存在も、許されるべきでは?
そういう層が「行動しないことで政治に加担してる」という矛盾を認識しながら生きている。
それをただ「政治無関心」と切って捨てるのは、ちょっと雑やと思う。
社会が変わるときって、たいていこういう「普段は動かない層」が動いた瞬間から始まる。
だから、その起点は残しておきたいし、そういう人間が情報を発信する余地も残しておきたい。
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投票はしてない。でも、見てる。